夕方、喫茶店で「永瀬清子詩集」を読んだ。永瀬清子の名は、1970年代半ばに吉本隆明編集の「試行」誌上に「短章集抄」が載っていた。幾度も名前は見たが、読んだことはなかった。
戦後2番目の詩集「美しい国」(1948刊、42歳)から2編、ならびに最後の詩集「卑弥呼よ卑弥呼」(1990刊、84歳)から2編のそれぞれ抜粋して引用してみたい。
夜に燈ともし
かいこがまゆをつくるように
私は私の夜をつくる。
夜を紡いで部屋をつくる。
ふかい黄色の星空のもとに
一人だけのあかりをともして
卵型の小さな世界をつくる。
・・・・
さびしい一人だけの世界のうちに
苔や蛍のひかるように私はひかる。
よい生涯を生きたいと願い
美しいものを慕う心をふかくし
ひるま汚した指で
しずかな数行を編む
・・・・
降りつむ
かなしみの国に雪が降りつむ
かなしみを糧として生きよと雪が降りつむ
失いつくしたものの上に雪が降りつむ
その山河の上に
そのうすきシャツの上に
そのみなし子のみだれたる頭髪の上に
四方の潮騒いよよ高く雪が降りつむ。
・・・・
無限にふかい空からしずかにしずかに
非情のやさしさをもって雪が降りつむ
悲しみの国に雪が降りつむ。
歓呼の波
・・・夫は招集され
東京駅を出て行った。
見渡す限りの万歳と旗と歌声の波に送られ
ろくに別れをかわす事も汽車の窓に近よる事さえもできずに――
ただその波に押しまくられているうちに汽車は出ていった。
・・・・
あの歓呼のことはを忘られない。
旗をふり、軍歌を高唱し
まるで犠牲の羊をリボンや花輪で飾りはやすように
自分の番ではなかった事を
人々はまず喜んでいたのではないのか?
あの歓呼、忘られない。
悲しいことは万歳でした ――老いたる人のレコード
私はその時のことを知っていますよ。
私はその時 そこにいたのです。
・・・・
私はその時まだ若く柔らかく
歴史にも慣れていなかったのです
夫はタスキをかけ、それは「死んでも当然」のしるし。
みんな狂っていたので
悲しいことは「万歳」でした。
つらいことも「万歳」でした。
みんなが歌ってくれました
だから自分だけが泣くことのできない不気味な時代。
私はその時のことを知っていますよ。
私はその時 そこにいたのです。
私の中身にはその泣き声がしまってあります。
私は古びた一つのレコードなのですよ。
・・・・
有事
・・・・
自分が信じる事以外には従うまい
そんな単純な決まりきった事でも
ちゃんとあらためて自分にきめておかないと
きっとその時は、五寸釘をねぢ曲げるように
誰も枯れも折り曲げられてしまう世の中になるのだ
おそろしい
そうだ
私はもう「有事」を語っている。
「はしがき」で谷川俊太郎は「詩は自己表現という考え方が当時は一般的だったが、永瀬さんの自己は初めから「私」をはみ出して、世界全体に向かっていた。永瀬さんにとって世界は一つの計り知れない流動体であって、そこでは人間界、自然会の区別は永瀬さんの中にはなかった‥。娘、妻、葉は、農婦などの役割を果たしながら、役割だけでは捉えられないグローバルな存在、無限定な宇宙内存在として自分では気づかずに生きたと思う」と書いてある。
なるほど、と思える評ではないだろうか。特に「降りつむ」からはそんな感想を持った。引き続き読み続けたい。「短章集」などの文章も読みたい。