Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

シューマンのチェロ協奏曲外

2024年12月04日 21時17分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨晩はシューマンの「チェロ協奏曲Op.129」、「幻想小曲集Op.73」、「民謡風の5つの小品Op.102」、「オッフェルトリウム(ミサ曲Op147より)」などがおさめられているCDを聴いた。演奏はチェロのスティーヴン・イッサーリス、ドイツ・カンマーフィルハーモニー、ピアノのクリストフ・エッシェンバッハなどの演奏である。録音は1996年から97年にかけて行われている。
 私はあまりシューマンの曲は知らない。聴くことも少ないが、この「チェロ協奏曲」と「幻想小曲集」は幾度か聴いている。気に入っている曲である。
 チェロ協奏曲では第1楽章の第1主題は耳に心地よく残る。第2楽章の伸びやかで語りかけるような主題も印象に残る。
 また幻想小曲集は3曲とも気に入っている。

 

 


追悼 谷川俊太郎

2024年11月24日 10時49分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 谷川俊太郎が亡くなったとの報道がされた。谷川俊太郎と聞くととても分かりやすい言葉による詩で親しまれている。
 まず私の頭にうかぶのは「死んだ男の残したものは」。
 「死んだ男の残したものは」という歌は知っていたが、恥ずかしながら作詞者である谷川俊太郎という名は知らなかった。この曲を初めて聞いたのは1970年にラジオで高石友也の歌ったもの。私が初めて谷川俊太郎という詩人を知ったのは、1980年代になってから。
 この歌はベトナム戦争に対する反戦歌として1965年、「ベトナム平和を願う市民の会」のためにつくられた。のちに林光によって混成合唱に編曲されている。
 平易な言葉ながら、リフレインの言葉ひとつひとつが微妙に変化し、味わい深い。「残したもの」「残さなかった」「残せなかった」「残っていない」。第4番までと第5番以降の対比も胸に響く。

死んだ男の残したものは
        作詞 谷川俊太郎 作曲 武満徹

死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは/しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった/着もの一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは/ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった/思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは/生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない/他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは/輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない/他には何も残っていない

 多くの歌手が歌っている。1960年代末に高石友也も歌っているが、やはり今年の8月に亡くなった。

高石友也【https://www.youtube.com/watch?v=7xh8vkk4iBY
倍賞千恵子【https://www.youtube.com/watch?v=bcCqmzq0d60
大竹しのぶ・長谷川きよし【https://www.youtube.com/watch?v=eHZMqFPaJwk


「欧州美術紀行」3回目 外

2024年11月15日 13時59分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昨日は二週間ぶりに神奈川大学の美術鑑賞の対面講座。「欧州美術紀行」(講師:中村宏美)の3回目「ローマ」を受講。絵画作品よりも建築物について興味ある話を効けた。絵画作品では最後にカラヴァッジョが取り上げられた。ローマは遺跡も多く、取捨選択は難しい。講師のこだわりが伝わった。
 次回は二週間後、マドリードを取り上げることになっている。これも楽しみなのだが、残念ながら退職者会のイベントと重なり、受講できない。最終回に資料をもらってこれで楽しむことで満足するしかない。

 講座は正午を少し回って終了。みなとみらいから桜木町・野毛界隈をぐるっと回って地下鉄で横浜駅に戻り、コーヒータイム。
 天気予報では太陽も顔を出すはずであったが、終日厚い雲が空を覆い、気温の割には寒々しく感じた。

 本日は予定が取り消しになり、午前中は退職者会のブロックのニュースの作成やら資料づくりを少々。ニュースは日曜日までに仕上げて、100部近く印刷しないといけない。つくり始めるのが少し遅くなってしまった。

 午後は所用があり、これより出かける。


「田中一村展」から 3 完

2024年11月14日 21時35分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 田中一村は40歳代の1950年代は日展や院展に出品するも落選を繰り返す。その間に軍鶏の写生にのめり込んだり、カメラを始める一方、1955年に聖徳太子殿の天井画などに一定の成果を出す。
 天井画や襖絵などの植物画、そして障壁画の墨絵などにも迫力があり、惹かれるものがあった。
 その間に千葉を出て、九州・四国などの旅を経て、奄美に定住する。この1955年は画業の画期と思われる。
 画期と私が思うのは、写真から近景と遠景のひとつの処理の方法を得たと思われる。普通はボケ味で近景と遠景の差を出すのだが、ピントには頼らず、近景を大きく、遠景を覗くように近景から広がるように描いている。
 さらに私がこだわっていた「白」の処理が大きく変わった。前回「白い花」の改作で、白が際立つように描かれるようになったが、「ずしの花」でも「山村六月」「由布嶽朝靄」(1955年)でも花弁、雲、水田の「白」、葉の「緑」のグラデーションが際立っている。雲の白に埋没しない花の白が美しい。
 写真から学んだと思われるが、奄美での写真と比較するとよくわかる。

