不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

まんまるログ

融通性か?和・洋・中・無国籍・ジャンクとなんでも食べる胃袋と脳みそ。

王の男…テンイヤーズ・アフター

2015年03月10日 | 映画
16世紀の李氏朝鮮の時代。
2人の大道芸人チャンセンとコンギルは仮面劇(山台劇)の最高の相棒。
大道芸人は身分階級では最下位。よりも下。

2人は漢陽(当時の朝鮮の都、現在のソウル)の街で暴君・燕山君を風刺した芝居をして死罪に処せられそうになる。
チャンセンは王を笑わせられたら罪を免ぜられるべきであると豪語する。
女形であるコンギルの演技でついに王を笑わせることに成功した2人。
王宮付きの芸人として召し抱えられ、狂王に仕えるが、次第に宮廷の陰謀に巻き込まれていく。
また、王の寵愛を美貌のコンギルに奪われたと嫉妬する寵姫・緑水(チャン・ノクス)も策謀を巡らせていく。

チャン・ノクスは妓生(キーセン)でヒエラルキーで言えば芸人の2段階ほど上。
大差ない身分階級である。
暗愚な燕山君に気に入られれたのは、〝類友〟の縁の成せる技でしかない。



10面年前に観た映画を再び観た。

チャン・ノクスの卑しさ。
卑しさと美貌で王の愛妃になった罪悪感と嫉妬。

教養がなく、ましてや素養すら及ぶべくもない女の見苦しさ。
あるのは、美貌と肢体だけで、来るべく老いが恐ろしいだけ。
コンギルを演じる〝イ・ジュンギ〟。
美しい。
男である彼に嫉妬するノクス。
気の毒ではある。
イ・ジュンギ…彼のファンであった私は、だからこの映画を観た。
10年前のお話。

チャンセンを演じた〝カム・ウソン〟。
彼に興味がそそられて、再度映画を観ることになった。

見事な俳優である。
芸人の綱渡りのシーンはスタントなし。
自らが演じたそうだが、大きくうなずける。
カム・ウソンは元々は画家で商業主義についていけない…そういう理由で絵をやめている。
彼の声…韓国語だが、暖かく慈愛と声音の重さを感じる。
声が観るもの、聴くものを圧倒する。
燕山君を演じたチョン・ジニョン。
名優である。

10年も前に観た映画でのラストシーン。

私のこころの血塊があふれた。

〝カム・ウソン〟について調べたい。
彼を知りたい。

そう思っている。

映画を観る事。
何度も反芻して観る映画もある事。

それは自分の現郷を知る事であるし、今の自分の心を観る事でもある。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メル友……マッシュアップ

2015年03月09日 | 日記
洗濯して二度寝して やる気とともにWAKE UP
今の条件 限られた時間の中で 工夫していこ、という気が復活。
うん、うん、私も同じ洗濯の後、今まで書き溜めたものの整理。
きのうは頭働かず イ ジュンギ 見て 一日がおわった のでもないな、
ミヅ(息子)に郵便出しに行ったついでに よせばいいのにと迷いつつ隣のDEPERTMENT STOREへ
金柑 ガッチリライ麦パン GET,
ナナオにお供えして一緒に食べたし、
夜食にうどん(鍋焼き)を作って食べる。ナナオに最後に作ったのはラーメンだった。悔いが残っている。
髪も染めたし、人間お疲れのときはお疲れ。(悟り)ワープロ練習 今朝は 湯浅誠さん
    
私は(選挙の)帰結に重大な関心を寄せていますが、同時にそこに問題の根本はないと思っています。(略)
立てられるべき問いは、「主権者なのに、主権者でないかのように振舞ってしまう私たちの振る舞いを、
私たち自身がかえられるかどうか」です。
主権在民という言葉の意味を今一度
そこに、政治の未来も社会の未来もかかっています。
ナナオの BE PROUD だね。
ビー・プラウド…所詮わたくし個人なんて、大したことはないと思いつつも、世界に変えられない為に必要なのは自尊心

北海道知事選も勝利Ω
勝てて良かった。まずはおめでとう
HAVE A NICE DAY!

今年に入ってから日常生活で同時多発…あれとこれで動くことが多い。
アレェェ…お待ちくだされぇ。
まだ、ここが、これが、洗濯が、ふろ掃除が途中なんでござるよぅ。
度忘れが多く…地域の集まりも時間厳守ができない。

複数の楽曲を編集して複合し、1つの曲にする音楽の手法をマッシュアップという。
言葉そのものは「混ぜ合わせる」という意味がある。

ただ、二曲のマッシュアップは出来がいいが、三曲以上では不協和音になるという。
リミックスとは違う。

マッシュアップは二つまで。
言い聞かせながら日々を過ごしている。

夜 雨になった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔々 アナトリアで

2015年03月07日 | 映画
アナトリアというと…

マケドニアのアレクサンダー大王は、アナトリアを経て東方への大遠征を行った。
結果アナトリアはローマの属州のひとつになった。
ローマ帝国が東西に分裂した後、のちにビザンツ帝国と呼ばれるようになり東のローマ帝国領となった。
その後はセルジュク(セルジューク)か(オスマン)か…トルコのイスラム教徒の支配下になった……らしい。
〝アレクサンダー大王〟は映画を観た。
うら若きコリン・ファレルが演じていた。

アナトリア(小アジア)半島が舞台のトルコ映画の話。

トルコにはセミフ・カブランオール監督がいる。
他には思い出せない。
トルコ映画は滅多に観る機会がない。
三回か四回か 思いだせないが 思いだせない程度観ている。


〝昔々 アナトリアで〟は映画の半分以上、多分七割以上…が夜のシーンで印象的である。

暗闇の中、死体探しをしているらしい話が始まる。

ここに埋めた、いや丸い木の下だ、 いやこの水飲み場所に、その度に掘り返される草原。

草原か高原か 似たり寄ったりの風景でそれも夜 となるとだれてくる。

たるい被疑者に延々と引き回されて疲れてくる面々。

警部、検事、医者 軍司令 穴掘り人夫… 捜査が長引く途中の会話が示唆的で行間を感じさせる。

 闇夜に写る人工衛星

映画の冒頭シーンは、カメラが外から窓ガラス越しに室内で談笑している男たち三人を写している。

三人のうちの一人は被害者で二人は被疑者である。

ラストシーンは、医者の目が解剖室の窓から外を眺めている。

医者の目に映るのは、殺された男の息子と妻が家路へと向かう姿。

冒頭シーンと対立するラストシーンが心に残る。

首都圏でも商業的に成功するのは無理な感じがする…映画だが…

機会があれば、ゆっくりともう一度みたい。

そんな気がする映画のひとつ。 
端整に創られている。
映像と会話の隙間が…長くて重い。

題名とパッケージのデザインに魅かれて観た。
ファンタジーでなければ、せめてサスペンスを期待していた。
いまか、いまか、と待ってはみても 特に何事も起こらない。

題名から連想していたものがたりとは、ずいぶん離れていた。
だけど……闇夜の人工衛星の光は、漆黒の中に光をもたらして飛ぶ金色の鳥(鳳凰)にも似ている。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の名前を覚えた。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする