墨田の春

楽しみを通じて明日の活力を作っていきたい!

神秘の国隠岐島は人を招く!

2012-09-29 13:51:52 | 隠岐島

     隠岐の旅行

 

 

平成24年7月21日(土)から24日(火)の間、豊嶋夫妻、杉本夫人および斎藤の四人で隠岐島の島(どう)後(ご)(隠岐の島町)、島前(海士(あま)町、西ノ島町)を旅行した。なお杉本夫人は、西ノ島町出身である。

第一日目

朝早く(6:50am)、羽田から空路にて米子鬼太郎空港に到着し、タクシーで松江市七類港まで行き、航路にて隠岐の島町西郷港に向かった。「三国志」ばりの“ジャーン”という銅羅の音で出航した。

船内は、土曜日の性か昼頃ということもあって、二等客室はごろ寝する余地が殆どないような混みようだった。しかし、一等客席・その廊下および船外などを見ている内、熟睡する暇が無いうちに西郷港に到着した。11:25amだった。睡眠時間が少なく眠かったはずではあるが・・・・。

ここから第一日目がスタートした。まず昼食が旨かった。おき食堂の岩のりで作ったバクダンが第一であろう。ただ、岩のりは厳冬期に採るため、キツイ作業であるうえ海にはまり命を落す方もいるという。煮込みのこんにゃくも旨かったし、近海ものの刺身も良かった。

その後西郷港の隠岐自然館をスタート点に町内を徒歩にて観光した。水祖神社とその後ろの古墳山に登った。隠岐には古墳が多いとのことで、有力氏族のいた事が覗い知れる。

観光タクシー(西郷タクシー)が到着してまず、球若酢命神社に行った。ここの八百杉を見たが生憎杉は、一部折れてしまって全体像は良くわからない。

過日屋久島に行った時の屋久島杉と比較すると、屋久島の方にも大きものが多かったように思う。

移動中目に付いたのは、廃屋である。年寄りが多く若者が島を離れる場合が多いという。住まいを貸与え、漁業を教えると言う。何処も過疎化対策で大変である。魅力ある街づくりを真剣に考えていかなくてはならない。

次に向かたのは、「壇(だん)鏡(ぎょう)の滝」である。昼なお暗き川沿い、蜩(ひぐらし)の響き渡る雰囲気ある小道を辿ることおおよそ10分、奥まったところに古びた社が現れた。向かって右が雄滝、左が雌滝であるが、水勢はあまり良くない。なんでも上流側にダムが出来少なくなったとの事であるが、昔はなかなかのものであったそうな。今でも梅雨時などは良いとの事である。この雄滝の後ろに回れるので驚いた。初めての経験である。恐らく水勢の有る時などは、傘がいると思う。

次に向かったのは、隠岐の島町最北端の白鳥海岸である。季節柄遠目ははばかられたが、海の碧・岸壁の景観など見飽きない風情である。イタリアのアマルフィーに似ているような感じである。ここの近くをクルーズ船「飛鳥」が通るとき、ゆっくり航行するという。そう言えば、コスタ・コンコルディア号の座礁事故は岸に近づきすぎた為とかで、同じことにならない様注意されたい。

この海岸のはるか北方面に「竹島」がある。観光タクシーの運転手は、現在の様になったのは政治家の先送りしたことによる怠慢だと言った。西郷港の道路傍に「竹島」返還の大きな縦看板が立っていたのを思い出す。後日イ・ミョンバク韓国大統領が訪れ、恐らく心を痛めている道後人も多いことであろう。なお、かの運転手は、地元のお祭りでは相伝の謡い人で一目置かれていた。

この後、島の西側に位置する重栖港にたどり着いた。ここから夕方に合わせて「ロウソク島」の夕日を見るための調整であった事がわかった。隠岐の島町目玉の一つである。

沖に出ると波頭は幾分きつかったが、幾度か船長が挑戦してくれ印象に残る写真を撮ることができた。細長い岩の上に沈みゆく夕日がちょうどその上に有る時の映像が、まるでローソクのようであった。他にも岩の隙間からの夕日が見える景色は印象に強く残った。

ここから旅館への帰路、隠岐国分寺(後醍醐天皇行在所跡でもある)に立ち寄った。大きな社が目を引いた。ここでも土俵が有ったが、隠岐には土俵が多くある。なんでも夜通しで相撲を取るとのことで有名であり、大相撲の「隠岐の海」もご当地出身者である。