               

 1958年以降、奄美に移り住むが、ここでさまざまな工夫が一気に開花したように思える。
 まずかなり縦長の構図にこだわり、近景を思い切り大きく描き、遠景の広がりを強調するようになる。覗き見るような遠景はかえって広々と開放的な印象を与え、鑑賞者の意識をホッとさせる効果がある。これもまた人気のひとつではないだろうか。
 さらに「白」が近景に際立つように配置され、花弁の色とともに「光」を兼ねるようになる。花弁や蝶にスポットライトがあたっているような「白」はきわめて印象深く、人を惹きつける。
 また鳥に少し動きが出てくる。動かない剥製のような軍鶏の作品から脱却し、鋭く鳴く鳥、飛び立とうとして力を溜めているようなアカショウビンなど、動きを切り取っている。この鳥の動きが鑑賞者の目を画面に引き寄せる効果があるのではないか。
 異時同図のように花々の蕾から萎れるまでの姿を同じ画面に表現するなどの工夫も見られる。
 ここに掲げたのは私の印象に特に残った6点。

 《パパイヤとゴムの木》(1960)、《奄美の郷に褄紅蝶 》(1968)、《アダンの海辺》(1969)、《不喰芋と蘇鐵》(1973以前)。《榕樹に虎みみづく》(1973以前)、《檳榔樹の森》(1973以前)。

 4点目は遠景がないものの背景の灰色が遠景の代用かもしれない。花の様子から花が咲く直前から実をつけて項垂れるもでの異時同図と思われる。
 5点目は、頂点のみみづくには動きはないが、左下の鳥の鋭い眼と鋭い鳴き声が聞こえそうな動き、右下のスポットライトの当たったような白い花が印象的。遠景が小さいものの海の広さが充分に感じられる。
 6点目には遠景がないものの、下と左上の白い花で、森の奥深さを感じさる。
 奄美では若い頃のように魚やエビをクローズアップして画面いっぱいに詰め込んだ作品もあるようだが、これは作品としては成功していないように感じた。

 田中一村という画家、川端龍子のもとを去ったときはなかなか頑固で不遜であったかもしれないが、自己の克服すべき課題について客観的に自覚をしていたのではないだろうか。その克服に長い年月と、美術界からの遠い「距離」が必要だったと思える。その自分なりの回答が奄美移住とその直前でもたらされたと思えた。


「田中一村展」から 2

2024年11月11日 20時56分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 1947年、田中一村は川端龍子主催の青龍社展で《白い花》が入選する。このとき小下図の段階で、同社の時田直善氏が指導し、「細かく描き込まれた画面を整理」したとの指摘があったとのことが「もっと知りたい田中一村」(東京美術)に記されている。ここでも仮面にびっしり描き、空間の処理に戸惑っている田中一村の画風が短所として指摘されたようだ。
 展覧会場でもこの作品の前には人だかりがしていた。しかし私はどうしてもなじめなかった。原因は二つある。一つ目は白色の処理。二つ目は鳥の位置の問題。
 白が浮き上がってこない。葉の緑のほうが勝っており一見「白い花」は背景の空間かとすら思える。白の顔料の問題なのだろうか。
 また鳥も緑の葉に隠れており、位置も下側にあり、そのまわりの空間まで緑で埋まり、存在感が薄い。むろん実際の鳥はそうたやすく広い空間に身を曝すことは少ないかもしれないが、構図上のバランスはあまりに悪い。
 しかし、田中一村はこの入選は自身も記念碑的な作品と捉え、同じような作品をいくつか描いている。取り上げたのは8年後の1955年の作品であ。
 こちらのほうが一般的には「洗練された」ということなのであろうが、確かに白が浮き出て見える。花の緑は前作に比べ少しくすんでおり、白を際立たせている。白い花はヤマボウシ一種だったものが3種の白花になっている。
 また鳥が大きくなり、中央の上に移り、その周囲の空間が確保され、存在感が大きく増している。左半分の空間が空いて、左上から右下への対角線の流れが自然である。
 終戦直後からこの時期まで、30歳代末から40歳代後半のこの頃は、構図、彩色の点で大きな飛躍があったと感じた。一方で違和感もある。鳥の姿は動きを想像させない。残念ながら剥製の鳥のようである。



