いつかあの青空の心に

少年のころ見上げた、あの青い空。澄み切ったあの空のような心になりたいと願った。その心に近づいているのだろうか・・・

もらった物を抱きしめて

2005年06月11日 | 考える
人と話していて、自分がしゃべっている言葉であるにもかかわらず、
以前誰かに聞いた話、聞いた考えをしゃべっていることがある。

知らない間に「深く感銘を受けた言葉を自分の物としている」ことはよくあることだ。

そうであるならば、自分で理解したこと、
自分自身の独力で掴んだものなんて、
ほとんどないのかもしれない。

「生きる」という言葉は間違いで、本当には「生かされている」のだろう。
たとえそのことを忘れているとしても。
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体を駆動するのはこころ

2005年06月09日 | 考える
友達がテニスが上手くならない・・・と嘆いていた。
テニス暦は10年で、上手くないはずはないのだが、
確かに10年という年月を考えたら、もっと上手くてもよいかもしれない。

私には彼女が上手くならない理由はわかっている。
「勇気がない」からだ。

「自分ができないことに対する人の指摘を素直に受け止めること」
ができない性格が、上手くなることを阻害しているのだと思う。

彼女の眼は「できないことを乗り越えること」に眼が向かず、
「できないことそのもの」に眼が向き、感情的になるのだ。

体を動かすことには言葉ではうまく言い表せない「暗黙知」が
多く存在する。

サーブを受ける立ち位置なんて、相手、天候、調子、性格、思惑・・・
もろもろの条件で無数にある。

「教えてもらうこと」と「自分で考えること」の比率を
変えてもよい時期だと思うのだが。

そのことを伝えたいのだが、
「できないことを指摘されること」に抵抗があるらしく、
こちらが言いたいことを理解してもらえないでいる。

体を駆動するのはこころなのだと思う。
考え方をシフトさせない限りは、体は動かない。
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なぜ耳は2つある?

2005年06月08日 | 考える
いつだったか忘れたけど、
子供のころに聴いた話。

なぜ耳は2つあるのか。

それは、1つの口で話すことの
2倍、話を聴きなさいということだ。

この言葉を思い出すとき、
なぜか子供だましだと笑えなくなる。

人の話を聴くのはそれほどに難しいことだ。
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深みのない人

2005年06月07日 | 考える
話していて、
薄っぺらい人がいる。

物もよく知っているし、
何でもそつなくこなしているようだ。
だけど、言葉に力がないし、その人について行こうと思わせるものがない。
まるで、空気のように軽い人。

それほど、こだわりもなく、特徴もなく・・・

「情の深さ」なのかなと思う。
何かに思い入れる。
何かに打ち込む。
こだわって、挫折する。

何かその人が生きてきた軌跡みたいなものを
感じさせない人はあまり魅力的ではない。

間違っていても、正しくても、
何かに一途に生きている人は輝いているものだと思った。

毒にも薬にもならないような生き方は望むところではない。
そう、思う。
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小さな人間

2005年06月06日 | 考える
友人から悩みを聞かされる。
自分にとっては本当にどーでもいいことだ。

どうして気づかないのだろうか、
その話に私が興味を示していないことに。

事実の羅列と、推測ばかりの話。

こんな(自分にとっては)小さな取るに足らないことで
頭を悩ますような人にはなりたくないなぁ、と思う。

だから私は、君に会いたくなくなってゆくことに気づかないのかな。

しかしその一方では、話に気をとられ、
うんざりしている自分がいることも確かだ。

小さな人間は自分の方かもしれない。
だから人の悩みを取るに足らないことと決め付けて、
自分がより上にいるように思いたがる。

自分のほうが小さな人間なのかもしれない。
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サーブ改造

2005年06月04日 | テニス
テニス合宿に行って、
自分の姿をビデオで見た。

すごく格好悪い打ち方に愕然とした。

いままで、自分ではそれなりに打ててたし、
そこまで変だとは思っていなかったが、
サーブが変。とにかく変。
サーブは通常横を向いて打つものであるが、
正面を向いているし、
ラケットの握りも変だ。

