そこに軽便はあったのか?
今回は、戦前の一期・二期工事時代の材料運搬線について、この一年間に調査したことをまとめて行こうと考えている。
まず、恥を忍んで約一年前の記事は以下のリンクを貼っておく。
信濃川発電所工事 川西の工事軽便 一期・二期工事編
信濃川発電所材料運搬線(高城澤)
信濃川発電所材料運搬線の痕跡(貝喰川)
浅河原調整池附近
浅河原調整池附近の材料運搬線跡
信濃川発電所材料運搬線(鉢沢川橋梁(仮))
信濃川発電所材料運搬線 鉢沢川橋梁(序)
信濃川発電所材料運搬線(姿ー鉢沢川付近)
信濃川発電所材料運搬線(姿付近)
信濃川発電所材料運搬線(安養寺付近)
信濃川発電所材料運搬線(宮中付近)
飯山鐡道(飯山線)越後田沢駅~宮中ダム間工事専用側線
今読み返しても、もうちょっと調べれば更に様々なことが判明した上で書けていたのにと心残りがありながら、一年も経ってしまった。
適宜、一年前に自身が書いた記事に補足と訂正などを交えながら、この一年で追加調査した結果を書いていきたいと思う。
まず、今回調査した結果から、一期・二期工事時代に敷設され利用された材料運搬線について概要を示したい。
材料運搬線 工事期間 昭和6年6月~7年10月
軌道総延長19k800m 索道延長610m
・鉄道
十日町駅~千手発電所間
軌間 1,067mm 762mm 併設 三線軌条 延長3km
千手発電所~石橋~宮中間
軌間 762mm 延長14k100m
石橋~千手事務所間
軌間 762mm 延長1k400m
飯山鐵道越後田澤駅ー田澤村小原詰所間
軌間 1,067mm 延長1k300m
・索道
小原詰所~宮中間 延長610m
つづいて、おおよその年表を示す。なお、材料運搬線の工事期間はおおよそ昭和6年6月~7年10月とされている。
昭和6年 4月 信濃川電気事務所 再設置 4月~ 堀越清六 初代所長
8月 一期工事 着工 (第三隧道着工)
12月 第一隧道 着工
昭和7年 3月 宮中取水堰堤 着工 第二隧道 着工
昭和8年 3月 宮中沈砂池 着工 4月~ 長屋脩 二代所長
昭和9年 6月 圧力隧道 着工 8月~ 釘宮磐 三代所長
昭和10年10月 千手發電所 着工
昭和11年7月~ 倉田玄二 四代所長
昭和14年11月 一期工事竣功 千手発電所発送電開始
ここで、歴代所長を併記したのは理由がある。
これら歴代所長が「土木建築工事画報」という雑誌に寄稿した記事が残っているからだ。また、当時の「土木学会誌」も残っている。更に、ありがたいことに土木学会が土木学会附属土木図書館というオンライン上にこの雑誌を公開しているため、今でもそれらを家に居ながらにして閲覧することが出来る。
鉄道省信濃川発電所工事について、当時の所長という立場の人が当時の状況を記事として書き残しているという大変貴重な資料である。当時の現役の所長の名前で出した記事ならば、文章としての信ぴょう性も高かろうから、それを参照しないというわけにもいかないだろう。
今回は主に「土木建築工事画報」「土木学会誌」の記事、そして今までも引用してきた「十日町新聞」や「信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所」「信濃川30周年記念誌 日本国有鉄道信濃川工事局編」「十日町市史」「十日町市史 証言集」などから一期・二期工事の材料運搬線についての記述を紹介していきたいと考えている。
土木建築工事画報
土木学会誌
工事画報 昭和七年十一月号
信濃川発電事業並に工事現況に就て
鐵道省信濃川電氣事務所長 堀越清六
鐵道省が、信濃川水力發電の計画を始めたのは、相当古いことで、已に大正九年三月には、水利使用に就き新潟県知事の承認を得、大正十年六月には、東京に信濃川電氣事務所を設け、實施設計を進めると共に、現場には工事用輕便線の敷設、詰所、倉庫、官舎の建設等の準備工事に着手したのであったが、関東大震災後、財政の都合上、工事を中止するに至った
しかし、鉄道事業上の必要は、遂に多年の懸案であった、信濃川發電工事に再着手することに省議を決定せしめ、昨年四月一日を以って、新潟県中魚沼郡千手村に信濃川電氣事務所を設け、工事一切を掌理せしめる事となった。
(中略)
以上本工事の他に、材料運搬線、電力並に通信設備及び廳舎、詰所、官舎の建築準備工事を行った。これ等の設備は可成舊信濃川電氣事務所時代に建設したものを移転、改造又は修繕して利用したが、尚新規にも築造した。
これ等の工事の内、最も主要なるものは省線十日町驛より分岐し、千手發電所に至る延長3,320米(メートル)の線路で、その主なる工事は信濃川を横断する延長431米の橋梁である。本橋梁は径間60呎(フィート)及70呎の鈑桁各十連、合計二十連より成り、材料運搬線に供する外、将来灌漑用水路の鉄管をも通ずる様設計してある。
橋脚の大部分は井筒工を用い、桁の架設には特殊の方法を用いた。
特殊の方法とは、鈑桁二連を連結したものを、径間の中央まで突出させて置き、架設するべき桁を之に吊下して架設するもので、一日優に四連を架渡することが出来た。
本線路中、この橋梁は既に完成し、その他の土工も竣功に近い。(7.10.5稿)
土木学会誌 第十九巻 第五号 昭和8年5月発行 (1933年)
鉄道省信濃川発電工事概況
材料運搬線:省線十日町驛より起り千手發電所附近に至る延長3320米のもの及千手より高城澤を経て石橋に至る延長1979米のものを新設し又旧信濃川電氣事務所建設のものの内千手(事務所裏)貝野(取水口堰堤左岸)間延長12粁を改修し十日町より千手に到り、更に水路に沿ひ取水口に至る軌間0.762米の材料運搬線を形成した。又飯山鐡道越後田澤驛より起り取水口堰堤右岸小原臺に至る軌間1.067米延長1320米の線路及小原・貝野間に信濃川を横断して索道を設け材料運搬線に接続せしめ十日町、越後田澤兩驛間の環路を形成した。之等の工事は昭和6年6月より7年10月迄の間に全部完成を見た。此内十日町・千手間の信濃川橋梁は延長431米で70呎、60呎の鈑桁各10連より成り橋脚基礎は井筒工を用ひ、尚将来灌漑用水鉄管をも架設する様設計されている。
工事画報 昭和九年七月号
土木学会夏の見学 信濃川發電工事と新潟港
(※土木学会会員による視察旅行のレポートのようなものらしい)
(※土木學會第20回視察旅行 副会長含めて著名な会員が同行した)
(冒頭略)~
清水トンネルを抜けて越後に入り魚沼川の上流に出ると慮側の谷間にはまだ残雪が見える。遙の嶺々もまだ雪が多い、六月十日と言ふに此辺の驛にはスキーを抱えて下車する学生も見えた。川口驛にて一行の二等車は新潟行と分離され十日町行に連結された。此所から列車は信濃川の右岸を十日町に上る車中で一行は朝食を執った。十日町驛より飯山鐡道線に乗換へ田澤驛に下車し、工事用輕便軌道にて取入堰堤工事々務所の所在地なる小原に着いて愈々本日のスピード視察の本舞台に入ったのである。