 翌年、一村は再び青龍社展に《波》(所在不明)、《秋晴》出品し、《波》が入選するも、自信のあった《秋晴》が落選。これに抗議し、入選を辞退し、川端龍子のもとを去る。
 図録では「川端龍子は日本画を床の間から展覧会場へと解放し、繊細巧緻な表現よりも「健剛の芸術」を目指し・・大画面に合法な筆致で、クローズアップの構図とする傾向が強くあった。《秋晴》では金屏風にシルエットで樹々が大胆に表現されたものの、枝葉の表現や軍鶏の姿などは緻密で、情景はもの悲しく、龍子の「健剛」とは相容れないものだった」と記している。
 また「もっと知りたい田中一村」の解説には「速水御舟の描く構成されたケヤキの細い線、龍子はそれを受け入れなかった」という指摘があった。御舟と龍子の間の確執や作風の違いに翻弄されたというのは、穿ち過ぎの見方であるように感じる。私はもっと別な違和感をこの作品に感じた。
 それはやはり「白」の処理であり、軍鶏の動きの無さであり、無理な大根の配置であり、遠近感を無視したような建物の配置である。。
 まず《白い花》での「白」の扱いは田中一村も不満足ではなかったのではないか。画面でとりわけ目立つ「白」の描き方に画家なりに自負があったのかもしれない。しかし私にはあまりに唐突で無理な白の強調に思えた。干している大根はこんなには白くはない。もっとくすんだ白である。
 しかもケヤキの細枝は折れやすい。こんな細い枝に大根を干すであろうか。しかも高さが高すぎる。人間の手では届かない位置に干している。現実感が喪失している。ケヤキはこんな下にこんな枝を伸ばすことは無い。そして軍鶏には動きがない。
 ケヤキの幹などは厚く顔料が重なり、質感に苦労している。樹木以外にはその質感へのこだわりが感じられなかった。
 総じて現実感を「喪失した」というよりも「喪失させた」画面構成に、仏画の流れからの一村の「浄土」のイメージを想定するのは飛躍であろうか。
 もう一つの所在不明の《波》がどのような作品なのか、わからないが、《秋晴》のような方向以外の方向を模索を始めたのだと理解したい。



 1953年の《花と軍鶏》の襖絵までに田中一村は軍鶏の写生を執拗に繰り返した。伊藤若冲のように写生に明け暮れたらしい。精緻な軍鶏である。しかし私の視点では、動きが感じられない。一村のように細密画のような描き方で動きを感じさせるというのは至難の業であるらしい。

 この時期には、空間を埋め尽くしてしまう、という点では余白を十分意識する描き方になって克服したように思われる。しかし引き続き一村は「対象物の動き」「色彩のバランス」「遠近」「余白などの空間処理」等々の課題に直面し、克服しようということにはかなり自覚的であったのではないか。この解決に向けて努力と模索が続けられたのではないか。
 50歳を過ぎて、一般的には完成の域に達するといわれた年齢を過ぎても、奄美に移り住み、一気に花開く直前まで努力が続いたと感じている。

 私はこの執拗ともいえる模索と持続におおいに惹かれる。 


「田中一村展」から 1

2024年11月09日 11時10分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 田中一村という画家の生涯の作品を順に見て回って、最初の印象は、次のようなものであった。
1.この画家はどうしても画面全体に対象をびっしりと描き込んでしまう傾向から抜けられなかったのではないか。
 残念ながら初期作品はこの傾向から抜け出せないで苦闘していると思う。この傾向を否定しきるのではなく、生かす方向で格闘し続けたのではないか、と感じた。
2.細密な描写へのこだわりもきわめて強い。モノクロームの画面にしろ、彩色された作品にしろ、ここから抜け出すことは最晩年にいたるまでこだわっている。
3.遠近の処理、空間の処理にも苦闘しているが、写真作品を通して、近景と極端な遠景の併存によって独自の方法を確立したように見える。特に九州への旅行以降に結実したように見える。
4.色彩、特に白へのこだわり、強調が印象的であった。

