飯山線越後鹿渡駅の物語の続きを書いていきたいと思う
何処まで書いたか筆者の記憶も怪しいので、前回の引用からはじめよう
停車場の位置について、特に辰ノ口と鹿渡で激しい誘致合戦が展開されたのは事実なようである。
もっとも、停車場の位置についても、これまでの経緯を見てると電力会社が発電所工事の資材運搬に最も都合の良い位置で決定されそうだし、実際に辰ノ口より発電所寄りの鹿渡に停車場が設けられている。
東京電燈信濃川発電所は昭和11年春に着工が決定し、9月に工事着手している。
それに呼応し、昭和11年6月、越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設を申請、10月に認可される。(鉄道省文書)
越後鹿渡駅の構外貨物専用側線工事は飯山鉄道で実施し、費用は東京電燈で負担したとある。
これも、アメリカ軍が戦後に撮影した航空写真である。
写真からは断定できないが、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」というヒントから、軌道が通ってそうな怪しい平場くらいは推測できそうだ。
昭和4年7月20日の十日町新聞報道では 東京発電会社の信濃発電工事に備える鹿渡駅拡張その他二ヶ所のの仮設駅工事は新線の出来上がり次第係員をそちらに廻し とある。
それなりの規模の工事で駅から発電所工事現場への側線が建設されたことが読み取れる。
しかし、またしても肝心の、実際にどのような線路や設備があり、輸送形態がどうだったかまでは記述や報道を見つけることが出来なかった。
津南町史に燦然と輝く、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」に色めきだったのだ
と言うのも、飯山鉄道がダム建設や水力発電所建設の資材輸送で活躍したという記述は多く見る
沿線各地の郷土史の飯山鉄道に関する記述では必ず出てくる
しかし、駅そのものや工事に関して駅から現場まで通じる軌道についてのより具体的な記述が出てきたのだから興奮しないわけがない
これまで数か月に渡って調査を進めていても、現状の調査段階で貨物専用側線に関する記述は西大滝駅では一切見られず、この越後鹿渡駅に関するものが唯一であり初めてである
これらと並行して、随時、十日町新聞記事の飯山鉄道と東電信濃川発電所に関する記事を抜粋しているのだが、数年分を抜粋するだけでバカみたいに時間が進んでいく作業であるから遅々として進まない
以下に、飯山鉄道が十日町まで開通した昭和4年ごろの、関連する記事を引用する
前提として、この頃は飯山鉄道の開通により資材輸送体制が整ったと同時に発電所工事の着工が計画されていた
用地買収問題だったり電力需要の落ち込みだったりと様々な事情により、結局は発電所の着工も越後鹿渡の拡張工事も昭和11年に持ち越されるのだが、当時の雰囲気なりを少しでも感じられると思うので新聞記事を紹介したい
ちなみに、工事着工当時になると、そもそも旅客営業で稼げる構造ではない飯山鉄道は経営困難に陥っていることや、工事の開始に伴う輸送量の増加による収益改善での株価の高騰などが報じられている
余談に過ぎないが、飯山鉄道開通から旅客営業では地元の十日町自動車(十日町バス)と競合して運賃や輸送力の競争をしていたし、飯山鉄道も開通の翌年に自動車事業を始めることを株主総会で決めたり、発電所工事輸送で大儲けになれば十日町バスを買収したり、しかし大株主の電力会社が発電所工事が終われば鉄道は用済みとなったので鉄道事業は国有化を推進され飯山線となり、飯山鉄道株式会社も最後はバス事業者になり、それも越後交通に吸収されたらしい。
昭和4年6月10日
愈々今度こそ本線工事開始か 来年は準備工事だけ 東京發電動く
信濃川本線工事が今度こそ始まる この工事を生命の親のやうに思つてゐる関係地方民がまたさわぎ出した。
曰く飯鐡が工事用假設驛を作るから、曰く大林組が待ち切れなくて自費で七八月頃からはじめる。
曰く先般大割野出張所の用地係が更迭したのはその前提だ
などゝまるで正体を見届けたやうなことを云い、氣の早い信州商人はもう狼狽て飛んで廻つてゐる。
昭和4年7月15日
十日町接續 飯鐵時刻表 地方客のためを図り中間列車もある
飯山鐵道會社は信濃川發電工事始工の関係から殆ど全力を挙げて當街までの工事を急ぎ来る九月一日より開通と定め、十日町接続時間表も先の通り内定したがこれは鐵道省の時間改正後のそれと連絡するもので経由客よりもむしろ地方の単距離の乗客を標準に編成されていることは中間列車のあるのに依ってもわかる
九月から着工するが工事景気をあおらずに 佐野東電重役来郡 従業員一万五千人
本秋九月から信濃川発電所工事着の手東京電力会社佐野取締役はその材料輸送の重大関係を有する飯山鐵道田沢駅十日町間の工事状況視察としてさきに来郡し当町役場をおとずれ「飯山鐵道工事は順調にすすみ九月一日開通の可能性は十分あるから鐵道開通と共に電気工事は開始したいと思うが該事務所の位置は別としても従業員一万五千人のうち土工等は現地付近の飯場にとどまるより他ないがその他のものは子弟教育等の都合もあり大割野と飯山と十日町に分宿させるやうにするから徒らに電気景気を煽らず相応の便宜を計って欲しい」と希望を述べ当局も亦これを諒とした。