小原は鐵道省の信濃川發電工事の宮中堰堤工事所在地であるが、此所より四粁(キロメートル)程の上流には東京電燈会社の鹿渡發電所の計画があり、其上流六粁には同じく東電の中津川發電所などがあって、水力地点としては重要な箇所である。
小原の鐵道省工事詰所にて長屋信電所長は一行に対し、信濃川發電工事の特徴六ヶ条に就いて説明を與へられた。説明は簡単であったが図解と模型等により順序よく解説を與へられた。
(中略)
次いで一行は工事用の輕便軌道にて宮中を發し信濃川左岸を下流に下る事約四十分、通過せる軌道に沿う地下数十尺の處に水路隧道の工事中である。
(中略)
輕便軌道が淺河原に着くと脚下に調整池土堰堤の工事が展開された。其所には縦横に掘削工事が進みつつあるのが見える。再び輕便軌道にて圧力隧道線に沿ふて行く、千手發電所の位置より右に信濃川を横断して十日町驛に下車し、直に自動車にて料亭一聲館の歓迎午餐會に臨んだ。
工事画報 昭和十年七月号
鐵道省信濃川水力發電工事
鐵道省信濃川電氣事務所長 釘宮磐
工事計画
(Ⅰ)沿革
鐵道省が信濃川水力發電の計画を初めたのは相当に古いことで、大正八年七月閣議に於いて石炭の節約を図る目的で動力を水力發電に求むる爲め、先ず以て信濃川水力利用の件決定し、翌九年三月には水利使用に付新潟県知事の承認を得、同十年六月には東京に信濃川電氣事務所を設け実施設計を進むると共に、現場には発電水路に沿ひ約34粁に亘り工事用輕便線の敷設、詰所、倉庫、官舎の建設、工事用機器の購入等準備工作に着手其大略を了し、将に本工事を開始せんとしたのであるが、関東大震災後大正十三年財政の都合上工事を中止するに至った。
(中略)
工事概況
(Ⅰ)準備工事
〔一〕建物
事務所廳舎・・・千手町に在り。
同 官舎・・・十日町及千手町に在り。
其他、倉庫、詰所、官舎等・・・夫々十日町及各現場に在り。
〔二〕材料運搬線 軌道延長19粁800米 索道延長0粁610米
省線十日町驛ー千手發電所間鐵道
軌間 1米097 0米762 併設 延長 粁000米
千手發電所ー石橋ー貝野村宮中間鐵道
軌間 0米762 延長14粁100米
石橋ー千手事務所間鐵道
軌間 0米762 延長1粁400米
飯山鐵道田澤驛ー田澤村小原間鐵道
軌間 1米067 延長1粁300米
小原ー宮中間索道 延長0粁610米
以上が歴代の所長が「工事画報」及び「土木学会誌」に寄せた記事の材料運搬線に関する記述である。
今まで調べてきた郷土史や軽便鉄道に関する書籍などを読んでも判断しかねる記述ばかりの一期工事の材料運搬線であるが、ここまで具体的な記述を伴ったものは初めての連続であった。
>省線十日町驛より分岐し、千手發電所に至る延長3,320米(メートル)の線路
>千手より高城澤を経て石橋に至る延長1979米のものを新設
>旧信濃川電氣事務所建設のものの内千手(事務所裏)貝野(取水口堰堤左岸)間延長12粁を改修し十日町より千手に到り、更に水路に沿ひ取水口に至る軌間0.762米の材料運搬線を形成
>飯山鐡道越後田澤驛より起り取水口堰堤右岸小原臺に至る軌間1.067米延長1320米の線路
>之等の工事は昭和6年6月より7年10月迄の間に全部完成を見た。
更に極めつけは釘宮所長の記事である。
〔二〕材料運搬線 軌道延長19粁800米 索道延長0粁610米
省線十日町驛ー千手發電所間鐵道
軌間 1米097 0米762 併設 延長 粁000米
千手發電所ー石橋ー貝野村宮中間鐵道
軌間 0米762 延長14粁100米
石橋ー千手事務所間鐵道
軌間 0米762 延長1粁400米
飯山鐵道田澤驛ー田澤村小原間鐵道
軌間 1米067 延長1粁300米
小原ー宮中間索道 延長0粁610米
それにしても、具体的な各線区の軌道延長や軌間について纏められている。詳細の数字の部分は多少の誤差はあろうが概要としては十分なものであろう。冒頭の概要はこれを採用させてもらった。これによって、これまで私の中で確信できなかった千手~宮中までの材料運搬線も存在していたと言えるようになったのである。
更には土木学会の視察旅行では、昭和九年六月に材料運搬線のほぼ全線を乗車。余談だが、後の昭和十一年にも内田鉄道大臣がほぼ同じルートで材料運搬線に乗って視察を行っている。
十日町新聞 昭和十一年七月十五日
宛然大名行列 鐵相信電視察 次官、参與官も加はり 雨の中を強行
(中略)
十日町を経て午前八時十五分飯山線田澤驛に到着した。そして飯鐡差し廻しのガソリンカーに乗り換え、同三十分信電小原詰所に至り休憩、それより貝野村宮中まで徒歩、途中取入口堰堤、沈砂池を見、宮中から工事用軽便線に便乗して吉田村小泉に出、高台から連絡水槽、土堰堤工事場を展望、それから自動車で浅川原を経て十時二十分千手町信電工事事務所に入り昼食をとった。
・十日町新聞
更に当時の十日町新聞では一期工事着工から頻繁に記事で取り上げているので、以下でそれらの記事の数々から材料運搬線について書かれたものを紹介したい。
十日町新聞 昭和六年四月五日
待ち切っていた 信電大工事 本年中に着工に決定 職制愈々発表さる
工事着手は七八月頃からか 事務所の看板下る 近く所長赴任
堀越信濃川発電事務所長は来る二十日ごろいよいよ赴任することになったが それまでの留守役として小千谷詰所米倉技手が一昨三日千手村に引き移り「信濃川発電事務所」の看板を千手村詰所にかけた。米倉技手は語る「取り敢えず作付け前に用地の買収に取りかかり 一方事務所の建築にかかることになるだろうが事務所の出来上るのは早くて七月ごろでそうなれば係員も入ってきませう そして本工事もその頃からで本年度の工事は建築物の外に千手十日町間の鐵道と千手貝野間の工事用軌道の修理をなし 水路はもう試験掘などせず本工事にかかり取入口方面の工事にも手を卸すことになりませう」
(以下略)
工事用軌道復活 地元で運動
鉄道省信濃川発電工事は大正九年に魚沼線小千谷から現場まで二十五マイルの延長線工事を起し同十二年完工したが 震災のために工事は中止となりその後線路は内務省用地に編入され今日まで腐るがままに棄てられて居るが 小千谷町ならびに付近の村では右の線路を復活し建築材料は来迎寺小千谷経由にする様寄々協議を行っておったが鉄道省方面に向かい運動を開始することとなった
十日町新聞 昭和六年四月三十日
田澤取入口間 引込線建設 測量隊が実測中 工事準備進む
