Gooブログ「クリンの広場」にアクセスしたら
坂口安吾の『桜の森の満開の下』の本紹介がされていて
そういえば、
わたしも何かに書いたぞお~
2019年4月11日のブログ
「白玉か何ぞとひとの問ひしとき露と答へて消なましものを」~「桜の森の満開の下」には、ほんの少しで
他にも、直接的ではないが書いたよなあ~
と思い出したので、
ここにUPしておこうと思います。
昨日、孫たちも帰っていったので
やっと自分の身体と時間を取り戻せました。
もうシャガの花が狭庭に咲いていました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『けものの苗』考
― ドッペルゲンガーを中心として
加藤 知子
『けものの苗』とは竹岡一郎の第三句集である。
収録句三五〇句、十五章の詩作品といえよう。各章題はパロディありユーモアあり。句集全体は、むごたらしくも痛快な事態を出現させた句に満ちている。恐らくそれは、竹岡一郎しか書けない俳句である。「あとがきに代えて」をまじえながらその句を紹介し、少しばかり読み解こうとおもう。その「あとがきに代えて」の文の締めはこうだ。
なつかしいものは、いつだって惨たらしい。産土も人間も積み上がった惨たらしさを抱えて、だからこそ、その惨たらしさを焼き尽くし、なつかしさを遠く離れ、生き変わり死に変わりを超えて、立ちたい。
句集の象徴的な句となっているのは次の句と思われる。
ドッペルゲンガー白檀茂る工場内 「浜降」
「ドッペルゲンガー」(=自己像幻視)はキーワードである。狂気の沙汰のことではなく、当事者竹岡にとっての、〈本気〉、〈実在〉、〈事実〉を描くのである。たとえば、極度の暴力に晒され続けると、そのうち精神は肉体から乖離し、ドッペン(ダブル)の人格が現れてくる。そして、徐々にその防衛が習い性と化していく。このような自己の分身による実体験の作品といえようか。村上春樹作品の主人公(『海辺のカフカ』)もいう。
僕はとても具体的なものごとについて、具体的に述べただけなのだ。(略)現実の僕のまわりに<実際に存在した>のだ。それは比喩とか寓話とかじゃない。
まずは、プロローグの「蛭の履歴」。句集全体の内容のダイジェスト版とみた。それはまさに竹岡の周りで現実に「実際に存在した」ことを通して描かれる。それらの細部はそれ以降の章で明らかになるゆえ、理解を確かにするためには全部挙げたいところだが・・・
あやとりの砦は父母を拒みけり 「蛭の履歴」
狐詫ぶ人の世に吾を置きしこと
「狐わらし 十三歳の私を迎えに来た母は狐であった」
雪を喰ふ仕草いつしか獣めく 「鱗の脚」
夭き喉よりくれなゐの手毬唄 「〃」
血の海や巻き揚げらるる錨へ鳩 「尺蠖ハ蟒蛇二非ズヤ」
まづ臠つぎに霊容れ冷蔵庫
「ラヴラヴフランケンシュタイン」
冷蔵庫つひに私の死を保つ 「〃」
天壇の冥さを測るための百合 「なべてあの世の僕の梨」
蛸だらけなる廃園を逃げ惑ふ
「吾輩は蛸である骨はまだ無い」
革命は蛸である神はまだ無い 「〃」
なつかしいものを拒否しつつ、竹岡の実体験したと思われる暴力とその最たるもの戦争とに対峙し、忌避することの起承転結が、周りの人間関係とのエピソードを抱き込んで展開する。
禁野の鹿夜ごとの月に舌挿し入れ 「接吻一擲無恥一擲」
産めよ呪へよ鮫よ造兵廠すてき 「〃」
殴られすぎて音楽になる雪か 「極私的十三歳」
雪折また回路の僕が焼け残る 「〃」
天井に包丁吊って冴えて安心 「〃」
兄を狩る妹たちの息のむらさき
「本能であるが本望ではない」
海底の鉄屑十二月八日 「〃」
虹に阻まれてぐにやぐにやする行軍 「虎の贖罪」
作者のある時期の〈事実〉の描写は、今でこそ具体的で宿命的にみえる。またビビッドで真に迫ってくる。竹岡の「ドッペルゲンガー」は、この句集ひいては竹岡の言語空間の構築への動機を根底から支えているものであろう。だが、このような痛ましい句の果てには、「剥き出しの希望を重くまとった君が、顔を覗かせる」という。「白檀」の茂みに「君」が姿を見せる瞬間だ。「工場内」とは、その時の竹岡の肉体(いのち)が置かれる目いっぱいの世界なのだろう。
山は少しずつ、だが確実に低くなってゆく。いつか、僕の体が残っている内に、刃物の山は砕け散り、君と僕は同じ地平を見渡すだろうか。
私は、この「君」は、竹岡に光明というか救いをもたらす〈文学〉ないし複数の〈文学作品〉なのではないかと考える。彼の詩魂には、「壊れ切るまで使い倒す道具」として〈「肉体」と「言葉」〉が与えられて、創作活動が始まるのだ。「理想の咒は、生死の螺旋をどこまでも遡り、僕のそして君の、無数の末期の吐息と無数の産声を超える」ものという。だから、竹岡の肉体と言葉がこの世に残っている限り、「刃物の山は砕け散り」、文学作品と竹岡は溶け合って、彼自身が詩をまとい、詩となって、「君と僕は同じ地平を見渡す」時がやってくるのだとおもう。