昭和4年7月20日
機関車水澤まで 飯鐵工事八分は竣成 九月一日の開通は可能 視察した高橋専務談
九月一日から田澤ー十日町間の開通することになった飯山鐵道會社では去る十八日高橋専務が稲垣運輸区長、他に保線課長を従い開業準備を兼ねて来郡視察した
目下仝工事は土工も八分通りすすみ只大黒澤の切り取りの箇所、馬場の附近及び十日町地内だけが未完成で、レールの引延ばしは既に土市まで終わり、来月十日頃までには全部の配線を終わる予定で土市驛までは毎日工事用の機関車が往来し汽笛の響きは沿道民を喜ばせている
一方駅舎その他の建築も凡そ五分通り進捗し、特殊の支障ない限り予定の九月一日の開通はさまで困難ではなく、高橋氏も必ずやると言い切っている
なほ東京發電會社の信濃發電工事に備ひる鹿渡驛拡張その他二ヶ所の仮設驛工事は新線の出来上がり次第係員をそちらへ廻し来年六月頃までに完成させ、そして七月頃から全幅を拡仝工事に備えると
飯山鉄道越後鹿渡駅については、飯山鉄道名勝案内という昭和2年に津南町大割野のある辺りの下船渡村で出版された本には、未来予想が書かれている
三箇驛
外丸村地内の字名なり、三箇と聞いて異様なる口調だが、辰ノ口、鹿渡新田の三部落を合したる名にして、元は一ヶ村なりし。
(中略)
猶一層此驛の大務と云ふは、信濃川水力電気工事あるからである。驛名無粋でも、将来は發電所驛とか、松之山口驛と人は云ふなるべし。
三箇驛と言っているのは、まだ鹿渡の駅名が決定していない時期に執筆したからだろうか
90年後の未来人たる我々からすれば、「90年後も越後鹿渡駅だけどな」って言えちゃうんだけど、当時の期待と言うか感覚が垣間見れると思ったので紹介までに
そんなこんなで前回は、「越後鹿渡の拡張工事や専用側線があったらしい」で終わったわけだ
前回の記事を公開して僅か1時間後くらいのことだったと思う、携帯が震える
LINEの通知だ
相手は、泣く子も黙る顧問であった。 それを見て、今度は私が震えた
郷土史と並んで重要な証言として、顧問からのLINEを引用させてもらう
「鹿渡の東電側線は橋梁手前の築堤を潜っていたはず」
「進駐軍撮影の空中写真でわかる」
「図番 UAS-R1338-74だとよくわかる」
早速、その写真を引用しよう
飯山線の築堤の下にぶっ刺さって抜けてる、いかにもって感じの曲線を描いたラインが見える
私もこの年代の航空写真を見ていて、(写真左下が鹿渡の駅で)鹿渡を田沢方に出てすぐのカーブを抜けた先から、山側と川側のそれぞれに本線(仮に営業線を本線とする)から分岐しているように見えるラインは認めていた
しかし、私の手元にはそれを示す資料が一切ない状態であるから、それが軌道っぽいと思っても、どこか自信が無い状態である
そこに来て、顧問が言うなら何かしら引っ掛かる根拠があるのだろうというのは、思った以上に大きな後押しというか、背中を押された状態になったのだろう
流石は知見が広いなと
顧問の言う東電側線なる川側のラインを見に行ってみるかと思い立ち、私は翌朝鹿渡に向かった
思い付きで行動していたのだけど、仁義は切っておくかと朝の6時だが顧問にラインを送って9時からの現地調査開始を打診したものの、同行は叶わなかった。残念
鹿渡駅である
誰がどう見てもかつて交換駅だったなと言う名残が色濃いが、ただの交換駅には興味ありません、専用側線、軌道跡、構造物があるなら私のところに来なさいって感じだ。
善は急げで飯山線の築堤に行く
発電所側から築堤下のトンネルである
そして、川の上流、鹿渡駅側から
完全に、農道の様子である
農道を歩きながら、鹿渡駅の方向へ向かって歩いて行く
航空写真でも飯山鉄道の築堤を潜った軌道跡はまっすぐ鹿渡駅の方向に向かっていたからね
写真右手の斜面の上の方が飯山線である
かなり高度あるけど、ここから本線に取り付けるの?って疑問が浮かぶ
しかも、農地改良があったのか完全なトレースは叶わない
どう見比べても、発電所からのレベルは当時の路盤が消失している様子だ
それでも、農地の終端まで行ってみる
完全に、薮。
平地は続いているけど、薮
入りたくない
しかし、航空写真とグーグルマップの現在の位置を比較して、この辺りまで軌道跡らしきラインが見て取れる
この時点で、本線との高度差がありすぎるし、ここから薮の中に入って行っても鹿渡の駅に取り付くような角度じゃないのは確信できる様子だった
何より、薮に入りたくない
しかし、私は薮に入って行った
まぁ、慣れっこだけど、嫌なだけで。本当に嫌だけど。覚悟して長靴に厚手の長袖長ズボンで来たけど
少し戻って登れそうなところから、本線に向かって登っていく、直登だぞ☆汗
汗と草の混ざった臭いと、頭にクモの巣と葉っぱを引っ掛けて歩く私が出来上がるのに時間はかからなかった
本線の脇から下流方向、田沢方、発電所方面を向いたものだ
いや、なんか、本線の数メートル下に並行した平場がある気がするんですよね
なんでここに平場?