 その確立のためにさまざまな技法を模索し、西洋画や富岡鉄斎や与謝蕪村の南画、浮世絵などの研究もしている。このことで、近景から遠景を覗くような構図によって広々とした遠景を想像させることに成功したのではないか。抜けるような海や空の処理が効を奏していることが、人気のひとつの要因と思える。

   

 2の傾向では、20代前半の頃の初期作品のいくつかある《鶏頭図》のこの作品に顕著に現れていると感じた。
 さらに、同じ時期の《椿図屏風》は1と2の傾向を如実に示している。椿の花弁のあまりに緻密なこだわりによって画面全体を埋め尽くしてしまい、構図や全体のバランスを失っていると感じた。葉も細密に描き込まれているが、その細密さが生きていない。花弁ばかりが浮き上がって見える。椿は艶やかながら暗い葉の中の明るい花の描き方が問われる。
 むろん目を惹く作品で、私の指摘は当てはまらないものもある。ポスターにもなっている《檳榔樹の森》などである。南の島の鬱蒼とした森の様が、びっしりと書き込まれて遠近を超越している。しかし4の色彩の工夫が生きて、白が近景として生きている。
 背後の白梅も存在感を失っている。
 左双が未完らしいので、結論は早すぎるかもしれないが、私なりにどのような左双を想定しても焦点の定まらない作品である。
 しかし鶏頭図や《菜花図》(1932)など単体を描いた作品には空白部が多く取られ、スッキリした構図も垣間見える。

 戦争の時代、病弱で兵役につかなかったという一村は極端にデフォルメされた羅漢図や、白を効果的に使った清楚な百済観音図を描いている。さらに鉄斎・蕪村などの山水画を倣ったりしているが、展開はしていない。戦争の時代とはおもむきの違う百済観音図に時代に背を向けたかのような静謐さを感じる。



 戦争の時代を潜り抜け、《菊花図》(1948)や障壁画、天井画などの植物画に細密画へのこだわりが再燃しているのを感じた。構図上の余白などのバランスも配慮され、画家のエネルギーの発露が窺えるのではないか。



 戦後まもなくの昭和20年代、田中一村の40代、千葉時代の風景画は平福百穂などの近代南画から学んでいるとの解説がある。この時期の風景画は、色彩の明るさと広々とした空間が魅力である。しかし1や2の傾向との格闘は見られない。寂しい風景が広が。どこか模倣感があり、自己主張が感じられない。風景の寂しさは画家の寂しさ、もどかしさの反映に思えた。
 


「欧州美術紀行」 2回目

2024年10月31日 22時20分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 午前中はみなとみらい地区の神奈川大学の校舎での対面講座、「欧州美術紀行」(講師:中村宏美)の2回目「ヴェネツィア」。取り上げた画家は、ジョヴァンニ・ベッリーニ、アンドレア・マンテーニャ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ・ヴェチェリオ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼの6名。
 以前に訪れたヴェネツィアの教会や美術館で見た作品を思い出しながら楽しく拝聴。サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会で見たティントレットの《最後の晩餐》は、印象深い。居酒屋の室内のような暗い場面に窓から差し込む強い光線が、カラバッジョを思い浮かべてしまう。あるいは劇的な動きがバロック的なのかもしれない。暗い教会の中で見るといっそう印象的である。
 取り上げた作品の中では、マンテーニャの《死せるキリスト》は異様な迫力で、私は初めて見た時から忘れられない作品である。ちょっと際物めいた作品なので、評価は分かれると思っている。しかし戒律の厳しいキリスト教の規制を搔い潜って、キリストの足の甲の釘のあとに着目し、鑑賞者の眼前に突き出す大胆さ、新しい視点獲得の貪欲さには脱帽である。
 次回はローマを取り上げるとのこと。おおいに期待。

 夕方には組合の会館に出向いて、打合せ。みなとみらい地区の神奈川大学のキャンパスから寿町まで歩いた。空気が乾燥しており、気持ちよくウォーキングが出来た。膝と腰の痛みは出なかったのがありがたかった。
 帰りは関内駅まで歩き、コーヒータイムののち、地下鉄・バスにて帰宅。夕食後は団地の管理組合のアンケートなどを記入していたら、読書タイムは確保できなかった。