心臓がとろけて桜しか見えぬ 「浜降」
総身の骨は奏でよ月の大咒 「〃」
位牌数万山越えてより蕩けあふ 「バチあたり兄さん」
スカートの中が嬉しい雨蛙 「〃」
起つ死者は瀧を天路と仰ぐだらう 「蜜の空輸」
竹岡にとっての、このむごたらしい事態が、虚か実かということは、読者が作品を味わう上ではそれほどの問題はない。前述のドッペルゲンガー(自己像幻視)の世界で謳うことと格闘し、「蕩けあふ」理想の地平へと咒(「思考の流線形」)が作品化されていくことが大事なのだから。各章は、そのときどきの自分の魂への記念碑的鎮魂歌であるといっていいのではないか。
咒を誦せば磯巾着の締まり出す 「蛭の履歴」
若芝に亀歩ましむ帰還兵 「〃」
大兵の掌に蚕あり光吐く 「〃」
よみがへる家族に薔薇の挿木あり 「蜜の空輸」
さてここに、「安吾の『ふるさと』」と題した川村 湊の解説(『桜の森の満開の下』講談社文芸文庫)の一節がある。
文学の究極として、そこで断ち切られ、ぎりぎりの根拠、“後のない”場所として思い浮かべられた「文学のふるさと」。それは安吾にとって、どこまでも孤独に、どこまでも安住することなく、進んでゆかねばならないことを示す道標にほかならなかった。(略)「むごたらしく、救いのない」その道の先にこそ、人間の孤独や切なさを癒し、なだめる一瞬の言葉による救済夢が浮かび上がる。
私は、この川村氏の解説のくだりと、竹岡の「あとがきに代えて」があまりにも見事に重なり、響き合っているのに驚いた。ひとはギリギリの生を生き抜こうとするとき、その先に孤独と切なさをなだめる言葉や文学作品を見出し、救済されると同時に鎮魂されるのである。
「僕」とは〈けもの〉なのだ。「君」は文学作品へと昇華されるための〈苗〉なのだとおもう。ドッペルゲンガーという〈けもの〉から生み出される〈苗〉を育てること、伐ること、焼くこと、挿し木することが竹岡の生を支えるルーティンになっていたのであろう。さらには、それは、12ラウンドの闘いを終えるたびに咒を誦せば、再構築され、家族関係は別の可能性を目指すのであろうか。「なつかしいもの」への回帰願望からは遥かに遠く離れて。この世の因果を超えて続く「生き変わり死に変わり」。その果てに観照する竹岡の世界はどんなものか、どう決着し着地していこうとするのか。
花よ如何に誦し山伏は火のかたち 「蜜の空輸」
各章は俳句形式で書かれた短編小説のようでもある。ドッペルゲンガーを作品化することは、古来追求されてきたようだが、竹岡のそれは、自己との格闘を赤裸々に描く究極のリアリズムに貫かれているといってもいい。
花びらをつつむ虚空という男 知子
(竹岡の句と章題のルビは省略)
俳句短歌『We』8号(巻頭エッセイ1-3)より
2019年9月発行
とてもかぐわしい肥後スミレ
こちらこそ
フォローありがとうございます!
貼り付けの
ジェネレーションのライブ映像良かったです。
歌と声がいいなあ~と思いました。
私の拙いブログへのフォローありがとうございました。
宜しくお願い致します。(^-^)
コメントありがとうございます。
いやいやこの巻頭エッセイは
予定していた人が書けなくなって
急遽必死で書いたものです。
竹岡さんという人物も
この時はほとんど存じ上げず
謹呈を受けただけでした。
ああ~そういわれて
そういう解釈もあったのかと今気づきました。
花びらは
0yaziさんの好きなように
解釈してくださってOKですよ。
「夜長姫と耳男」も気に入っています。
こちらのブログを昨日読んで吞み込めず、今日また読んでやっと、なんとか噛み砕いたかと思いましたが。
いや、知青さんが本気を出すと自分程度の次元を超えてしまわれます!!!
自分も安吾が好きで今でも読み返しブログのネタにしたこともありましたが、エロ本作家なんてことを書いた記憶があり赤面の至りであります。
そんなことより・・・
花びらをつつむ虚空という男
句に感電し一生懸命噛み締めております。
が、好きに解釈して良いんですよね、なんちゃって。
コメントありがとうございます。
恐縮します。
クリンさんの、
安吾の作品の読み解きを知りたいです。
『桜の森の満開の下』(講談社文芸文庫)に
収録されている物語はほとんど全部佳かった、
というか好みのものでした。
おお‼️知青さまも安吾を・・と読みはじめたら、、、あ、安吾が出てくるまでに何段かいもあるではありませんか🌀しかも、テーマの一つはドッペルゲンガー⚡ほとんど、ろん文みたいに立派ですっ⤴️✨✨✨👑
クリンもたましいの救済とチンコンのことを書いてまとめればよかったなあ・・
もう~知青さまぁ~先に教えて~✨
クリンより💮🌸