テニス仲間に聞いたところ、
「やっと気づいた?」
と言われる始末。

名づけて、「正面でポン打ち」だそうである。

教えてくれよー!
友人いわく「どうせ指摘しても直さないだろうからさぁ」
だって。

まぁ、確かに指摘されても決して認めはしないだろうけど・・・

自分を客観的に見ると、特徴がよくわかる。
自分がしゃべっている姿をビデオで見たら、
果たして好感が持てるのだろうか。

うーん、自信ないなぁ。

何にもまして「客観視」ということはとても大切なことですね。
これを失ったとき、人は独りよがりになり、馬鹿なことをしてしまう・・・

話がそれましたが、
結局、サーブは改造中です。
サーブの型は長い歴史の中でだんだんと
定まってきたのだろうから、とりあえず基本を身につけなければ。
テニスを始めて3年にしてやっと基本を振り返ります。
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10年の積み重ねの先に

2005年06月03日 | 考える
母親と電話で話しました。

親の教育方針のことやら、
貧しいながらも、一生懸命育ててくれたように感じるという気持ちを
話していたのですが、してもらったことに対して
今の自分はなんてだめなのだろうか・・・と思います。

仕事の面で必要不可欠の人材であるわけでもなく、
かといってプライベートですばらしい人であるわけでもなく。

なんだか、親に対してどんどん申し訳ないような気持ちになってきました。

親は親で、親戚一同、親自身が
あまり人と交わるのが得意ではなく、
我を通して孤独になりやすいのは一族の血ではないのか、
というふうに思うと言っていましたが、
私はそれを認めたくない。

環境がどうであろうが、すばらしい人はすばらしい。
もし生まれた環境のせいにしまえば、人のせいにして、生まれついた環境のせいに
してしまうことになり、そこからの発展はなくなってしまう。

大学を選んだのも自分、会社を選んだのも自分、
東京にいるのを選んだのも自分。
そうであるならば、そこでがんばるしかない、と思います。

実家を出てから10年くらい経ちます。
最近は子供のころに刷り込まれた親の価値観がどんどん剥げてきているような気がします。
自分自身の地金が見えてきているような気がします。

今から10年後にまた自分自身を振り返ったときには
もう言い訳はできないでしょう。

この道を歩いてゆくしかない。
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公園のトイレの小道

2005年06月02日 | 考える
通勤途中に公園を歩く。
トイレから出てきたタクシーの運転手が
植え込みの中にできた小道を歩いてタクシーに戻る。
そこは本来ならば植え込みなのに、
トイレに行く人々が通ることにより、小道ができていた。

「桃李不言、下自成蹊」じゃないが、
トイレ自ら道をなしていた。

人間も一緒だろう。
有用な人のところにはそこに通じる道、
ネットワークができてゆく。

道が開けるとはそういうことなのかな。
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他人への興味

2005年06月01日 | 考える
「参加しませんか?」
大学時代のサークルの同窓会をやるらしい。

どうしてだか知らないが、ぜんぜん行く気がおきない。
会いたい人と思う人はきっとそういう集まりには来ない。
先輩やら後輩やらに会いたいかと聞かれれば、特に会いたいわけでもない。
確かに同じ時代に一緒にがんばったけれども、
いまさら会ったところでどうなるというのだろうか・・・
などと考えてしまう。

つまるところ他人に興味がないのだろうな。

その人がどうなろうと知ったことではないのだろう。
かつて「心の狭さが世界の狭さだ」と書いた。

どうしてか自分でもわからないが、
会いたいとは思わない。

ここいらへん、人としてどうなのよ、とは思うものの。
考えは変わらないし、その場に行ってもさして楽しめるとも思えない。

まぁ、それは前回がさして面白くなかったから、
というだけなのかもしれないが・・・

やはり、自分で孤独になる方向に向いているようである。
コメント (2)
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