田中一村という画家の生涯の作品を順に見て回って、最初の印象は、次のようなものであった。
1.この画家はどうしても画面全体に対象をびっしりと描き込んでしまう傾向から抜けられなかったのではないか。
残念ながら初期作品はこの傾向から抜け出せないで苦闘していると思う。この傾向を否定しきるのではなく、生かす方向で格闘し続けたのではないか、と感じた。
2.細密な描写へのこだわりもきわめて強い。モノクロームの画面にしろ、彩色された作品にしろ、ここから抜け出すことは最晩年にいたるまでこだわっている。
3.遠近の処理、空間の処理にも苦闘しているが、写真作品を通して、近景と極端な遠景の併存によって独自の方法を確立したように見える。特に九州への旅行以降に結実したように見える。
4.色彩、特に白へのこだわり、強調が印象的であった。
その確立のためにさまざまな技法を模索し、西洋画や富岡鉄斎や与謝蕪村の南画、浮世絵などの研究もしている。このことで、近景から遠景を覗くような構図によって広々とした遠景を想像させることに成功したのではないか。抜けるような海や空の処理が効を奏していることが、人気のひとつの要因と思える。
2の傾向では、20代前半の頃の初期作品のいくつかある《鶏頭図》のこの作品に顕著に現れていると感じた。
さらに、同じ時期の《椿図屏風》は1と2の傾向を如実に示している。椿の花弁のあまりに緻密なこだわりによって画面全体を埋め尽くしてしまい、構図や全体のバランスを失っていると感じた。葉も細密に描き込まれているが、その細密さが生きていない。花弁ばかりが浮き上がって見える。椿は艶やかながら暗い葉の中の明るい花の描き方が問われる。
むろん目を惹く作品で、私の指摘は当てはまらないものもある。ポスターにもなっている《檳榔樹の森》などである。南の島の鬱蒼とした森の様が、びっしりと書き込まれて遠近を超越している。しかし4の色彩の工夫が生きて、白が近景として生きている。
背後の白梅も存在感を失っている。
左双が未完らしいので、結論は早すぎるかもしれないが、私なりにどのような左双を想定しても焦点の定まらない作品である。
しかし鶏頭図や《菜花図》(1932)など単体を描いた作品には空白部が多く取られ、スッキリした構図も垣間見える。
戦争の時代、病弱で兵役につかなかったという一村は極端にデフォルメされた羅漢図や、白を効果的に使った清楚な百済観音図を描いている。さらに鉄斎・蕪村などの山水画を倣ったりしているが、展開はしていない。戦争の時代とはおもむきの違う百済観音図に時代に背を向けたかのような静謐さを感じる。
戦争の時代を潜り抜け、《菊花図》(1948)や障壁画、天井画などの植物画に細密画へのこだわりが再燃しているのを感じた。構図上の余白などのバランスも配慮され、画家のエネルギーの発露が窺えるのではないか。
戦後まもなくの昭和20年代、田中一村の40代、千葉時代の風景画は平福百穂などの近代南画から学んでいるとの解説がある。この時期の風景画は、色彩の明るさと広々とした空間が魅力である。しかし1や2の傾向との格闘は見られない。寂しい風景が広が。どこか模倣感があり、自己主張が感じられない。風景の寂しさは画家の寂しさ、もどかしさの反映に思えた。