ここで、さっきの農地のどん詰まりまで続いていただろう軌道跡からは高度もあるし、接続できなそうな平場が出てきてしまったのだ
しかし、この平場も鉄道っぽい
こんな感じで線路があった?って疑問と推測を落書きするとこんな感じ
ここから更に鹿渡の駅に向かって薮漕ぎを続ける
どうせあと数時間は列車が来ないんだからと飯山線をスタンドバイミーすればそりゃ楽なんですけど、なんか意地でもこの平場を歩きますよね、、、まぁ、そういう趣味ですから。
上流方、鹿渡方を向くとこんな感じ
丁度、下り列車で駅を出て400くらいのカーブを抜けて下り20‰の勾配にかかって600~500くらいのカーブを曲がった先
この先も、凄い薮ですね。進みますが。当時の軌道跡らしき平場を意地でも踏破することに喜びを感じる程度の性癖だからね
本線も20‰で信濃川に向かって下っているので、平場との高度差はそこまで開かない
むしろ、川側に並行する平場の方が勾配が緩いんじゃないかと思うくらいに、本線と微妙な高度差をもって並行している
鹿渡駅方面へとだいぶ薮を漕いできて、本線脇にスペースがある場所があったので、そこに登って撮った写真がこれだ
確かな平地と、本線との微妙な高度差を保ったまま、ここまで続いてきている
余りに高度差が変わらないので、本線と同じくらいの勾配でこの平場も続いていると考えられよう
ちなみに、山側も薮だが、少し登っていく感じで平場が伸びている
山側も分岐していたのかなぁなんて悩んでいた平場
山側も同じような位置で本線と同じ高さになって吸い込まれていくような雰囲気を感じる
上流方、鹿渡駅の方を向き直ると
駅の接近標の目の前だ
このカーブが前述の400のカーブで、このカーブの先が駅である
それにしても、ここ、今迄歩いてきた平場がかなりそれっぽく本線の高さに吸い込まれていくように感じる
すごく、それっぽい
接近標の辺りまでが越後鹿渡駅であるから、この先が構内であると誰かに言われれば私は諸手を挙げて賛成したくなるほどの光景だ
しかし、この本線と並行する平場が側線の跡だという資料は無いので、まだ疑っている
雪が多い地域だから、下に雪を捨てるための敷地とかだったりしない?ってな感じに
ここで、更に薮を漕いで、川側の平場の縁を見に行ったんだ
そしたら
こんな立派な石垣が続いていたんだ
そう、側線跡らしき平場の下はこのような石垣が立ってるのだ
ただの平場にしては立派すぎませんか?って感じだ
実は今まで歩いてきた平場の数百メートル下流方に渡って、平場はこんな立派な石垣の上に立っていた
本線の更に下の平場が石垣の上に立ってることで、これはかなり軌道跡っぽいんじゃないか?と興奮した
しかし、ここが軌道跡だったとすると、どうにも発電所の高度(発電所のレベル)まで高度を落とせない
ここから、また薮を漕いで下流方に戻る
平場をトレースすればどこかでキッカケが見つかるんじゃないかと期待してだ
そして、再三の薮漕ぎを経て、平場は終焉を迎えた
本線がスノーシェッドに入る辺りの真下
この先は沢になっていて、急激に落ち込んでいる。平場の終端だ
そして、振り返り、上流方を見る
右手上が本線、真ん中の杉林を境に右手が平場
ここは微妙な広場になっている
航空写真にもこの広場がごちゃごちゃした感じで残ってる
ちょうど矢印の辺りで写真を撮っている
そして、杉林を境に左手側にも平場が伸びている
ちょっと待て、広場を挟んで、平場が行違っている
この鉄道の高度を稼ぐ構造は私もよく見ている
姨捨駅とか、桑ノ原のそれに似ていないか?
高度を克服するために、鉄道がとりうる手段は限られている
左手側の平場を進んでいく
上流に向かってちゃんちゃんと高度を下げている
下流方に振り向く
っぽいな、っぽい平場が続いている
そして、このまま、さっきの広場から降りてきた平場は発電所のレベルと接続していった
少し離れて見てみよう
下流方を見た感じだが
最も上の雪覆いがあるのが本線で、その少し下に薮漕ぎで苦労した平場がある
これ、どう考えてもスイッチバックじゃないか!
スイッチバックだ!
越後鹿渡の発電所への側線はスイッチバックで高度を克服していたのだろう!
そういう見方をし始めると、いよいよスイッチバックらしく見えてくる
さっきの広場を下から離れて見てみると
真横から
この水路っぽいのは、当時の航空写真にも写っている
軌道跡が農地改良か何かで消えているのは前述のとおりだ
ここから、軌道跡は下流にむかって飯山鉄道を潜って発電所まで伸びていた
多少、線形は変わっているものの、それらしい雰囲気だ
更に上に回って、観察してみる
丁度、薮を漕いで直登してきた辺り
上流方
登ってきた辺り
下流方
更に、広場の辺り
かなりそれっぽいぞ
航空写真や現地調査で高度差がありモヤッとしていた部分だが、スイッチバック構造だとしたら全てが合点行く
あくまで予想図ではあるが
緑色の本線に対して、茶色がスイッチバックを含めた工事用側線らしい軌道跡である
おおよそ、こういう感じだったと推測される
飯山鉄道の越後鹿渡駅から発電所構内までの工事用側線はスイッチバックだったかもしれないという事実を目の当たりにして、興奮し始める
しかし、実地調査をしたからと言って、直ちに越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線はスイッチバック構造だったと言い切ってしまって良いものか
あいにく、資料的なものは皆無なのである
そこで、私は現地住人に聞き取り調査を開始した
しかし、当時を知ってる人は少なくとも80歳以上なんだ
なかなかに厳しそうだ
それでも、ひょっとしたら親世代などから話を聞いたという方もいるかもしれないという淡い期待を抱きながら、鹿渡の集落の人影を見掛けては、この調査の目的を説明しながら声をかけ始める
すると、意外にすぐに知ってる人がいた
その方は60代くらい、親からも話を聞いていた
鹿渡の駅から発電所まで工事のために線路を敷いていたと思うという話をしたところ、「親からあったと聞いてます。その頃は上線・下線といってたみたいですよ。下線のところには石垣もあるでしょ」と返ってきた
余りに出来過ぎな、テレビだったら仕込みのインタビューになってしまいそうな回答だが、これはリアルだ
下線、上線と現地では言われているらしい
「上線とはこの飯山線の線路のことですか?」と聞けば
「いえいえ、あなたの立ってる場所にも線路があって、ここが上線。今でも東京電力の土地で、震災の頃から草刈りやらなくなっちゃったけど、それまでは駅までの道だったの」
は!?
このやり取りはこの場所でやっていた
丁度、右手奥の線路と並行して伸びている平場からその人は現れた(山菜でも採ってたっぽい)
いやいや、まさに山側に分岐してそうだと航空写真で当たりを付けて悩んでいた平場じゃないですか、こっちも軌道だったの?