信濃川発電工事材料運搬のため鐵道省では飯山鐡道田澤驛から分岐し貝野村宮中地先信濃川堰堤築造の箇所まで約十五鎖の引込線を建設することになり 昨二十八日本省那須川技手は約十名の測量隊を率へ田澤村に出張し測量にかかったが測量は約十日間を以て終わり ここの工事も十日町千手間の引込線と同時に行う筈
十日町新聞 昭和六年七月廿日
来月中旬頃 軽便線着手 選定伺済む
さきに信濃川電氣事務所から本省へ提出中の十日町驛より千手村の発電所に通ずる工事用軽便線選定伺ひはこの程パスしたので直に工事伺ひを提出した。工事うかがひは月末か来月はじめに済むらしく用地はすでに地主の承諾書を徴してあるでおそくも八月中旬ごろは請負に附し工事に着手する事になるらしい
十日町新聞 昭和六年十一月十五日
軽便線用地 円満裡に手打ち 等級一級を上げて双方で讓合ふ
十日町から千手村に至る信濃川發電工事用軽便線用地買収については 関係地主四十五名は協定委員七名を挙げ屡々鐵道当局と折衝中であったが 十二日夜鉄道省側の最初の提案より等級一級づつを上げて左の如き価格で協定成り その他補償についても全部解決を見た
十日町新聞 昭和六年十二月五日
信電第一隧道 間組で鍬入式 ー工事は別に急がず徐々に行ふ
さきに百七万九千圓を以て信電工事第一隧道を請負った間組では来る八日現場の貝野村宮中で鍬入式を挙げることに決定した。なほ間組では工事の施行方針について語る「まだ方針もはっきり極まっていない 何しろあの工事には鐡道省で運搬線敷設その他利便を図る条件になっているが 鐡道省のその準備は未だ出来ていないのでこれを利用せずに工事を急ぐと 組としては不経済で殊に竣工期間は向う四ヶ年の長きに亘っているから今から急がないでも間に合わせられる だから本年度は無理をせず徐々にやって行くつもりである」
雪道一里 通勤は困難 通勤列車を運転
千手村の信濃川電氣事務所へ十日町の官舎からの通勤者は現在七十余名であるがいよいよ降雪を見、自動車の運転不能となった場合、朝夕、雪の道一里づつの通勤は雪国の人にさへ決して容易ではないのに中には雪など見たことのない南国の人も交っているのでその難渋も一方ならぬものとみられていたが、事務所では種々考究の結果、目下工事中の軽便線工事を特に急がしめ、十日町驛信濃川川岸間に通勤列車を運転し信濃川は渡船の設備をなし、これに充てると言う案を立てそれぞれ準備中である。なほ川西自動車商会は冬期十日町上野間を馬ソリの運転を計画している。
信濃川征服! 自然と人の闘争場 潜水夫まで入って 鉄橋工事大車輪
十日町驛から千手村発電所間の軽便線をつなぐ信濃川鉄橋工事は昨今の雪荒にもめげず百余名の人夫を督して大車輪でやっているが、怒号するやうに流れる信濃川の本流を中心に十九本のピーヤを建てその上に橋梁を渡さうと云ふのであるから難工事である。(以下略)
十日町新聞 昭和六年十二月二十日
鐵道省の通勤列車 降雪次第に運転開始
信濃川電氣事務所へ十日町の官舎からの通勤者は現在七十八名あるがいよいよバスが運転不能に陥ったので略出来上った軽便線を利用して予定通り通勤列車を運転し信濃川の渡河は工事用の渡船の便によることにした。列車は左の時刻により一日三往復である
十日町發午前八時 千手發仝十時半 十日町發仝十一時 千手發午後一時半 十日町發仝二時 千手發仝四時半
十日町新聞 昭和七年一月一日
昭和七年は!本体工事に専心傾注せん 信濃川電氣事務所長 堀越清六
(前略)
第三の問題は冬期十日町より通勤する職員の交通方法である。之が爲十日町千手間の材料運搬線工事を急ぎ十日町驛より信濃川左岸迄を竣成せしめ軌道敷設砂利敷を昨年末迄に漸く了って瓦斯倫(ガスリン)列車を運転し得るに至った。
(以下略)
十日町新聞 昭和七年二月二十五日
信電工事請負 続々と出る 第一隧道西松組へ 今日は運搬線
鐡道省信濃川電氣事務所では水路第一期線第一隧道下半分一キロ六百三十五メートルの工事請負入札を二十二日行ったが開票の結果百十五万九千圓で西松組に落札した。
(中略)
なほ昨二十四日は矢張り第一隧道上部材料運搬線土工その他新設工事請負入札を行ったが一千〇八十圓で間組の請負の處となり本二十五日には千手村河原から千手トンネル附近へ九百二十メートルの運搬線工事請負入札を行ふことになっている
十日町新聞 昭和七年三月三十日
信電工事座談會
信電所長 堀越氏
まづ工事をはじめるには事務所と係員の住む處がなければなりません。そこで第一に御承知の通りの聴舎を千手村に建てた。次いで官舎は千手村と十日町にわけ千手村に十五戸、十日町に四十戸を建て 夫々現場の方にもいるからこれは先年のものを修理し併せて六七十戸を造って人を入れました。
さていよいよ工事を始めることになると材料運搬線をつくるのが先決問題となる しかしこれは先年大体出来ていたものを利用し 只上越線、十日町線の開通によって運輸系統が最初の計画時代より変わっているので 新たに十日町線に接続して十日町から吉田村小泉までを作ることになった 此工事は余程すすんでいる 千手村から貝野村宮中間は既設のものを利用し土工の修繕と上の軌道を延ばすのは秋までに完成させたいと思っている さらにもう一つ、飯山鐵道田沢驛から堰堤までゆく運搬線は輸送貨物の性質を考慮して本線同様の軌道にすることにし工事はすでに終わっている 準備工事は大体こんなものである
本工事は第一に第三隧道の下部を八月から直轄工事でかかった 現在の掘進状態は導坑が約一千尺すすみコンクリートの巻き立ても始めている 次に貝野村宮中を起点とする第一隧道の上部は請負で昨年の暮れに着手しすでに横から入る穴は完成して本導坑に入りかけている また、堰堤、第一隧道下部、第二隧道は最近請負に附し夫々工事にかかることになっている
十日町新聞 昭和七年四月十五日
信電! 着手の工事 着々すゝむ
信濃川電氣事務所で最近着手する諸工事は次の如くである
(一部抜粋)
△千手仮機関車小屋新設其他工事四〇九圓 竣工四月廿九日
△千手山邊間配電線路撤去工事三、二七九圓
△材料運搬線鉢澤橋梁其他工事三、四〇〇圓 竣工五月十日
十日町新聞 昭和七年五月二十五日
信電事務所で最近施工工事 ・・着々と進む
(一部抜粋)
△小千谷千手間通信線路修繕工事直営予算七五二圓
△西小千谷機関庫その他修繕工事請負額六八五圓六一銭竣工期六月二十三日
△信濃川橋梁外二ヶ所銅桁修繕並塗工事請負額五、四七九圓七〇銭竣工期七月十三日
十日町新聞 昭和七年六月五日
信濃川渡橋 八月ごろか 橋脚は進む
間組の請負の下に施工中の十日町驛ー千手發電所間引込線並に信濃川鐡橋工事は案外すすみ引込線の方は殆ど完成して信濃川左岸までバッテリーカーが入り橋台も残り少なくなった、そして目下当町驛構内にある橋桁の修理を鐡道省の手で行いつつありこれも六月中に終わり八月ごろから桁渡しにかかるがこれは直営でやることになるらしいと