 明日の金曜の夜から土曜・日曜の明け方まで荒れた天気になるらしい。台風21号からの変化した低気圧の影響とのこと。被害がないといいのだが。


田中一村展

2024年10月29日 21時09分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は小雨の中、昼前に家を出て、上野の東京都美術館で開催している「不屈の情熱の軌跡 田中一村展 奄美の光 魂の絵画」を二人で見てきた。
 雨にも関わらず、上野駅を降りると国立西洋美術館前まで「モネ 睡蓮のとき展」の入口まで人混みがあった。西洋美術館はとても混雑しているようであった。
 「田中一村展」も混雑はしていたが、モネ展ほどではなかったのはありがたかった。

 田中一村の回顧展ということで311点という実に多くの作品や資料が並んでいた。すべてをじっくりと見て回るエネルギーは湧いてこなかった。じっくり見て回ったのは、先週の「日曜美術館」で紹介された諸作品と、一目見て気になった作品にかぎり、残りは3500円で購入した図録に頼ることにした。特に日曜美術館で紹介された作品は他の方の頭越しにしか見ることがかなわなかった。

 構図、余白、色彩、写真、この4点を軸に見て回った。まだ頭の整理が出来ていない。

 16時過ぎに横浜まで戻り、久しぶりの沖縄料理店で泡盛を2杯。モズクや島豆腐などをつまみにした。横浜では本降りの雨になってしまった。


講座「欧州美術紀行」(アントワープ)

2024年10月17日 22時25分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日の午前中は神奈川大学の市民向けの対面講座「欧州美術紀行」(講師:中村宏美氏)の第1回目「アントワープ」。ヤン・ファン・エイク、ヤン・マサイス、ピーテル・ブリューゲル、アルブレヒト・デューラー、ペーテル・パウル・ルーベンス、アンソニー・ヴァン・ダイク、ジャック・ヨルダーンス、そして近代のフィンセント・ファン・ゴッホが取り上げられた。
 マサイスというルネサンス期の画家は初めて目にする画家である。紹介されたのは《フローラ》(1559)は構図も色彩もなかなか気に入った。
 また、ゴッホは《ジャガイモを食べる人々》(1855)を描いたのち、アントワープに向かう。《アントワープの港》(1885)、《アントワープの町並み》(1885)とともに初めて目にしたが、特に後者に惹かれた。しかしアントワープには美術学校での挫折で3か月ほどしかおらず、パリのテオの家に転がり込む。
 わずかな滞在であるが、パリ時代を予見するような作品に見えた。

 午後は、みなとみらいの神奈川大学のキャンパスから新横浜に移動。写真編集ソフトを家電量販店で購入。喫茶店でひと休みしてから横浜駅にもどり、書店を一回りしてから帰宅。
 これより購入したソフトを新しいノートパソコンと、デスクトップパソコンにインストールする作業。

 喫茶店では「日本霊異記の世界」(三浦祐之)の第8講「行基の奇行」を読み終わり、第9講「語られる女たち」を少々。

 


ジャズプロムナード

2024年10月13日 20時17分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は腰が痛いにもかかわらず、12日・13日に開催されているジャズプロムナードに出かけた。といっても有料のライブではなく、無料の街角ライブを聴くのが目的。これまでは関内駅南口・市庁舎前、関内ホール前、昨年は桜木町北口改札傍、桜木町コレットマーレ前などで聴いていた。特に関内ホール前は、近くの喫茶店の店外のテーブル席でコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみであった。
 本日は桜木町駅まで、3箇所ほどをまわったが、最後はクロスゲート前の会場の椅子に座って夕陽を浴びながら楽しんだ。2ステージの1時間ほど聴いた。知っている曲ではなかったが、街角ライブは4~5人以下の小編成で、私にとっては好みの編成である。
 夕陽を浴びての演奏中に赤とんぼが横切るのもこの時期ならではの情景である。


「空の発見」展

2024年09月15日 21時35分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 日本の絵画作品には、江戸時代まで空の表現が無い、というのは私も気がついていた。どうしてだろうと思いつつ、深く考えることもなく過ごしてきた。

 西の空は阿弥陀如来の世界として描かれたが、あくまでも阿弥陀来迎図が描かれるためのスペースであった。

 チラシには次のような記載があった。「青空を描いた司馬江漢が、蘭学から地動説を学び、科学的な空間意識を持っていた・・・。浮世絵のなかの典型的な空の表現“一文字ぼかし”のように、その表現は形式的、概念的なもの・・・。