「当時、どういう様子だったかご存知ですか?」
「私も親から聞いた話だから分からないけど、隣に当時からここに住んでいるお婆ちゃんがいるから、その方に聞けば何か分かるかもしれない。あそこの家ね」
そう、指さされた鹿渡の集落の一角にある民家
謝辞を述べて、その家に伺うことにする
そのお婆ちゃんの家に着くと、さっきの方が先回りしててくれて、当たり前のように玄関を開けて、お婆ちゃんに聞きたいことを先に紹介していただいてしまった
しかし、お婆ちゃんは発電所工事の当時のことは知らなかった
工事の後に、ここに嫁で来たからねぇと
しかし、当時の鹿渡の集落の様子をたっぷりと聞くことが出来た
これまた貴重な当時の話なので簡単に紹介したい
・当時は独身寮や社宅が一群~四群まであった
・社宅は発電所から近い場所から一群、二群と続き、駅前の四群まで
・独身寮には地域のお母さんたちが交代で飯を炊きに行って、手間賃で現金収入を得ていた。寮生はすぐに覚えたし、向こうも覚えててくれて、未だに遊びに来てくれる人もいる
・電気もガスも無かったから、集落の家々も寮も炊事から何まで薪で炊くのが当たり前だった。 地元の人は薪は薪で取れば取るだけ売れたから、これまた貴重な現金収入だった
・東電の社宅の奥様方は都会から来た専業主婦だったから、農作業で田植えや稲刈り、稲架掛けとか手際よくやるのを珍しそうに見ていた。集落の住民とは仲は良かった
・社宅に家族ごと来たので、ご子息も多く、小学校のクラスが増えて、いつも子供の声が聞こえる賑やかな集落になった。子供が自然と集まって日が暮れるまで遊んでいた
・今の国道も、後年はトラックが多く通るようになって、東電に言って広くしてもらった
当時のことを聞きつつも、飯山鉄道について水を向ける
すると、さっきのように、私はお嫁に来たので知らないけど、同じ集落のお爺さんなら知ってるだろうと、紹介してくださった
御年93歳、生まれも育ちも鹿渡の方だそうだ
そして、この方によって、様々なことが判明していく
突然のお邪魔にも関わらず、お話を聞かせていただくことが出来た
何を聞きたい?といった感じだったが、とにもかくにも駅から側線の存在について話を聞き始めた
「工事に際して、鹿渡の駅から発電所に向かって線路が伸びていたと思うのですが、何かご存知のことありますでしょうか?」
・駅から川側に別れた線路は、何回かスイッチバックして、飯山線の下のアーチを通って、発電所の建屋の前まで行っていた
・下のところに沢があったろう。そこで折り返して、駅の方まで下に降りながらかなり戻ってた
・列車は毎日、ずっと行ったり来たりしていた。鹿渡駅まで飯山線で運んできた貨物は駅前に荷物置場があって、そこに貯めて、そこから短い2両くらい引っ張って発電所に持って行っていた
・発電機や水車、制御盤などの重量物も貨物で運んだ
・ここでは飯場と呼んでいたけど、そこの平場に鉄管工場があって、駅から貨車で部品を運んできて、そこで鉄管を組み立てて、今の鉄管のあるところまで線路で持って行って、巻揚げ機で上まで上げていた
・飯場のところから鉄管までの線路は、集落の中を通ってまっすぐ鉄管のあたりまで来ていた
・鉄管のある辺りが鹿渡新田のもともとの集落で、あそこに集落があった。工事で集団移転した
・鉄管とか重量物は、丸太とか鉄骨を三本組み合わせて、貨車から滑車で持ち上げていた。クレーンは一般的ではなかった
・荷物は長野方面から運ばれてきた
・そこの鉄橋の工事の時は川の中で潜水夫が工事してて、潜水服が珍しくて見に行った
・鹿渡の駅に初めて機関車が来た時は集落みんなで見に行って、出店でオモチャを買ってもらって嬉しかった
・工事の線路は発電所が完成したらすぐに剥がされたけど、水車や発電機の改修の時には夜中に飯山線で運んできて、鉄橋手前の線路と道路が一番近い場所で降ろした
・列車に人はあまり乗ってなかったけど、貨物はたくさん走っていた
・西大滝に関してはここみたいに飯山線が駅から現場まで繋がっていたというのは聞いたことがない。当時は今みたいにトラック輸送もなかったから、軌道みたいなのはあったかもしれない
予想以上に詳しくいろいろとご存知であった
自分の現地での答え合わせもあったが、上線の存在も明確になった
ここ、上線だ。
ここをパーツ化された鉄管を載せた貨車が行き交っていたというのだから、驚きだ
飯場から鉄管までの線路跡は農地改良等や住宅建て替えで地形変化があり追いにくいが、集落内にはその上を通っていたという石垣が残る
民家のすぐそばを抜けて
この付近に軌道は来ていたという
以上の事柄をまとめると、工事用側線はこのような感じで張り巡らされていたことになる
思いもよらぬくらいに、越後鹿渡は広大な規模を持って発電所工事の物資輸送の大役を担っていたのだ
資料が無いから断定できないと言いながら、航空写真と現地調査、そしてなにより当時からここに住んでいる現地住民の証言と、顧問のLINEでおおよそそうらしいという推測の域を出ないながらも、かなり近づけたのではないかという感触はある
ここまで現地で調べた上で、まとめようとしていたところ、更に関係組織から建設工事当時に撮影された写真の閲覧のアポイントが取れた
同時並行で追っていた、西大滝ダムや信濃川発電所に関する工事誌は無いそうだ