十日町新聞 昭和七年七月三十日
中止の風何處! 炎天下に働らく 二千餘名の人夫 ー請負額三百五十餘万圓ー 信電工事出来高
鐡道の大減収から工事中止説を傳へられている信濃川發電工事は現在どの程度迄進行しているか。最近の出来高を示すと
一、十日町千手間材料運搬軽便線七分三厘六毛
(以下略)
十日町新聞 昭和七年八月二十五日
信濃川発電工事現況に就いて 鐡道省信濃川電氣事務所長 堀越清六
(中略)
材料運搬線設備工事は昭和六年八月、十日町千手間材料運搬線工事に着手以来其の他の線路も予定通り進行し既に完成使用中のものもある。今此工事現状を略記すれば
小原線 飯山鐡道越後田澤驛から小原に至る延長一三二〇米の線路で昭和六年十月起工既に竣工して材料の輸送を開始している
堀之内線 軽便本線堀之内から分岐する延長五〇〇米の運搬線で主として第一隧道上部の材料を運搬する。昭和七年四月に起工既に完成使用中のものである
浅河原線 軽便本線浅河原から分岐する延長三〇〇米の運搬線で第三隧道調整池及圧力隧道等の材料を運搬するのが目的で目下工事中である
十日町千手間軽便本線 省線十日町驛より分岐し千手發電所に至る延長三三二〇米の線路で昭和六年八月起工以来順調に進行している。本工事は材料運搬線中随一の大工事で主なる工事は信濃川を横断する延長四三一米の橋梁である。本橋梁は径間六十呎十連七十呎十連より成り材料運搬の外に将来灌漑用水路の鉄管をも通ずる様に設計されている。橋脚橋台は既に築造を終り目下桁架工事の準備中で本年十月初旬には全部完成の見込みである。(つゞく) (つづきは 十日町新聞 昭和七年八月三十日)
千手河原高城澤間軽便本線 前記十日町千手間に接続する延長九二〇米の線路で昭和七年三月着手目下七十%の出来高歩合を示し近く完成の予定である
高城澤石橋間軽便本線 前記千手河原高城澤間に接続する延長一〇五九米の線路で昭和六年十月着手、既に土工其の他工事を完成し軌道敷設のみが残されてある。
此外千手宮中間の本線は 前計画当時既に土工其の他工事と一部の軌道敷設工事とを完成したものであるが 経年の結果橋梁其の他に腐朽破損を生じたる所が多く爲に全線に亘り修繕工事を施し 既に大部分竣功し 目下軌道敷延ばし中で本年十月初旬には全部完了の予定である
十日町新聞 昭和七年九月三十日
中止説を外に既定工事は進行 第三隧道下部完了近し 信電工事の近況
鐡道省信濃川發電工事の昨日までの工事進行状態は次の如くで工事が続行されるか否かについて喧すしい中にも既定工事は着々としてすすめられている
▲第一隧道上部 〇、〇九四
▲仝下部 〇、〇八〇
▲第二隧道 〇、二〇七
▲第三隧道下部 〇、九三六
▲右岸部堰堤 〇、二八九
▲十日町千手間材料運搬線 〇、九五〇
十日町新聞 昭和七年十月三十日
信電工事 着々進む 十月の分
信濃川電氣事務所で十月に入ってから直営並に請負で着手した主なる工事は次の如くであったが斯て地方民の工事中止の懸念も吹き飛ばされ着々と進行しつつあるわけである
△千手機関庫其の他電話機取付工事 直営三〇五圓二〇銭
△十日町驛構内材料置場引込線一部移設並撤去工事 直営一二九圓
△千手田澤線呼出電話機取扱工事 直営二、二〇四圓
△材料運搬線浅川原線軌条敷設工事 直営一、一一三圓六〇
△十日町給炭水設備その他 神谷國繁一、二一〇圓
△材料運搬線保守 直営二、一六二圓一六五
十日町新聞 昭和七年十一月十日
軽便線は完成 第三隧道も進む 信電最近の工事状態
十月末日までの信電水路の竣功歩合は次の如くで直轄の第三隧道下部の最初の計画の箇所は完成したわけである。なほ十日町驛千手發電所間の材料運搬線も完成した
十日町新聞 昭和七年十二月十五日
信電! 通勤列車 大雪になれば休運
鐡道省信濃川電氣事務所ではいよいよ降雪を見て十日町官舎事務所間の通勤自動車の運転が困難になったので左記時間表によって通勤列車を運転している
△十日町發
(イ)前 九、四五
(ホ)仝 一一、三〇
(ハ)後 三、三〇
△千手發
(ロ)前 九、二〇
(へ)後 一二、〇五
(二)仝 四、〇五
なほ(ホ)(へ)両列車は土曜日に限って運転するものである。また降雪いよいよ甚だしく路線の除雪を要するやうになった場合は列車も運転を休止し全員徒歩通勤する予定であると
十日町新聞 昭和八年一月一日
第一期分の全体に及ぶ 労働者も増加! 信濃川電氣事務所長 堀越清六
(中略)
而して昭和六年度以降着手の材料運搬線田澤小原間は昨年四月に千手宮中間は同年十月に又十日町千手間は同十二月に夫々軌道の敷設を終え之を以て材料運搬線は全部竣功を告げたのである
十日町新聞 昭和八年四月廿五日
軽便列車 運転時刻
信濃川電氣事務所では軽便列車(客車)を左の通り運転している
△千手宮中行
十日町發 七、四五 八、〇五 一一、三〇 〇、四五 三、三〇
千手分岐点發 八、〇〇 八、二三 一一、四五 一、〇三 三、四五
千手着 八、〇七 一一、五二 三、五二
小泉發 八、二七 一、〇七
浅河原分岐点發 八、三二 一、一二
鐙坂發 八、四一 一、二一
姿發 八、五八 一、三八
堀之内發 九、一二 一、五二
宮中着 九、一五 一、五五
△十日町行き
宮中發 九、三〇 二、〇〇
堀之内發 九、三三 二、〇三
姿發 九、四四 二、一五
鐙坂發 九、五五 二、二八
浅河原分岐点發 一〇、〇二 二、三五
小泉發 一〇、一四 二、四〇
千手着 八、二〇 〇、〇五 四、〇
千手分岐点發 八、二七 一〇、一七 〇、一〇 二、四九 四、一〇
十日町着 八、四二 一〇、三二 〇、二五 三、一二 四、二五
以上がおおよそ材料運搬線の工事開始から完成までの期間における十日町新聞の記事の紹介となる。
工事画報の記事と併せて読むことで、材料運搬線についての理解が深まるだろう。
以上、各資料の記述を元に、以前紹介した空中写真を一部訂正し、再掲する。
そもそも空中写真からのみ推測した軽便の痕跡を追ったものであるから、そういうポンチ図となっている。
これに対して、工事画報 昭和十年七月号釘宮三代所長の記事に、水路隧道平面図という概要図が掲載されており、それを引用する
この図には材料運搬線がしっかり描かれているので、例によってポンチ絵で主に軽便をトレースしたものを示したい。
これが一期工事時期の材料運搬線のほぼ全貌だと言えそうだ。一年前に空中写真から推測したポンチ絵も、当たらずと雖も遠からずといった感じではなかろうか。
軽便線の工事は昭和6年に用地買収や測量などを行い、主に翌昭和7年に土木工事や軌道敷設が行われたものということも分かった。
以下、こぼれ話というか、適宜資料を参照しつつ、思ったことをつらつらと書いていく。
・材料運搬線と工事の進捗
何故、材料運搬線の建設が重要かと言うと、水路隧道や調整池などの各現場への材料運搬を担うことになっていたからで、工事の進捗には材料運搬線の開通が必須条件であった。例えば水路隧道を掘り進めて行くために日常的に消費されていくであろうセメントや支保工として使われる木材、その他機械諸設備や人員の輸送までも担っていたと考えれば、いかに工事の着工や進捗と密接な関係があったかは言うまでもないだろう。堀越所長の言葉を借りるならば、「さていよいよ工事を始めることになると材料運搬線をつくるのが先決問題となる」ということである。
工事請負側も鐡道省が輸送路を確保することを待っていたような記述が、先に紹介した昭和六年十二月五日付の十日町新聞に載っている。
十日町新聞 昭和六年十二月五日
信電第一隧道 間組で鍬入式 ー工事は別に急がず徐々に行ふ
さきに百七万九千圓を以て信電工事第一隧道を請負った間組では来る八日現場の貝野村宮中で鍬入式を挙げることに決定した。なほ間組では工事の施行方針について語る「まだ方針もはっきり極まっていない 何しろあの工事には鐡道省で運搬線敷設その他利便を図る条件になっているが 鐡道省のその準備は未だ出来ていないのでこれを利用せずに工事を急ぐと 組としては不経済で殊に竣工期間は向う四ヶ年の長きに亘っているから今から急がないでも間に合わせられる だから本年度は無理をせず徐々にやって行くつもりである」
請負入札で落札し、鍬入式も行ったが、鐡道省側の運搬線の敷設その他利便の準備が出来ていないから工事は急がないという。
鍬入式について 建設工事の式典には,どんな種類や意味があるのですか? 鹿島建設
では、鐡道省側はどうだったのか。「信濃川30周年記念誌 日本国有鉄道信濃川工事局編」に技師として昭和6年6月から信濃川電氣事務所で水路隧道以外の一切の用務を担当した中矢技師が当時の様子を書き残してくれているので抜粋しよう。
(冒頭略)
事務所設置当時は隧道関係の一切を三好新八技師が担当せられ、明り丁場の一切を私が担当いたしまして種々雑多の用務を処理して行ったのですが、何分にも庁舎も倉庫も官舎も何一つありませんので、第1番に新庁舎を中魚沼郡千手村に、官舎を十日町に設置することにして、これ等の新設工事を私が担当しました。十日町の官舎が竣功いたします迄の間、私は千手村の百姓家の一室を借受けて不自由な日々を送ったものです。然し乍ら当時は新庁舎、官舎、倉庫、現場詰所等の新設工事と工事材料の運搬用軽便線の敷設工事等大至急処理せねばならない事が毎日山の様にありまして、少し大袈裟ですが全く不眠不休の日々でした。従って自分の身辺の不自由なんか顧みている暇なんぞありませんでした。三好さんも私も全く転手古舞の状態だったのです。
かくして昭和6年8月には省線十日町駅から分岐して千手発電所に至る延長3,320mの軽便線の新設工事着工の運びとなり、担当技師は私、現場主任に奈須川丈夫技手、工事施工者は間組、間組の現場主任は三枝氏でした。奈須川丈夫君は今間組に奉職して居られます。この軽便線は名称こそ軽便線でしたが、発電所に据付くべき発電機その他の重量物の運搬と、将来灌漑用水路の鉄管を添架する事の加能な様に設計され、本線なみの線路構造でした。而して十日町を出てから信濃川の本流を横断いたしますので、たしか60呎10連と70呎10連合計20連の長大橋梁の下部工事並に鉄桁架設工事が含まれておりました。
発電工事の本格的工事は昭和6年8月に第3隧道下部工事が三好新八技師の担当で着工され、引続いて第1隧道上部、第1隧道下部、第2隧道と次々と着工されました。従って軽便線の新設工事も全く昼夜兼行の突貫工事でした。今から丁度30年以前の事で、私も奈須川氏も三枝氏も若かった。この時代の事を想い出しますと、奈須川氏、三枝氏に対してかぎりない懐かしさを感じます。
(以下略)
このように、いざ工事が始まると材料運搬線の重要性と完成が急がれていた様子が見て取れる。このように材料運搬線の完成と工事の進捗は密接な関係があったわけで、材料運搬線の完成でようやく工事は本格化したのである。
・越後田沢駅~小原までの材料運搬線について
私が飯山鐡道を調べている過程で知った飯山鐡道(飯山線)の越後田澤駅から宮中ダムに向かう工事専用線であるが、これについてもしっかりと記述されいる。
今まで問題だったのは、軌道の存在よりも、その敷設された位置であった。越後田澤駅から小原詰所(宮中ダム工事開始当初の信濃川右岸の工事拠点)までどのように専用線は走っていたのか。
これについても平面図に描かれていたため、例によってトレースしたものをポンチ絵で示したいと思う。
おおよそ、この線形で段丘面上を走っていたのだろう。更に、材料運搬線は段丘崖上にあったため、河床の工事現場へはインクラインで材料を降ろしていたことを伺わせる写真が残されていることは以前に紹介した通りだ。
小丸山の諸材料捲下げ現場(昭和7年)
残念ながら、今回の調査でこのインクラインについての記述は見付けることが出来なかった。これについても継続して調査を行っている。
更に、工事画報宮中ダムの平面図も紹介しよう。これは「工事画報 昭和十年七月号 鐵道省信濃川千手發電所建設工事現況 鐵道省信濃川電氣事務所長 倉田玄二」に掲載されているものである。
これこそが「小原ー宮中間索道 延長0粁610米」である。
材料運搬線で現地に到着した材料は索道で信濃川左岸の川西地区へ索道で運ばれ、宮中停車場から再度材料運搬線で各現場へ運ばれていったものと思われる。
材料運搬線自体は千手方面とも繋がっていたから、この索道がどれほど活躍したかは分からないが、宮中ダムの完成を待たずして環状輸送路を形成したということである。
当たり前のように書いてきたが、私は「宮中"停車場"」という記述に嬉しくなった。材料運搬線の駅のようなものが停車場と名付けられることで、鉄道然としてくると感じたからである。
・石橋のデルタ線について
これまでデルタ線とした石橋の分岐点について考察したい。まず、私が以前書いたこれまた恥ずかしい文章があるので紹介しておく。
信濃川発電所材料運搬線(高城澤)
いわゆる”軽便本線”の一部となろうが、石橋のデルタ線は空中写真でも現地調査でもそれらしきものがあるだけに否定し切れない存在であることは断っておきたい。しかし、これまでポンチ絵でも示している線路予想の根拠としている空中写真は戦後の撮影なので、一期工事当時の写真ではない。つまり、空中写真をもってデルタ線があったと言い切るのは根拠に乏しい。このデルタ線が無かったとすると、石橋の分岐から千手(山野田)方面に向かう列車は、運転上スイッチバックとなり、推進運転もしくは機関車の付換えが発生すると思われる。