 このような把握での企画展、面白い視点でまとめたと感じた。明治以降、「雲や陽光を写しとろうとする」潮流が主流となるが、同時に表現主義、シュールレアリスムなどの影響で、画家の「心象をこの空間に託すように多様で個性的な「空」を描く画家たちが続く」と記載がある。
 萬鉄五郎の〈雲のある自画像〉(1912、チラシ裏面参照)の背景に描かれた赤と緑の雲などは何を象徴しているのか、謎である。空や雲の表現が普遍化されないまま画家個人の心象だけに閉じ込められてしまったという側面もあると感じた。
 そんななかで、私の好きな香月泰男のシベリアシリーズの一作〈青の太陽〉(1969)は極限状況下での「癒し」としての普遍性を感じる空である。香月泰男がこの作品に添えた言葉「匍匐訓練をさせられる演習の折、地球に穴をうがったという感じの蟻の巣穴を見ていた。自分の穴に出入りする蟻を羨み、蟻になって穴の底から青空だけを見ていたい。そんな思いで描いたものである。深い穴から見ると、真昼の青空にも星が見えるそうだ。」は30代の時から忘れられない言葉であり、そして青い色彩が目に焼き付いている。
 一方で〈黒い太陽〉(1961)に添えられた言葉は「真夏の太陽は草原を約がごとく照りつける。夕方西南の地平を転ぶように沈む時、いつも大きく見えて美しかった。しかし敗色日に濃く、緊迫感を増すにつれ、太陽は自ら希望の象徴であることをやめたかのように、その赫光さえ失って中天に暗黒に見えもしよう。」としるし、作品は黄土色の土のような空を背景に暗黒の円で描かれている。この言葉と作品もまた忘れられない。
 このシリーズには教育勅語を痛烈にやり玉に挙げた作品もあるが、すでに敗色が濃い満州の地で、これまでの価値や理念が強固なはずの「軍」という集団の中で、戦争スローガンへの失望、国家理念の崩壊・逆転、視点の転換の危機が訪れていたことを象徴させているという理解もできる。

 またこの展覧会では「空」を窓として「宇宙」を見つめる視点を現代美術の担い手から紹介している。この試みもなかなか刺激的であったが、もう少し作品の具体例が欲しかった。

 なお、イギリスのジョン・コンスタブルの〈デダムの谷〉(1805-17)に再会できたのは収穫。また亀井竹二郎、竹内鶴之助という名を初めて聞き、作品に接した。
 欲を云えば、浮世絵に登場する空・雲・雨の表現の流れからは、新版画や川瀬巴水などの作品に登場する魅力的な月や空にも着目した展示が欲しかった。そこまですると大展覧会になってしまうのだが・・・。

   


「フォロン」展と「空の発見」展

2024年09月14日 21時40分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日は欲張って二つの美術展を二人で見てきた。
 まずは東京ステーションギャラリーで「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展を鑑賞。一服ののち、半蔵門線・井の頭線を乗り継いで渋谷の松涛美術館まで出向いて「空の発見」を鑑賞。
 久しぶりに二つの美術館をハシゴでだいぶくたびれた。
 フォロンという画家は初めて見たが、どこかで見た既視感があり、そして美しい色彩に目をみはった。好印象。
 次に「空の発見」展では、広重・北斎の諸作品のほか、お目当てである香月泰男の「青の太陽」(シベリアシリーズ)をじっくりと鑑賞。「青の太陽」はもうすでに4回以上は直接見ているが、幾度も見たい作品である。今回も会場内はとても寒かったが、じっくりと見させてもらった。
 幕末から明治期のこれまで名も聞いたことのなかった画家の作品が多く掲げられており、いづれもなかなか好印象の作品が並んでいた。

 追々感想を記してみたい。

 