結論から言うと、鹿渡のスイッチバックも西大滝の駅から伸びていたかもしれない軌道についても、クリティカルな写真は撮影されてないのか、残っていなかった
それでも、発電所や鉄管まで来ていた線路、西大滝の工事現場に軌道というには立派な線路が見られる写真が残されていた
これらについてはまたおいおい書いていきたいということで、今回はここで終わりにする。
何処まで書いたか筆者の記憶も怪しいので、前回の引用からはじめよう
停車場の位置について、特に辰ノ口と鹿渡で激しい誘致合戦が展開されたのは事実なようである。
もっとも、停車場の位置についても、これまでの経緯を見てると電力会社が発電所工事の資材運搬に最も都合の良い位置で決定されそうだし、実際に辰ノ口より発電所寄りの鹿渡に停車場が設けられている。
東京電燈信濃川発電所は昭和11年春に着工が決定し、9月に工事着手している。
それに呼応し、昭和11年6月、越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設を申請、10月に認可される。(鉄道省文書)
越後鹿渡駅の構外貨物専用側線工事は飯山鉄道で実施し、費用は東京電燈で負担したとある。
これも、アメリカ軍が戦後に撮影した航空写真である。
写真からは断定できないが、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」というヒントから、軌道が通ってそうな怪しい平場くらいは推測できそうだ。
昭和4年7月20日の十日町新聞報道では 東京発電会社の信濃発電工事に備える鹿渡駅拡張その他二ヶ所のの仮設駅工事は新線の出来上がり次第係員をそちらに廻し とある。
それなりの規模の工事で駅から発電所工事現場への側線が建設されたことが読み取れる。
しかし、またしても肝心の、実際にどのような線路や設備があり、輸送形態がどうだったかまでは記述や報道を見つけることが出来なかった。
津南町史に燦然と輝く、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」に色めきだったのだ
と言うのも、飯山鉄道がダム建設や水力発電所建設の資材輸送で活躍したという記述は多く見る
沿線各地の郷土史の飯山鉄道に関する記述では必ず出てくる
しかし、駅そのものや工事に関して駅から現場まで通じる軌道についてのより具体的な記述が出てきたのだから興奮しないわけがない
これまで数か月に渡って調査を進めていても、現状の調査段階で貨物専用側線に関する記述は西大滝駅では一切見られず、この越後鹿渡駅に関するものが唯一であり初めてである
これらと並行して、随時、十日町新聞記事の飯山鉄道と東電信濃川発電所に関する記事を抜粋しているのだが、数年分を抜粋するだけでバカみたいに時間が進んでいく作業であるから遅々として進まない
以下に、飯山鉄道が十日町まで開通した昭和4年ごろの、関連する記事を引用する
前提として、この頃は飯山鉄道の開通により資材輸送体制が整ったと同時に発電所工事の着工が計画されていた
用地買収問題だったり電力需要の落ち込みだったりと様々な事情により、結局は発電所の着工も越後鹿渡の拡張工事も昭和11年に持ち越されるのだが、当時の雰囲気なりを少しでも感じられると思うので新聞記事を紹介したい
ちなみに、工事着工当時になると、そもそも旅客営業で稼げる構造ではない飯山鉄道は経営困難に陥っていることや、工事の開始に伴う輸送量の増加による収益改善での株価の高騰などが報じられている
余談に過ぎないが、飯山鉄道開通から旅客営業では地元の十日町自動車(十日町バス)と競合して運賃や輸送力の競争をしていたし、飯山鉄道も開通の翌年に自動車事業を始めることを株主総会で決めたり、発電所工事輸送で大儲けになれば十日町バスを買収したり、しかし大株主の電力会社が発電所工事が終われば鉄道は用済みとなったので鉄道事業は国有化を推進され飯山線となり、飯山鉄道株式会社も最後はバス事業者になり、それも越後交通に吸収されたらしい。
昭和4年6月10日
愈々今度こそ本線工事開始か 来年は準備工事だけ 東京發電動く
信濃川本線工事が今度こそ始まる この工事を生命の親のやうに思つてゐる関係地方民がまたさわぎ出した。
曰く飯鐡が工事用假設驛を作るから、曰く大林組が待ち切れなくて自費で七八月頃からはじめる。
曰く先般大割野出張所の用地係が更迭したのはその前提だ
などゝまるで正体を見届けたやうなことを云い、氣の早い信州商人はもう狼狽て飛んで廻つてゐる。
昭和4年7月15日
十日町接續 飯鐵時刻表 地方客のためを図り中間列車もある
飯山鐵道會社は信濃川發電工事始工の関係から殆ど全力を挙げて當街までの工事を急ぎ来る九月一日より開通と定め、十日町接続時間表も先の通り内定したがこれは鐵道省の時間改正後のそれと連絡するもので経由客よりもむしろ地方の単距離の乗客を標準に編成されていることは中間列車のあるのに依ってもわかる
九月から着工するが工事景気をあおらずに 佐野東電重役来郡 従業員一万五千人
