人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が主の律法

2022-12-10 09:33:19 | ガイダンス
キリスト教などでは人格神ということをよく説いていますが、神に人格があるのかどうか本当のところは分かりません。
私は、“あの御方“とか“見えない導師“とか、如何にもそのような存在として呼んだりしますが、現実にある人格的な情動、心情のようなものを通して導かれるということはなく、多くの場合こちらの意識にある促しがもたらされることによるものなのです。
しかし、一度だけそのような人格的な情動のようなものを強烈に感じたことがありました。
それは40数年前、私がうっかりカルト教団に近づいてしまって、そこに入らされる一歩手前まで行った時のことです。
突如、何かゾクゾクさせる寒気のようなものを覚え、全身の血の気がサーッと引いたようになったのです。そして上の方から「一刻も早くここを立ち去れ!」というようなことを言葉ではない、何かの響きをもって伝えているのを感じました。
間一髪、そこから離れることが出来て、何かそれまで受けたことの無い、それでいてずっと昔に覚えていたような感情に襲われました。
“襲われる“という言い方は、全く自分を超えたところからの情動を受けている感じを表しているに他なりません。と同時に自分の中から出てくる感情でもあるのです。
この時の感覚というものは...とても言葉で言い表すことは困難なのですが...「お前は本当にバカだなあ!...お前が本当に求めているものはそんなものである訳が無いだろう?、お前の本当の願い、私の導きが何故分からないんだ、お前は!...」というような響きは伝わって来たのでした。
私は、どうも取り返しの付かないアヤマチを犯そうとしていたようなのでした。我が主にはこのカルトに迷うこととかのことがとても気障りなようです。
これはしかし、単純に間違い、罪を犯す、それに対する“おとがめ“のことを言っているのではありません!
そのような法、道徳律のようなもので捉えたら絶対に分かりません!
“とても暗く、空しいものが私の心を覆っている...そこには人生で真っ先に知らねばならない、それ無くして、そも人生そのものが立ちゆかなくなるものが感じられない...それは神的な愛!”
それが、暗く、空しい中にも仄かに見え隠れしているのでした!
それが覆われてしまった、感じられない世界とその光が差し込む世界の両方を見せられているようでした。
浄土系仏教で伝える二河白道の世界とは、こんなものなのでしょうか?
そこに、私が本当に求めて、願ってやまないものが示されるのです。
それはどこまでも、自分の外から義務や掟に従うことによるのではなく、自分の中から、心底から自然(じねん)。自明なものとして受け取らねばならないのです!
外からの強制によっては、人間実存はどうともならないのですから!...
我が主の律法は、失われた本来的愛の回復に向けられているのです。
失われたものは、取り戻すことが出来る!
あの時、遠い昔失ったような、又失おうとしていた宝を強烈に感じさせられたのでした。
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良心の声か天来の声か

2022-10-03 10:35:32 | ガイダンス
”悪いこと、罪なことをするのは、良心に悖ることです!”
な~んて、言われても日頃、良心ということで意識が向かうのは、”良心的プライス”のことだったりする小市民の私…。
この良心とは、その発露として内なる声と言われたりしますが、果たしてそうなのでしょうか?
良心というものを自分の中のもう一人の罪の告発者、裁き主のように感じている人も、私のみならず居ることでしょう。良心の呵責と言ったりします。
昨日、近くの公園に自転車で行ったら、自転車置き場が埋まっていたので、チョイと歩道に停めたのでした。”な~に、ほんの小一時間のことだ”、と何食わぬ顔して公園を散歩してたら、だだっ広い公園なのに、”歩道に自転車を停めたら通行人の迷惑です。心当たりの人は至急動かして下さい!”、という園内のアナウンスが!...
”な、なぬっ、こんなにうじゃうじゃ人が居るというのに見てたのか?!...う、う、うっ...シカトしよ、うじゃうじゃに紛れてたら分からないって!...し、しかし、どうしたものか、このここに居るすべての人間から裁きの目で見られているような気分...何かに迫られる、重い、苦しい...あ~、分かったよ!、動かしゃいいんだろ!...”
って、いつもこうなってしまう私は悪い人間?、それとも良心的な人間でしょうか?...言えることは、葛藤を抱えることは、決して安くは無いってことです!