壱岐の島には今回立ち寄らなかったが「牛突き場」も多くある。島によって特異な文化が継承されている。そう言えば、「佐渡島」では能舞台の多かったことを覚えているし、旧東海道を京都に向かって歩いていた時、鈴鹿峠を越したあたりから一般の家の庭先に石灯籠が多かったことも思い出される。

旅館に着いて夜半、豊嶋さんに丁寧に神田囃子の太鼓に関して色々教えて貰ったことが、嬉しかった。

なお、第一日目の写真は編集中に誤って全て消去してしまい、豊嶋さんの写真を掲載させて頂いただき、ここに謝辞致します。

第二日目

今日は、朝食後旅館近くを散策した。朝から日差しが強いので閉口したが、海の色と透明度、遠目の景色が良く老後住むには良いところであろうと思う。因みに近くの家並みは瓦も含め、外装が綺麗であった。年金暮らしの人たちが多いとの事である。

海を覗き込むと、ウニが多いのに驚いた。誰も獲らないのだ。まさか禁猟期間ではあるまいに。

旅館を出発して西郷港で船を待つ間、とある喫茶店で時間調節して海士町の菱浦港に向かった。12:05pmに出発して13:15pmとすぐに着いたがこの船旅も途中島並み、すれ違う船姿など十二分に目を楽しませてくれた。

島について、昼食を取るため時隠岐牛専門店に入ってすぐに、レンタカー店に行った。

専門店の営業時間がすぐに終わるためである。メニューはランチであったが、特注で上等な隠岐牛も食べたが、その美味いこと!豊嶋さんの短くワッと「美味(うま)い!」と言った声が今でも耳に残っている。

食事後レンタカーで出発、豊嶋さんの運転である。まず向かった先は、後鳥羽上皇の隠岐神社。広い神社の入り口の広場は、そこいらのそれと特段の違いは感じられなかった。が、中に入って行くとまるで違った。静寂でいてトトロの故郷の様な、蝉の声がして暑い日照りにも関わらず心が落ち着く所であった。各所に上皇の和歌が有ったが、私には寂しさ、無念さの様なものは感じられなかった。日本にこんな所が有るんだと思った。

次に展望よろしき金光寺山に向かった。遠くまでパノラマの様に見渡せた。

最後に明屋海岸に行った。火山弾やスコリヤの多い海岸で海水浴・キャンプの出来る様になっている広い海岸であった。

再び菱浦港に着き次の島、西ノ島町別府港に向かった。小さな船だったが、かなりな船速であっと言う前に到着した。ここで杉本夫人が出迎えてくれた。ここから旅館まではものの数百メーターの距離だった。二人で泊まるには、非常に広い部屋でとても気に入った。

旅館の食事は、海山物を主にとても美味しいものばかりであった。明日も食べられると思うと、今から生唾を飲む思いであった。

第三日目

今日は早起きして日の出を撮ろうとしたがすでに遅く天空に有ったので、明日再挑戦する事として港周辺を散策した。「隠岐の誉」の造り酒屋(隠岐酒造)を見たあと、黒木神社に向かった。後醍醐天皇の御在所址でそのものズバリ、黒木で作り御所を象徴しているという。ここのほか西ノ島町の天皇山にも御在所址があるという。ここは、後鳥羽上皇のそれと比較してあまりに狭く、押し込められていた感が有り、望郷の念が強く沸き起こったであろうと思う。「建武の中興」の起点になるのも当然かなと思えた。

食事後、漁協のみやげ店に出かけた。杉本夫人のご母堂さまにお目にかかったが、背筋も伸びシャンとしており若々しく通る声にハットした。お仕事から来る部分もあるかもしれない。教会と保育園などを遣っているとの事である。夫人推薦のウニなどを買っていった。

次に西ノ島町国賀海岸方面への快速遊覧船に乗った。至る所侵食による巌岩・奇岩のパレードで目を見張りっぱなしであった。今回の海は時期的に穏やかであったが、冬期の厳しさなど想像に難くない。また、岸壁の横に走る断層を目の当たりにして、悠久の年月を要し隆起で出来た島々の多いことが覗い知れる。

海の青さも素晴らしかったが、イタリアの「青の洞窟」の様に思わず手を水中に差し入れてみたくなる青さ程青くは無かった。太陽などの関係があるかも知れない。

船引運河を通って終点浦郷港に到着した。昼食場所を探したが、月曜日ということもあって難儀した。

今度も豊嶋さん運転、杉本夫人ナビで先ほど船で回った国賀海岸方面を丘の高みから見るために出発した。途中から牛だの馬だのの群れにお目にかかったが、のんびりしていて幸せそうに見えた。丘からの景色は草の緑と相まって絶品で、摩天崖は特に絵になると思えた。子馬を見ていたら尻を向けたので何だろうと思ったら、糞をポロポロするのには驚いた。そう言えば、屋久島の時も小鹿が同じ様に糞をしたのが思い出された。