香月泰男のシベリア・シリーズから

2024年07月28日 13時35分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 毎日曜日のNHKの日曜美術館はさいわいにもオリンピック放映にかき消されることなく、今回も放映された。しかも「香月泰男のシベリア・シリーズ」であった。
 香月泰男の名を知ったのは1972年頃だったと思う。むろんまだ全容は知らなかった。またなぜ香月泰男だったのか、その契機も記憶にない。
 記憶が正しいとすると、1970年に発表された同シリーズの「朕」の添えられた画家本人の言葉に感激した。これが1972年なのか、もっとあとなのか、問い詰められると自信はない。
 「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民俗のため、国民のため、朕のため、などと美名をでっち上げて・・・・・・。朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちてゆく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風でもったいぶった言葉の羅列の終わるのを待った。・・・・朕の名のため、数多くの人間が命を失った。
 香月泰男はシベリア・シリーズの一点一点について解説文を自ら書いている。
 「自分に忠実であろうとすると、ますます他人には分かりにくいものになっていく。一方で人に理解されたくない、これはオレのものだという気持ちがあるのに、やはり分かってもらいたいという気持ちも他方にあるのは否定できない。しかし、妥協はできない。解決策として、私は説明文をつけることにした

 東西冷戦下の日本の国家体制、世界秩序の根幹であった西側民主主義と「社会主義」圏の、共に国家の名による抑圧、それらの縮図である国内の保守・革新という図式と党派の論理の跋扈・・。当時の新左翼運動もこれらからの止揚をめざしつつ、それに押しつぶされて暴走を始めていた。
 そんななかで画家の立場から明確に、「朕」に解説文が発せられていることに当時の私はとても惹かれた。
 なお、作品の中央部の白い部分は「読み上げられている軍人勅諭」である。その背景の人物は営庭で聞かされている兵隊でもあり、同時に亡くなった兵隊でもあるのだろう。

 実はシベリア・シリーズは初期の2点を除いて「黒」が主体の作品である。その「黒」を際立たせる技法の秘密も紹介していた。



 しかしながら、シベリア・シリーズ以外の諸作品は色彩があふれるような抒情的な作品で溢れている。これもまた香月泰男の魅力の作品群である。

(遠吠え)本日の番組ではこの「朕」という作品の紹介もあり、また添えられた作者の解説文も読み上げていた。数年前には想像できなかったことである。NHKも部門ごと、番組ごとにずいぶんとニュアンスや意図に差が出てきたようだ。どれが正しいなどとはいわないが、少し前のように力あるものへの忖度をやめ、力におもねることをやめ、時代の病理をえぐり、多様性のある番組を望みたいものである。


ショパン「マズルカ全曲」後半

2024年07月27日 21時41分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 暑さ疲れで読書がままならないので(といっては作曲者にも、演奏家にも、音楽愛好家にも失礼かと思うもののご勘弁!)、食後は一昨日に続いてショパンの「マズルカ全曲」の後半を聴くことにした。

 マズルカとは関係はないが、夕食には横浜駅のスーパーで購入した「ヤリイカ」と表示のあった5㎝未満の茹でたイカを4杯。さらに薄切りにした生姜をたっぷりの鰹節と煮た私の大好物を妻が作ったくれた。それを茶碗に半分ほども食べた。さらに葉生姜を2つほど。これ以外には口にしなかった。しかし生姜ばかりで、しかも葉生姜はかなりからかった。十分にお腹がいっぱいになった。ずいぶんと胃が小さくなったものである。

 体を温める効果がある生姜が暑さでげんなりしている体によいのかは疑問であるが、食べている最中は口のなかが爽やかになり、気分のいいものである。殺菌作用も強いという。私の好きな食材なので、昔からつい食べ過ぎてしまう。


ショパン「マズルカ全曲」

2024年07月25日 12時58分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 久しぶりにショパン「マズルカ全曲」をアシュケナージのビアノで聴いている。演奏年次は記されていない。
 ネットでの解説では「現在のマズルカはポーランド語ではマズレク(Mazurek)と呼ばれ、上で紹介したマズール、オベレク(Oberek/速い踊り)、そしてクヤヴィアク(Kujawiak/遅い踊り)の3つが混ざった曲を指します。ショパンが60曲近く作曲したマズルカは、この3つが混ざった作品となっています。ショパンの場合は、踊りの特徴をうまく捉え、自分が見聞きした旋律やリズムを取り入れて芸術的作品に昇華させました。」(大井駿 指揮者)とある。

 踊りの曲ということになっているが、私には踊りという要素があまり感じられない。アシュケナージの演奏が「洗練」されているのだろうか、古い土俗的な匂いがしない。ショパンがそのように作ったのかもしれない。
 しかし、それが結果的には私には合っているのだと思っている。

 この曲集、あまり聴くことはないが、聴くと心地よく、そして懐かしい気分に浸る。気分が落ち着く。