これに対するヒントが「別冊市史リポート 手記 私の証言 第三集 十日町市史編さん委員会」にあったので紹介したい。
思い出
大正八年頃より信濃川発電の計画が鉄道省で始まり、逐次調査測量する。当時は小千谷までしか汽車はなく小千谷より資材運搬軽便工事が始まった。大正十二年九月一日関東大震災あり大騒ぎとなる。
(中略)
昭和五年頃から水力電気の必要が益々高くなり、信濃川発電工事の準備が始まる。千手町高原田に職員官舎と工事事務所が建つ。後日山野田本事務所に移る。職員官舎が四郎兼・山野田・稲葉・原・山谷・小泉・南北鐙坂・十日町駅北方に沢山建つ。十日町駅より資材運搬軽便工事が始まる。上新井鉄橋ピア工事で潜水夫を初めて見た。鉄道は発電所、小泉・浅河原・鐙坂・鉢沢と。又石橋でスイッチバックで山野田まで。昭和六年に山野田に信濃川発電工事事務所の立派な建物が出来た。
しっかりと石橋でスイッチバックして山野田までと書かれている。運転取扱いについて推進運転なのか機関車を付換えていたのかまでは分からないが、軽便線がスイッチバックして山野田の千手事務所方面に向かっていたとは言えそうだ。つまり、一期工事の頃には山野田(千手事務所)方面へ直通するデルタ線は無かったのだろうと考えられる。おそらく、デルタ線は三期工事以降に主な工事区が千手・上野・真人方面へ移り、そこへ直通するために造られたものなのだろう。そして、三期工事以降の工事の記録である「信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所」には資材輸送路平面図にデルタ線として反映された。ただ、本工事誌の材料運搬線の新設についての頁にもデルタ線の記述は無く、正確なところは未だに不明であり、継続した調査を行っているところである。
信濃川水力発電工事誌 資材輸送路平面図
・鉢沢川橋梁について
鉢澤橋梁についても、「十日町新聞 昭和七年四月十五日」に具体的な予算や竣功時期が示されている。
△材料運搬線鉢澤橋梁其他工事三、四〇〇圓 竣工五月十日
これは種々の資料を見てきて初めてのことで、その存在を証明する一つの記述として示しておきたい。何しろ軽便線で信濃川橋梁に続くほどの大規模な橋梁工事のはずであるのに、郷土史にも記述のない橋梁である。その存在を示す根拠がずっと欲しかったのは言うまでもない。例え、現地調査で橋台跡などの遺構が現存していたとしても、それを以ってその存在を証明するわけにもいかない。 信濃川発電所材料運搬線(鉢沢川橋梁(仮))
それも、十日町新聞が記事にしてくれていた。
十日町新聞 昭和八年一月一日 △寫眞説明 材料運搬線鉢澤橋梁附近
この写真を見た時に、私は飛び上がりそうになったのは言うまでもない。これほど理想的な写真があろうかという写真が、当時の十日町新聞に掲載されていたのだ。立派なトラス橋に軽便の機関車が単機で煙を吐いている写真だが、鉢澤橋梁の様子を十分に示す写真である。確かに鉢澤橋梁はあった。宮中へ伸びる材料運搬線全通の最終局面として、この橋梁の完成があっただろう。そういう橋だと思う。そして、谷間で土被りも浅い高島鉢澤は、後に第三隧道上部の斜坑が掘られ、土捨場となり、水路隧道工事でも重要な場所となったのは言うまでもない。
S7.7 鉢沢材料運搬線橋りょうけた架設作業
・軽便通勤列車(客車)について
十日町駅から川西地区へ材料運搬線による職員向けの通勤列車が運転されていたのは以前から承知していたが、これについても様々なエピソードがあるので紹介したい。職員のみならず、地域住民にも関わってくる部分なので、それこそ多くのエピソードがあり、今回紹介するものはその一部に過ぎない。しかし、材料運搬線について発電所工事における材料輸送手段と言う本来業務の”仕事”的な面とは違う、”生活”的な一面を知る事が出来る。
特に材料運搬線の信濃川橋梁が完成して信濃川を横断できるようになると、十日町官舎と山野田の千手事務所や各工事区への通勤手段として活躍することになる。
客車は4両もしくは3両が在籍しており、軽便蒸気機関車に引かれていた。
信濃川橋梁を十日町方面に向けて走る軽便。本橋梁の待避スペースは上流側に設けられたらしいので、十日町行だろう。
主要停車場や折返し駅に転車台があったのか知らないが、機関車のバック運転もやっていたようだ。
炎天下、千手町婦人会一行が軽便鉄道で十日町へ(信濃川工事事務所裏の発着所で、昭和15年) 川西町史より
時に軽便は地域住民を乗せて動いたりしたこともあったようだ
客車に乗り込む様子。ホームなんて無い所が多かったようだ。
冬のケ170形 従業員輸送列車を牽引するケ173号 所蔵:宮田憲誠
国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 に掲載されている軽便客車での通勤風景。
特に撮影年月についてのキャプションが無いのが残念だが、冬と言うより春先の写真だろうか。
モノクロながら、どこか暖かくなってきた春先の日差しと、泥濘んだ地面の感触や土臭さ、機関車の蒸気や排煙の匂いまでもが薫ってきそうな写真で感動してしまった。
冬期は軽便も雪に埋まることがあったようで、そうなると職員も十日町から千手まで徒歩で通勤したようだ。
大量に使用するセメントを各工事区へ運ぶ軽便列車が十日町駅で待機している。
十日町駅西側の軽便は敷地五,〇〇〇坪、側線が八線設けられたと言われている。
昭和30年ごろには列車も走らなくなり、通勤路として線路を歩く人が多くいたようだ。現在の妻有大橋の車の交通量を見れば頷ける。三線軌条が良い。
昭和八年四月二十五日付の十日町新聞に時刻が掲載されている。
軽便列車 運転時刻
信濃川電氣事務所では軽便列車(客車)を左の通り運転している
△千手宮中行
十日町發 七、四五 八、〇五 一一、三〇 〇、四五 三、三〇
千手分岐点發 八、〇〇 八、二三 一一、四五 一、〇三 三、四五
千手着 八、〇七 一一、五二 三、五二
小泉發 八、二七 一、〇七
浅河原分岐点發 八、三二 一、一二
鐙坂發 八、四一 一、二一
姿發 八、五八 一、三八
堀之内發 九、一二 一、五二
宮中着 九、一五 一、五五
△十日町行き
宮中發 九、三〇 二、〇〇
堀之内發 九、三三 二、〇三
姿發 九、四四 二、一五
鐙坂發 九、五五 二、二八
浅河原分岐点發 一〇、〇二 二、三五
小泉發 一〇、一四 二、四〇
千手着 八、二〇 〇、〇五 四、〇