この内なる声みたいなものを良心と捉えたりするようですが、多く認識されているものは、純然たる内なるものとは言えないものだと思います。
それは、予め親からであったり、教師から、あるいはどこで知ったのか、どっかの神サマからであったり自分の外からもたらされた倫理道徳観念みたいなものが、意識してか無意識でか心の中に刷り込まされたものじゃないかと思われるのです。
この声に迫られ、責められることは、全く重い、息苦しさを覚えます。これで死ぬ人だって居るのです。
しかし、この内なる声とは、微妙であり、区別するのが難しいもので、もっと優しくある意識状態へと誘うものもあるのです。
それは良心の呵責とは、明らかに受ける感じが違う!...はっきり感じるものは、こちらを責め立てるものじゃないということです。
良心的な重苦しい心情の向こうに、微かにそれを超えて感じられるのは...愛、安らぎの音信...それは私の本来性へと立ち返らせるもののように感じてなりません。
それにより、私の罪なる心は悔い改めに導かれるかも分かりません。
しかし、心の奥からそれを促すものは、道徳観念から来る義務感といったものでは無く、私の本来性に立ち返ったところから、苦さの中に仄かに感じる愛、安らぎの中にあって、自ずから意識が動かされることによるのです。
こういうことは、誰からも教えられたことはありません。
しかし、世の中は、世の中という神は、この天来の声を知らないのです。
多く良心と呼ばれる”法的な声”しか知らない...
すべての裁きが終わらなければ、その天来の声を聞くことは出来ないのでしょうか?
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甘美なしめつけ

2022-08-28 10:17:29 | ガイダンス
私に初めて現臨感覚らしきものが芽ばえた昭和54年の春頃、一寸難しい哲学的なことや、考えても分からないオカルト的なことについて考えたり、そういう本を読んでたりすると、何か頭がしめつけられるような圧力みたいなもの、偏頭痛を感じ、それが困難になってしまうことがしばしばありました。
まるで、孫悟空が道に外れたことをしようとすると、三蔵法師が呪文を称えることによって、その頭にはめられた輪っかがしめつける、という風に...“余計なことは考えんでいい!“と告げられているように...
こう書くと、要らんこと考える度にお仕置きが待っているみたいで、さぞかし不自由な思いをさせられていたと思われるでしょう?
と~んでもない!...要らんこと考えないことがどんだけ自由でいられることか!
さらには、そうなることで待ち受けていたものは...愛と平安だったのです!(こういうことは、きっとサルには分からないのでしょう?!)
このことをテキメンに感じられるのは、読書をしている時だったと言ってもいいでしょう。
その頃から、ただ論理的思考だけに終始する哲学的思考や、やたらと想像をたくましくさせるだけで、安易な精神的迎合へと誘導させる、オカルト的思考とは距離を置くようになりました。
そこには、思考を超えた世界に誘うものは、何も感じられないから...頭でっかちなだけの興味と、内側から湧き出てくるような愛、安らぎ、リアリティなどとは違うのです!
あの“甘美なしめつけ“を受けていた時、思考が後退してゆくと共にもたげて来るものこそが現臨感覚に他なりません。
そこで思考の限界領域と、それを超えた領域とが示されるのです。
それがテキメンに“しめつけられる“ので、その頃は、何か見えない導きというものを感じずにおれませんでした。
そんな状態が約一年半続いたのですが、突然自然消滅してしまいました。
それから数年後、「スブド」なる団体に伝わる「ラティハン」なる修練と関わるなどして、現臨感覚は復活したのですが、あの“甘美なしめつけ“は、消えていました。
おそらくそれは、偏頭痛を味合わなくても、日常生活に纏わる悩みごとなどの他は、ヒマな、余計な思考をたくましくさせることには、自然と向かわなくなったからではないかと思います。
ところがつい先日、現臨について、ある程度知識的、論理的に言い表せないか、と思っただけで、一寸とした偏頭痛に見舞われることになりまして...“こりゃ、生理的に無理だわい!“、と改めて感じせられ、突如あの甘美なしめつけのこともアリアリと思い出されるということがあった次第なのでした。
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リアルな霊的導き

