わたしは、ファイナルストーリーでは、あの人を確定することが出来ない。と、前回のブログで書きました。
その理由を書こうと思います。
それは、
キャンディキャンディのファイナルストーリーは、未完のイメージ作品だと思っているからです。
ですので、曖昧なイメージ作品では、あの人を確定することが出来ない…と思うわけなのです。
ファイナルというのは、『名木田先生がキャンディを書くのが最後』ってだけで、『キャンディキャンディというストーリーの最終稿』ではない…と、思うんです。
名木田先生は、あのひとを明確にするには、長いストーリーが必要って言ってますよね。
そして、作者は、そのその長いストーリーを、細部まで深く詰めていないだろうって、わたしは、思っているのですよ。
深く詰めずに、ファイナルストーリーは描かれたと思うんです。
だから、もしも長いストーリーを作ったら、その発表する場の文字数などのサイズによって、エピソードも変化するだろうと思います。ということは、ファイナルのエピソードの時系列も変化して、変わると思うんです。
だから、あのファイナルを、いくら読み込んでも仕方ないと思うんですよね。
どんなに読んでも、『描かれていないこと』までは読むことが出来ませんよね?
水木先生は作家で、いつもお忙しくされてますよね。
書かない予定のモノを、そんなに深く詰めて作れないと思う。
それに、どんなに細かくあらすじを作っても、実際に作品にして、書き起こして行くと、ズレが出てきたりするもんです。
(実際、アンソニーの死も、バラの死から、落馬に変更になったりしてますよね。テリィが主役を喰ってしまったりしています。)
そういう事から、ファイナルは…。
あらすじのイメージを伝えているだけの作品だとわたしは考えます。
そして、そのイメージ作品に、原作者は、テリィっぽいエピソード、アルバートさんっぽいエピソードをそれぞれ散らして入れて書いているだけだと思います。
だから、あの作品に答え(あの人はどちらなのか)は隠れていないと思います。
水木先生は、FSという作品を、2人のあのひとを想定して書いたのではないか…、と最近わたしは、そう思うようになりました。
でも、
作者は、あの人を、誰だと思って描いているのか…と、そこを絞って読んで、答えを探してみるならば…。
漫画の最終回の、その後の姿が具体的に描かれているのは、キャンディとアルバートさんです。それから、ラストの人物描写は、テリィ派も、アルバートさんっぽいと受け取りますよね。
それが答えなんじゃないかな…と、わたしは思います。
わたしは…ね。
だいたい、
テリィとキャンディの2人が、どうやってスザナの死を乗り越えるのか…。そこに水木先生はどんなエピソードを授けるのか…。ファイナルには全く片鱗も覗かせてはいません。それを具体的に書くなら、今のファイナルと、全く違う時系列になると思います。
更に、テリィとキャンディが結ばれるなら、アルバートさんとの訣別があるわけですよ。もう、全然、長いストーリーはファイナルとは別物になるでしょう。
スリムの絵のエピソードなど、使わない作品になるんじゃないかなぁ。他に書くことが多すぎて…。
ファイナルは、大人になったキャンディは、しあわせに暮らしている…ということ、あの人は、ファンがその胸に描いている人でいいんだよ…ということ。
その二点を伝える為のイメージ作品である。
それが、わたしのファイナルに対する見解です。
それ故に、『イメージ作品の考察』など、意味の無い、雲を掴むようなものにしか思えません。(もとの作品が、イメージ作品なんですから。)私にはね。
イメージ作品であるとはいえ、
キャンディの、テリィのことを思うと、熟れて今にも落ちそうな杏…という描写や、
アルバートさんがキャンディに伝える、泣いてても可愛いよ…など、
素晴らしいエピソードが満載の、ファンには堪らない一冊であることは確かです。
特に、テリィファンにとっては、原作漫画では、どうあってもあの人はアルバートさんであったので、その呪縛から解き放たれ、『テリィであってもいい』という新たな決定を下しているファイナルは、特別な意味をもつものだと思います。
ですが、決して忘れて頂きたくないことは、あの人は、テリィに限定されたわけではないと言うことです。
作者の意思を尊重し、あの人は、どちらの可能性もあるとし、もう片方の可能性を排除、否定しないで、尊重しあえれば…と思います。
FSはイメージ作品。
わたしの見解です。
shushu
あのファイナルを読み込んで見えてくるものは…。空想の答えだとしか思えません。
空の雲の形をみて、これは家でね、色は赤でと、想像を膨らませているだけにしか見えないのです。
これが、わたしにとっての真実です。他の考え方もあるのでしょうが、わたしは、このようにしか思えませんし、この考え方が正しいと思っています。
ですが、わたしは、この考え方を他所のブログにまで行って、主張したり、押し付けたりする気はありません。
ブログでは、みな自分が正しいと信じていることを書いているのです。そこに乗り込んで、自説を押し売りするのは、ブログ主への侮辱であり、乗り込んだ人間の自己を過信する傲慢さと、他人には他人の考え方があるという事が理解できない愚鈍さを表していると思います。
ちなみに、
自説の押し売りは、一般的に「荒し」と呼ばれる行為です。
荒らさないように、ネットエチケットを守りましょうね。
shushu
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