丘から引き上げた途中で海岸まで歩いて降りた。釣りをしたら大きな獲物が掛かりそうな気がする。

夜半から本旅行の大目玉の焼(たく)火(ひ)神社島前神楽などを見学するため、下見を兼ね旅館に引き上げずに焼火山焼火神社に向かった。この神社は国指定重要文化財になっており、縁起は神社所蔵の書物で万治2年となっていて、かの甲州街道で有名な諏訪大社近くの「万治の大仏」の出来た頃に遡るのであろうか?

神社に至る小道は短かく急であったが、神社の一部は山腹をくりぬいた様な出で立ちで、荘厳な中におどろおどろしいものを感じた。

午後8時頃から本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば)(神楽奉納の場)として隠岐島前神楽が行われるため一行はここで一旦旅館に戻ることになったが、神社に事前連絡した折り夕餉膳が用意されてしまっていたので、あの(・・)旅館(・・)の食事が食べられなくなってしまった。残念!

女性陣は、旅館であの美味しい食事をとり、キツイ坂道の神社へ行かない算段をしていた様でこの方達にとっては更に残念と言わざるを得ないであろう。

さて、夜の静寂(しじま)が訪れる頃、神社に再訪した。はじめての経験なので全てが好奇に受け止められた。かなりの古(いにしえ)から続いている神事であろう。本殿で参拝者らは息を凝らしてじっとしている。この時は、「巫女舞」が目をひいた。一連の行事が行われた後、食事をとった神楽庭に戻り島前神楽を見ることとなった。

いわゆる神田囃子の様に洒脱な神楽ではないが、今でも都内などに継承されているものと大きな違いは無かった。ただ笛が無く代わりに謡いが有るのが特徴であろうか。歌詞が分かれば更に面白いかもしれない。最後は「八岐の大蛇」伝説の神楽が長い歴史を感じられた。演者らは麓の村の人々で、練習に練習を重ね日頃の腕前を遺憾なく発揮していた。大変な努力が必要であろう。

アルコール度は若干低いものの、食事の時に差し出されるままに飲んだ「隠岐の誉」の酔が廻って、何とも言えない心持ちであった。来て良かった!

第四日目

最後の日は5:08am前だっただろうか早起きして、日の出撮影に挑戦した。神秘な島の神秘な朝の到来である。屋久島訪島の折り、早朝日の出の写真を撮った記憶があるが、こちらの方がより神秘的で荘厳な感がある。屋久島のそれは、種子島の向こう側からのサンライズだったが。

 

帰りは高速線で境港市境港に向かったが、隠岐島の幾つかの港に立ち寄ってからでそれまではゆっくりした船速であったが、その後は早かった。料金の高いだけのことはあった。

鬼太郎空港で時間調節したが、みやげも食べ物も興味をそそられるものが多い。楽しい旅程であった。皆様に御礼申し上げます。

さて、みやげで買った夫人推薦の吉村水産の「粒ウニ」は、我が奥様の絶賛を頂き、また、「アゴだし」は、冬瓜の吸い物に今でも重宝している。  

最後に私の更なる独断と偏見を申し上げると、高齢化の進む隠岐ではあるが、氷温研究所の様にどうしたら過疎化を防げるかと努力している人達が居られる事は嬉しかった。また、後醍醐天皇と焼火神社を島のシンボルとして更なる神秘の島「隠岐」として屋久島と同様辺境の島々に心を誘(いざな)ってもらうのも意味がある様に思うが、如何なものか。

私の思いはあと、小笠原の父島を中心にした地域を旅してみたいことにある。 

以上

 

 


篠笛を習いませんか?

2012-05-15 23:09:55 | 篠笛

私は、現在篠笛を習っています。やり出してからかれこれ七年になります。

月二回、火曜日に江東文化センターで習っています。ここのホームページに載せて有りますので見て下さい。

講師は中盛恒雄先生です。会費は、¥3,000-です。会員は五名います。

江東文化センターは七月から改修工事になり、七月から東大島文化センターで月曜日に行い、八月は西大島で行うよう計画を練っていますが、皆さんと相談しながら進めたいと思っています。

気が向いたら見に来て下さい。大歓迎です!!

以上

 

 


はじめての投稿

2011-05-11 15:47:52 | 技術士
結構年なんですが、ブログを始めようと思ってはじめて投稿します。