本秋九月から信濃川発電所工事着の手東京電力会社佐野取締役はその材料輸送の重大関係を有する飯山鐵道田沢駅十日町間の工事状況視察としてさきに来郡し当町役場をおとずれ「飯山鐵道工事は順調にすすみ九月一日開通の可能性は十分あるから鐵道開通と共に電気工事は開始したいと思うが該事務所の位置は別としても従業員一万五千人のうち土工等は現地付近の飯場にとどまるより他ないがその他のものは子弟教育等の都合もあり大割野と飯山と十日町に分宿させるやうにするから徒らに電気景気を煽らず相応の便宜を計って欲しい」と希望を述べ当局も亦これを諒とした。
昭和4年7月20日
機関車水澤まで 飯鐵工事八分は竣成 九月一日の開通は可能 視察した高橋専務談
九月一日から田澤ー十日町間の開通することになった飯山鐵道會社では去る十八日高橋専務が稲垣運輸区長、他に保線課長を従い開業準備を兼ねて来郡視察した
目下仝工事は土工も八分通りすすみ只大黒澤の切り取りの箇所、馬場の附近及び十日町地内だけが未完成で、レールの引延ばしは既に土市まで終わり、来月十日頃までには全部の配線を終わる予定で土市驛までは毎日工事用の機関車が往来し汽笛の響きは沿道民を喜ばせている
一方駅舎その他の建築も凡そ五分通り進捗し、特殊の支障ない限り予定の九月一日の開通はさまで困難ではなく、高橋氏も必ずやると言い切っている
なほ東京發電會社の信濃發電工事に備ひる鹿渡驛拡張その他二ヶ所の仮設驛工事は新線の出来上がり次第係員をそちらへ廻し来年六月頃までに完成させ、そして七月頃から全幅を拡仝工事に備えると
飯山鉄道越後鹿渡駅については、飯山鉄道名勝案内という昭和2年に津南町大割野のある辺りの下船渡村で出版された本には、未来予想が書かれている
三箇驛
外丸村地内の字名なり、三箇と聞いて異様なる口調だが、辰ノ口、鹿渡新田の三部落を合したる名にして、元は一ヶ村なりし。
(中略)
猶一層此驛の大務と云ふは、信濃川水力電気工事あるからである。驛名無粋でも、将来は發電所驛とか、松之山口驛と人は云ふなるべし。
三箇驛と言っているのは、まだ鹿渡の駅名が決定していない時期に執筆したからだろうか
90年後の未来人たる我々からすれば、「90年後も越後鹿渡駅だけどな」って言えちゃうんだけど、当時の期待と言うか感覚が垣間見れると思ったので紹介までに
そんなこんなで前回は、「越後鹿渡の拡張工事や専用側線があったらしい」で終わったわけだ
前回の記事を公開して僅か1時間後くらいのことだったと思う、携帯が震える
LINEの通知だ
相手は、泣く子も黙る顧問であった。 それを見て、今度は私が震えた
郷土史と並んで重要な証言として、顧問からのLINEを引用させてもらう
「鹿渡の東電側線は橋梁手前の築堤を潜っていたはず」
「進駐軍撮影の空中写真でわかる」
「図番 UAS-R1338-74だとよくわかる」
早速、その写真を引用しよう
飯山線の築堤の下にぶっ刺さって抜けてる、いかにもって感じの曲線を描いたラインが見える
私もこの年代の航空写真を見ていて、(写真左下が鹿渡の駅で)鹿渡を田沢方に出てすぐのカーブを抜けた先から、山側と川側のそれぞれに本線(仮に営業線を本線とする)から分岐しているように見えるラインは認めていた
しかし、私の手元にはそれを示す資料が一切ない状態であるから、それが軌道っぽいと思っても、どこか自信が無い状態である
そこに来て、顧問が言うなら何かしら引っ掛かる根拠があるのだろうというのは、思った以上に大きな後押しというか、背中を押された状態になったのだろう
流石は知見が広いなと
顧問の言う東電側線なる川側のラインを見に行ってみるかと思い立ち、私は翌朝鹿渡に向かった
思い付きで行動していたのだけど、仁義は切っておくかと朝の6時だが顧問にラインを送って9時からの現地調査開始を打診したものの、同行は叶わなかった。残念
鹿渡駅である
誰がどう見てもかつて交換駅だったなと言う名残が色濃いが、ただの交換駅には興味ありません、専用側線、軌道跡、構造物があるなら私のところに来なさいって感じだ。
善は急げで飯山線の築堤に行く
発電所側から築堤下のトンネルである
そして、川の上流、鹿渡駅側から
完全に、農道の様子である
農道を歩きながら、鹿渡駅の方向へ向かって歩いて行く
航空写真でも飯山鉄道の築堤を潜った軌道跡はまっすぐ鹿渡駅の方向に向かっていたからね
写真右手の斜面の上の方が飯山線である
かなり高度あるけど、ここから本線に取り付けるの?って疑問が浮かぶ
しかも、農地改良があったのか完全なトレースは叶わない
どう見比べても、発電所からのレベルは当時の路盤が消失している様子だ
それでも、農地の終端まで行ってみる
完全に、薮。
平地は続いているけど、薮
入りたくない
しかし、航空写真とグーグルマップの現在の位置を比較して、この辺りまで軌道跡らしきラインが見て取れる
この時点で、本線との高度差がありすぎるし、ここから薮の中に入って行っても鹿渡の駅に取り付くような角度じゃないのは確信できる様子だった
何より、薮に入りたくない
しかし、私は薮に入って行った
まぁ、慣れっこだけど、嫌なだけで。本当に嫌だけど。覚悟して長靴に厚手の長袖長ズボンで来たけど
少し戻って登れそうなところから、本線に向かって登っていく、直登だぞ☆汗
汗と草の混ざった臭いと、頭にクモの巣と葉っぱを引っ掛けて歩く私が出来上がるのに時間はかからなかった
本線の脇から下流方向、田沢方、発電所方面を向いたものだ
いや、なんか、本線の数メートル下に並行した平場がある気がするんですよね
なんでここに平場?