千手分岐点發 八、二七 一〇、一七 〇、一〇 二、四九 四、一〇
十日町着 八、四二 一〇、三二 〇、二五 三、一二 四、二五
文字で起こされてもまったく分からないので、ダイヤに起こしてみる。ダイヤに起こすことで大体の列車の動きが分かる。
宮中方面行列車を赤色、千手方面行列車を黒色の列車線で示した。
ここで、駅名というか、発着場所の記述があるが、これには悩んでしまった。ダイヤ上の千手分岐点と言うのが恐らく石橋の分岐点の事だろうと思われ、千手(山野田)方面行列車がここでスイッチバックしていたことは前述のとおりである。
当たり前のように石橋の分岐だとしたが、”千手”というからには千手発電所の分岐の可能性も捨てきれない。しかし、運転時分を見ると、千手分岐点発ー千手着間が7分程度。千手分岐点発ー小泉発が3~4分程度である。石橋ー千手事務所間が1.4kmとされており、地図の距離測定から石橋ー小泉は半分の約700m程度と考えられるので、石橋とすると時分とも整合性が取れよう。
また、浅河原分岐点というのも怪しいが、これも浅河原の集落の辺りと考えている。分岐点というからには、他の線と分岐しているのだろうが、これが浅河原線だと思われる。先に紹介した十日町新聞における堀越所長の記事に「浅河原線 軽便本線浅河原から分岐する延長三〇〇米の運搬線で第三隧道調整池及圧力隧道等の材料を運搬するのが目的で目下工事中である」とあるので、この支線との分岐と考えられる。土堰堤工事では調整池の底を軽便機関車が走っている写真があるので、分岐して現場まで乗り入れる線路があったのだろう。
小泉は上原神社や小泉の公民館のちょっと南の集落の外れあたり、鐙坂はおおよそ鐙島小学校の正面のあたりで鐙島停車場と言ったらしい。姿は第二隧道工事区に近い場所と考えると、おそらく姿の集落の中というより、その北の外れにある砂利工場のあたりを指していると考えられる。堀之内についても堀之内線という支線がでているが、おおよそ慈眼寺の正面の道と軽便がぶつかった辺り。宮中は宮中停車場として示している。
各停車場間の距離をグーグルマップ上で測定すると、だいたい以下のようになる。
十日町ー石橋間 約4km
石橋ー小泉間 約0.7km
石橋ー山野田間 約1.4km
小泉ー浅河原間 約0.7km
浅河原ー鐙坂間 約2km
鐙坂ー姿間 約3.1km
姿ー堀之内間 約3.1km
堀之内ー宮中間 約0.7km
十日町ー宮中間を通算すると約14.3kmとなり、工事画報の釘宮所長の記事で示されている「千手發電所ー石橋ー貝野村宮中間鐵道 軌間 0米762 延長14粁100米」とそこまでかけ離れた数字ではないことが分かる。土木学会誌に示された「旧信濃川電氣事務所建設のものの内千手(事務所裏)貝野(取水口堰堤左岸)間延長12粁を改修」と比較すると、私の出した数字は約11.7kmとなり、誤差はあろうが当たらずと雖も遠からずといった感じだろうか。
また、これ等の駅間距離と運転時分からおおよその運転速度を算出すると、だいたい各駅13km/h~17km/hくらいの間に収まる。極端に速いとか、極端に遅いという事もない。石橋ー小泉ー浅河原の単距離でノロノロ停まっていく区間は10.5km/hくらいになるが、停車が多い列車なんてそんなもんである。(乱暴)
以下に通勤列車のエピソードを紹介していく。
・信濃川30周年記念誌
信電時代の思い出 倉田玄二
私の信電所長時代の生活は昭和11年の夏から14年の夏まで丸3ヶ年で一口に云えばよい御時世であったと思う。子供の学校の関係もあって家族は東京に住まわせて 単身で赴任し十日町の大きい所長官舎に傭い婆さんと其子供の3人暮しで 朝晩定刻に軽便線の列車で千手の事務所に往復し 仕事の方は阿部技師以下優秀な人達がそろって居て心配なく 帰宅夕食後はクラブで玉突きやらマージャンやら所員の方々に相手に成って貰い 夜10時にはクラブを閉鎖して帰宅して就寝する。土曜は十日町正午発の列車で東京へ行き 日曜の夜行で仮睡して帰り 朝8時十日町発の軽便で事務所へ出勤という事に成って居た。
なつかしい信濃川 大谷勝
千手の高城沢の官舎に居た21年の初めての冬だったと思いますが 夜遅く十日町駅から帰る時 十日町を外れた辺りで雪がどんどん降りしきり 踏み固めた道が分からなくなって田んぼの吹き溜まりに落ち込み 胸の辺りまで沈んでウントもがいた挙句 やっと抜け出した事もありました。十日町官舎に移ってから軽便線通勤風景もなつかしいものの一つです。客車3両か4両継いだ軽便線も古風なものでしたが 皆夫々ズタ袋のカバンをかけてキセルで煙草を喫みながらの談笑して居る風景も思い出されます。
信濃川の思い出 北村市太郎
竣工式は千手の発電所事務室の会議室でやりましたが、二等寝台(今の一等寝台C)専用列車が、千手の側線迄入って来ましたのも古今未曾有の出来事でしょう。
・信濃川水力発電所の材料運搬用軽便線 上村政基
軽便線を歩く
一般に「軽便」と略称されていたが、一定時間に運転される客車便は、発電関係者だけの利用に限られていて、無縁の住民にとっては高嶺の花であり、通学パスを持った中・女学生が乗っているのを横目に見ながら黙々と鉄橋を歩いて通学した少年も多い。
千手地区から通学する中・女学生たちは、朝七時半過ぎごろには高城沢へ集まり、小泉方面から来る軽便客車に乗って十日町へ向かう。軽便十日町駅は本線十日町駅の西側に接していて、専門の車庫があり、木造の簡単な乗車ホームが造られていた。車庫に続いて幾棟かの倉庫が並んでいた。通学客車便は、帰りに十日町官舎の職員通勤車になった。
通学の客車便には、図々しく仲間入りして乗車する者もあったが、時折り意地悪そうに見える職員があらわれて通学パスを検札することがあり、持っていない者には皮肉いっぱいの文句をつけるので、嫌われた。筆者は、遠縁に軽便機関車の運転手がいたので、その手蔓を頼って乗車の便を得たけれども、内情が分かるにつれて労務現場の人では乗車パスが貰える筈がなく、怖い上級生と同乗するのも気苦労が多いので、早々に徒歩通学に切替えた。
当時の高城沢は、県道沿いに飯場と呼ばれる労務者宿舎が二棟ばかりあり、反対の西側に駄菓子や酒を売る店が一軒あった。飯場の南を回って急な崖道をおりていくと、水路トンネル掘削の土捨場になっていて、横坑からトロッコが出入りしていた。
軽便線路を歩いていく者は、発電所サージタンクの南側に自動車の通れる道が切られていたので、その坂道を下っていく。左下に発電所が見える。坂をおりたあたりが昔の孫左衛門集落で、十日町橋ができるまで舟渡し場があった。そこから軽便鉄橋を渡る。