ここで、さっきの農地のどん詰まりまで続いていただろう軌道跡からは高度もあるし、接続できなそうな平場が出てきてしまったのだ
しかし、この平場も鉄道っぽい
こんな感じで線路があった?って疑問と推測を落書きするとこんな感じ
ここから更に鹿渡の駅に向かって薮漕ぎを続ける
どうせあと数時間は列車が来ないんだからと飯山線をスタンドバイミーすればそりゃ楽なんですけど、なんか意地でもこの平場を歩きますよね、、、まぁ、そういう趣味ですから。
上流方、鹿渡方を向くとこんな感じ
丁度、下り列車で駅を出て400くらいのカーブを抜けて下り20‰の勾配にかかって600~500くらいのカーブを曲がった先
この先も、凄い薮ですね。進みますが。当時の軌道跡らしき平場を意地でも踏破することに喜びを感じる程度の性癖だからね
本線も20‰で信濃川に向かって下っているので、平場との高度差はそこまで開かない
むしろ、川側に並行する平場の方が勾配が緩いんじゃないかと思うくらいに、本線と微妙な高度差をもって並行している
鹿渡駅方面へとだいぶ薮を漕いできて、本線脇にスペースがある場所があったので、そこに登って撮った写真がこれだ
確かな平地と、本線との微妙な高度差を保ったまま、ここまで続いてきている
余りに高度差が変わらないので、本線と同じくらいの勾配でこの平場も続いていると考えられよう
ちなみに、山側も薮だが、少し登っていく感じで平場が伸びている
山側も分岐していたのかなぁなんて悩んでいた平場
山側も同じような位置で本線と同じ高さになって吸い込まれていくような雰囲気を感じる
上流方、鹿渡駅の方を向き直ると
駅の接近標の目の前だ
このカーブが前述の400のカーブで、このカーブの先が駅である
それにしても、ここ、今迄歩いてきた平場がかなりそれっぽく本線の高さに吸い込まれていくように感じる
すごく、それっぽい
接近標の辺りまでが越後鹿渡駅であるから、この先が構内であると誰かに言われれば私は諸手を挙げて賛成したくなるほどの光景だ
しかし、この本線と並行する平場が側線の跡だという資料は無いので、まだ疑っている
雪が多い地域だから、下に雪を捨てるための敷地とかだったりしない?ってな感じに
ここで、更に薮を漕いで、川側の平場の縁を見に行ったんだ
そしたら
こんな立派な石垣が続いていたんだ
そう、側線跡らしき平場の下はこのような石垣が立ってるのだ
ただの平場にしては立派すぎませんか?って感じだ
実は今まで歩いてきた平場の数百メートル下流方に渡って、平場はこんな立派な石垣の上に立っていた
本線の更に下の平場が石垣の上に立ってることで、これはかなり軌道跡っぽいんじゃないか?と興奮した
しかし、ここが軌道跡だったとすると、どうにも発電所の高度(発電所のレベル)まで高度を落とせない
ここから、また薮を漕いで下流方に戻る
平場をトレースすればどこかでキッカケが見つかるんじゃないかと期待してだ
そして、再三の薮漕ぎを経て、平場は終焉を迎えた
本線がスノーシェッドに入る辺りの真下
この先は沢になっていて、急激に落ち込んでいる。平場の終端だ
そして、振り返り、上流方を見る
右手上が本線、真ん中の杉林を境に右手が平場
ここは微妙な広場になっている
航空写真にもこの広場がごちゃごちゃした感じで残ってる
ちょうど矢印の辺りで写真を撮っている
そして、杉林を境に左手側にも平場が伸びている
ちょっと待て、広場を挟んで、平場が行違っている
この鉄道の高度を稼ぐ構造は私もよく見ている
姨捨駅とか、桑ノ原のそれに似ていないか?
高度を克服するために、鉄道がとりうる手段は限られている
左手側の平場を進んでいく
上流に向かってちゃんちゃんと高度を下げている
下流方に振り向く
っぽいな、っぽい平場が続いている
そして、このまま、さっきの広場から降りてきた平場は発電所のレベルと接続していった
少し離れて見てみよう
下流方を見た感じだが
最も上の雪覆いがあるのが本線で、その少し下に薮漕ぎで苦労した平場がある
これ、どう考えてもスイッチバックじゃないか!
スイッチバックだ!
越後鹿渡の発電所への側線はスイッチバックで高度を克服していたのだろう!
そういう見方をし始めると、いよいよスイッチバックらしく見えてくる
さっきの広場を下から離れて見てみると
真横から
この水路っぽいのは、当時の航空写真にも写っている
軌道跡が農地改良か何かで消えているのは前述のとおりだ
ここから、軌道跡は下流にむかって飯山鉄道を潜って発電所まで伸びていた
多少、線形は変わっているものの、それらしい雰囲気だ
更に上に回って、観察してみる
丁度、薮を漕いで直登してきた辺り
上流方
登ってきた辺り
下流方
更に、広場の辺り
かなりそれっぽいぞ
航空写真や現地調査で高度差がありモヤッとしていた部分だが、スイッチバック構造だとしたら全てが合点行く
あくまで予想図ではあるが
緑色の本線に対して、茶色がスイッチバックを含めた工事用側線らしい軌道跡である
おおよそ、こういう感じだったと推測される
飯山鉄道の越後鹿渡駅から発電所構内までの工事用側線はスイッチバックだったかもしれないという事実を目の当たりにして、興奮し始める
しかし、実地調査をしたからと言って、直ちに越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線はスイッチバック構造だったと言い切ってしまって良いものか
あいにく、資料的なものは皆無なのである
そこで、私は現地住人に聞き取り調査を開始した
しかし、当時を知ってる人は少なくとも80歳以上なんだ
なかなかに厳しそうだ
それでも、ひょっとしたら親世代などから話を聞いたという方もいるかもしれないという淡い期待を抱きながら、鹿渡の集落の人影を見掛けては、この調査の目的を説明しながら声をかけ始める
すると、意外にすぐに知ってる人がいた
その方は60代くらい、親からも話を聞いていた
鹿渡の駅から発電所まで工事のために線路を敷いていたと思うという話をしたところ、「親からあったと聞いてます。その頃は上線・下線といってたみたいですよ。下線のところには石垣もあるでしょ」と返ってきた
余りに出来過ぎな、テレビだったら仕込みのインタビューになってしまいそうな回答だが、これはリアルだ
下線、上線と現地では言われているらしい
「上線とはこの飯山線の線路のことですか?」と聞けば
「いえいえ、あなたの立ってる場所にも線路があって、ここが上線。今でも東京電力の土地で、震災の頃から草刈りやらなくなっちゃったけど、それまでは駅までの道だったの」
は!?
このやり取りはこの場所でやっていた
丁度、右手奥の線路と並行して伸びている平場からその人は現れた(山菜でも採ってたっぽい)
いやいや、まさに山側に分岐してそうだと航空写真で当たりを付けて悩んでいた平場じゃないですか、こっちも軌道だったの?
「当時、どういう様子だったかご存知ですか?」
「私も親から聞いた話だから分からないけど、隣に当時からここに住んでいるお婆ちゃんがいるから、その方に聞けば何か分かるかもしれない。あそこの家ね」
そう、指さされた鹿渡の集落の一角にある民家
謝辞を述べて、その家に伺うことにする
そのお婆ちゃんの家に着くと、さっきの方が先回りしててくれて、当たり前のように玄関を開けて、お婆ちゃんに聞きたいことを先に紹介していただいてしまった
しかし、お婆ちゃんは発電所工事の当時のことは知らなかった
工事の後に、ここに嫁で来たからねぇと
しかし、当時の鹿渡の集落の様子をたっぷりと聞くことが出来た
これまた貴重な当時の話なので簡単に紹介したい
・当時は独身寮や社宅が一群~四群まであった
・社宅は発電所から近い場所から一群、二群と続き、駅前の四群まで
・独身寮には地域のお母さんたちが交代で飯を炊きに行って、手間賃で現金収入を得ていた。寮生はすぐに覚えたし、向こうも覚えててくれて、未だに遊びに来てくれる人もいる
・電気もガスも無かったから、集落の家々も寮も炊事から何まで薪で炊くのが当たり前だった。 地元の人は薪は薪で取れば取るだけ売れたから、これまた貴重な現金収入だった
・東電の社宅の奥様方は都会から来た専業主婦だったから、農作業で田植えや稲刈り、稲架掛けとか手際よくやるのを珍しそうに見ていた。集落の住民とは仲は良かった
・社宅に家族ごと来たので、ご子息も多く、小学校のクラスが増えて、いつも子供の声が聞こえる賑やかな集落になった。子供が自然と集まって日が暮れるまで遊んでいた
・今の国道も、後年はトラックが多く通るようになって、東電に言って広くしてもらった
当時のことを聞きつつも、飯山鉄道について水を向ける
すると、さっきのように、私はお嫁に来たので知らないけど、同じ集落のお爺さんなら知ってるだろうと、紹介してくださった
御年93歳、生まれも育ちも鹿渡の方だそうだ
そして、この方によって、様々なことが判明していく
突然のお邪魔にも関わらず、お話を聞かせていただくことが出来た
何を聞きたい?といった感じだったが、とにもかくにも駅から側線の存在について話を聞き始めた
「工事に際して、鹿渡の駅から発電所に向かって線路が伸びていたと思うのですが、何かご存知のことありますでしょうか?」
・駅から川側に別れた線路は、何回かスイッチバックして、飯山線の下のアーチを通って、発電所の建屋の前まで行っていた
・下のところに沢があったろう。そこで折り返して、駅の方まで下に降りながらかなり戻ってた
・列車は毎日、ずっと行ったり来たりしていた。鹿渡駅まで飯山線で運んできた貨物は駅前に荷物置場があって、そこに貯めて、そこから短い2両くらい引っ張って発電所に持って行っていた
・発電機や水車、制御盤などの重量物も貨物で運んだ
・ここでは飯場と呼んでいたけど、そこの平場に鉄管工場があって、駅から貨車で部品を運んできて、そこで鉄管を組み立てて、今の鉄管のあるところまで線路で持って行って、巻揚げ機で上まで上げていた
・飯場のところから鉄管までの線路は、集落の中を通ってまっすぐ鉄管のあたりまで来ていた
・鉄管のある辺りが鹿渡新田のもともとの集落で、あそこに集落があった。工事で集団移転した
・鉄管とか重量物は、丸太とか鉄骨を三本組み合わせて、貨車から滑車で持ち上げていた。クレーンは一般的ではなかった
・荷物は長野方面から運ばれてきた
・そこの鉄橋の工事の時は川の中で潜水夫が工事してて、潜水服が珍しくて見に行った
・鹿渡の駅に初めて機関車が来た時は集落みんなで見に行って、出店でオモチャを買ってもらって嬉しかった
・工事の線路は発電所が完成したらすぐに剥がされたけど、水車や発電機の改修の時には夜中に飯山線で運んできて、鉄橋手前の線路と道路が一番近い場所で降ろした
・列車に人はあまり乗ってなかったけど、貨物はたくさん走っていた
・西大滝に関してはここみたいに飯山線が駅から現場まで繋がっていたというのは聞いたことがない。当時は今みたいにトラック輸送もなかったから、軌道みたいなのはあったかもしれない
予想以上に詳しくいろいろとご存知であった
自分の現地での答え合わせもあったが、上線の存在も明確になった
ここ、上線だ。
ここをパーツ化された鉄管を載せた貨車が行き交っていたというのだから、驚きだ
飯場から鉄管までの線路跡は農地改良等や住宅建て替えで地形変化があり追いにくいが、集落内にはその上を通っていたという石垣が残る
民家のすぐそばを抜けて
この付近に軌道は来ていたという
以上の事柄をまとめると、工事用側線はこのような感じで張り巡らされていたことになる
思いもよらぬくらいに、越後鹿渡は広大な規模を持って発電所工事の物資輸送の大役を担っていたのだ
資料が無いから断定できないと言いながら、航空写真と現地調査、そしてなにより当時からここに住んでいる現地住民の証言と、顧問のLINEでおおよそそうらしいという推測の域を出ないながらも、かなり近づけたのではないかという感触はある
ここまで現地で調べた上で、まとめようとしていたところ、更に関係組織から建設工事当時に撮影された写真の閲覧のアポイントが取れた
同時並行で追っていた、西大滝ダムや信濃川発電所に関する工事誌は無いそうだ
結論から言うと、鹿渡のスイッチバックも西大滝の駅から伸びていたかもしれない軌道についても、クリティカルな写真は撮影されてないのか、残っていなかった
それでも、発電所や鉄管まで来ていた線路、西大滝の工事現場に軌道というには立派な線路が見られる写真が残されていた
これらについてはまたおいおい書いていきたいということで、今回はここで終わりにする。