軽便鉄橋は、二枚で幅四〇センチ程度の板が敷かれて通路になっていたが、当然に貨車が不定期に往復するわけであり、狭い通路は危険であったから通行は禁止されていた。しかし、毎年のように十日町橋が流失・破損して通行不便であったため、軽便鉄橋を利用するのが一般の常識のようになってしまい、発電所側でも止むを得ず黙認の形で済ませるより仕方がなかった。鉄橋の上流側には除け場が幾つか設けられていて、軽便列車が橋の手前でポーと合図するのを聞き付けると、いそいで近くの除け場へ避難した。馴れてみれば何でもないことであったが、慌てて下の川原へ跳んで命を失った老人もあり、スピードを緩めた機関車の前を走る事もできず、狭い板の道を避難場所まで急ぐ女・子どもたちの気持ちは大変なものであった。
・別冊市史リポート 手記 私の証言 第三集 十日町市史編さん委員会
粘土場工事の思い出
昔の発電所工事に関係した小泉の出来事について私の体験を中心に、思い出話を語ってみたいと思います。
(中略)
私はその後軽便線の旗振り(車掌兼信号手)に採用され、今の中学校地内にあった機関庫(車庫)と千手発電所、十日町駅の間を毎日行ったり来たりでした。町へ用事のある村の人達は勿論の事、洪水で十日町橋が落ちた時は、鐙坂方面の中学生や女学生まで乗せてやりましたが(パス無しで)、偉い人も黙っていました。主な仕事は飯山線で十日町駅についた色々な工事用資材を機関庫迄運搬することでした。当時は川東の高山・城之古から大勢の人が仕事に通って来ていたが、元市議の小林正俊さんも機関車の運転手をやっていて今でも会うと懐かしい昔話に花を咲かせます。
思い出
大正八年頃より信濃川発電の計画が鉄道省で始まり、逐次調査測量する。当時は小千谷までしか汽車はなく小千谷より資材運搬軽便工事が始まった。大正十二年九月一日関東大震災あり大騒ぎとなる。
(中略)
昭和五年頃から水力電気の必要が益々高くなり、信濃川発電工事の準備が始まる。千手町高原田に職員官舎と工事事務所が建つ。後日山野田本事務所に移る。職員官舎が四郎兼・山野田・稲葉・原・山谷・小泉・南北鐙坂・十日町駅北方に沢山建つ。十日町駅より資材運搬軽便工事が始まる。上新井鉄橋ピア工事で潜水夫を初めて見た。鉄道は発電所、小泉・浅河原・鐙坂・鉢沢と。又石橋でスイッチバックで山野田まで。昭和六年に山野田に信濃川発電工事事務所の立派な建物が出来た。
(中略)
軽便線も出来上り山野田事務所に勤務する十日町官舎の職員は、朝の出勤と夕方の退庁時は軽便線で。まるで専用お召列車のようなものであった。田沢堰堤資材は田沢駅より軽便線で運ぶ。田沢堰堤工事にも行った事もある。
そもそも、十日町に所長含めて鐵道省職員(技師など)を住まわす官舎が建設されたのは分かる。十日町は街なので、住むのに便が良いからだろうという想像が付く。それならば、庁舎も山野田(千手)ではなくて、十日町に置けば良いじゃないかと思う。庁舎は山野田(千手)なり現場近くじゃないとならない理由もあろうが、官舎も庁舎も十日町にあれば、毎日列車で通勤する必要が無くなる。それについて、初代堀越所長が書いている。
・信濃川30周年記念誌
信濃川電気事務所の開設当時の思い出 堀越清六
鉄道省信濃川電気事務所の開設当時私は北海道建設事務所長をして居りましたが、丁度痔の治療の為め上京中の際、即ち昭和6年3月30日に黒河内建設局長から、わざ便を以つて至急本省へ出頭するようにとの事でした。
それでは北海道で事故でもあったのではないかと心配し乍ら早速参りました処、「今回信濃川水力発電工事を施工することになった、事務所は新潟県中魚沼郡千手村に設置し、君は同所の所長に任命することに内定したからそのつもりで居て貰いたい。」とのお話でした。
私は先年長岡建設事務所長時代に上越線十日町線などの工事を担当施行しましたので、新潟県の様子は大体解って居りましたから、事務所を千手村に置くことについては、交通金融並に職員子弟の教育関係等を考慮して、これを十日町に変更して貰いたいと進言しました処「実は事務所の位置と所長の任命は既に内定し明後日4月1日の官報で発表することになって居るので今更変更は出来ない。」とのことでした。そこで職員の人選、官舎の位置などにつきましては私にお任せいただくよう内諾を得て帰りました。
以上、信濃川発電所材料運搬線一期・二期工事時代のまとめである。
何分、誰かに読んでもらうためというより、自分が調べたことを忘れないように整理するための記事なので読みにくかったと思う。
一方、これを書くことで、どこかで当時を知る方、地元の方の目に留まり、また新たなお話を聞かせて頂けるならばそんなに嬉しいことはない。
鉄道省が信濃川水力発電発電所を建設する際、その資材輸送を担うため中魚沼の川西地区に亘って延びていた軽便について、少しでも興味を持って頂けたのなら幸いである。
橋梁の写真はまたまた快挙でしたね
信濃川には速成のためか、明治のものらしき中古桁を
使ったことが判別できました(私にわかるのはそれくらい)
本格的なトラスといい「十日町西線」にしてもいいくらいの大軽便!
文献集めもかなりかたまったようですが「工事画報」ですか
信越電力、東京電燈との記録の差は
鉄道省直轄とは比べものにならない?
長野市周辺の図書館は中部電力の資料ばかりで役に立ちません(笑)
ご覧いただきましてありがとうございます。引用ばかりですがこの長さになってしまいました。書いた本人も読み返すのが大変です。
鉢澤橋梁の写真は見付けた時に本当に嬉しかったです。読んでくださった方の中で、鉢沢の話が繋がれば幸いです。
あのトラスはどこかからの転用だったのですか。中古桁だったとは。あの規模の割に橋の構造物そのものの記録が少ない所が引っ掛かっていました。また、使用後もどこかに転用されていそうなだけに、経緯が気になります。どこかに残っていたら嬉しいのですが。
歴史では川西地区で軽便の旅客化運動が巻き起こるのも頷けるような、壮大な軽便の物語ですよね。
あの規模の工事ですし、当時から東洋一で本邦では前代未聞と宣伝していたので、論文に当たれば何かあるんじゃないかと思って辿り着いた先が工事画報なり土木学会の資料でした。これにはかなり助けられました。
東京電燈の方との記録の差は国の機関が故とも思いますが、東京電燈も工事概況の雑誌記事が残っています。ただ、東京電燈は根っこの部分がやはり電氣屋さんなのか、輸送手段よりも発電機がどうとか変圧器がどうとかの話がメインでした。鉄道省はかなりの予算を組んで専用線を敷いたのに対し、東京電燈は飯山鐡道への出資という形を取っていたことも影響しているのかもしれません。とにかく東京電燈の輸送に関する資料は、これと言ったクリティカルなものを見付けられていません…。