2022-06-12 10:32:23 | ガイダンス
ある悟り系と思しき方のブログで、”ガイダンスというものは、真の自己の目覚めには何の関係もない!、むしろそれと関わるのは有害ですらある!“、という趣旨の文に接して、思わず我が目を疑ってしまいました。
その真意は、おそらくその文面の外にあるようにも感じられたのですが、それだけを読む限り、ということなのですが...
ごくシンプルに言って、その言葉には何のリアリティも感じません。現実に即したものが感じて来ないのです!
古今東西の聖者、賢者と言われる人たちで、ガイダンス、導きというもの無しにその道を全うした者など居たでしょうか?
一歩たりともその道を歩むことなど出来ないでしょう!
その道に立つこと、乗っかることが出来る...神縁、仏縁というものからしてがそうなのです。
何度も言うように、精神的な道は、考える自分のみからは何一つ始まって来ないのです!
その道には迷い、苦難というものが付きものです。現実にそれらに直面したら、どうしたらいいのでしょう?
いや、何らの道標を持たずに歩むこと自体が迷いというべきでしょう。
祈ることも知らない、頭の高い人間には何も開かれない...
そんな人間は、修行マニアか、知的遊戯に熱中するだけの悟りマニアのようになるだけでしょう。
どこまでも、考え、何かを為そうとする自分を超えることが出来ないのですから...超えせしめるもの無くしては!...
私はよく現臨するもののことを“見えざる導き”、と言い換えたりしますが、具体的に霊的なガイダンスに与るものは、このものに他ならないのです! それにより全くリアルな、愛、平安に導かれる...
といっても、アタシャ、“それは守護霊、先祖の霊、あるいはハイヤーセルフであり”...などと実体あるかのように説き、それとコンタクトを取れるように、”愛念を送り、祈り、瞑想しましょう!“、などと囚われをもたらすようなことを言うつもりなどありませんよ!
そういう囚われを持ってしまうのは、ハッキリ有害です!...それは思念を超えられないで、より強めていることでしょ?
先の人が言っている真意は、おそらくその辺りにあるのでしょう?
その見えざる導きは、もしかして、本当に守護霊なのかもしれません。リアルにスピリチュアルなガイダンスなのだからそうには違いないでしょうが...分からないものをマインドで捉えようとするから、囚われちゃうのです!
自己イメージで無しに、思いを超えたものにゆだねる...
思念に囚われ、過度に自分と別の何かに依存したりしてはなりません。
何でリアルに感じるかというと、実存と切り離されたものでないからです。その霊的交わりからますます実存的とならざるを得なくなるくらいです。
思いに囚われることと、それを超えたものの違いが曖昧なままのスピ界...
この現状を打ち破るものは、真にスピリチュアルなガイダンスに依るしか無いかもしれません?
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わが主なる道

2022-05-13 10:00:37 | ガイダンス
私がいつも言っている、”意識を向ければ、パッと現臨が表れる“という即応性をいつ頃感じ始めたかと言うと、その神的なエネルギーとして捉えていたものを、“あの御方”、”わが主“と人格的に感じるようになってからです。
どういうメカニズムでそうなるのかはよく分からないのですが...と、考えるまでもなく、そうなるという話なのです!
私自身と一枚のものが臨んでくるから、としか言いようが無いかもしれません。
一つ言えることは、それは教理とか、修行などに追従していく道を全く超えているということです。そして、悟りを極めようとすることも、それ自体を求めることもどうでもよくなってしまいました。
つまり...信仰のための信仰にあらず、修行のための修行にあらず、悟りのための悟りにあらず...私の主たる歩みは、わが主に向けられているのです!
考えてみれば、このものに依らずして道を歩むことも、目覚めることも叶うもので無し...けだし、自然の成り行きと言えるでしょう。
“我は道なり、真理なり...”
実にこのものこそが道、真理...そして愛、平安であったのです!
このものを余所にした、どんな信仰も、修行も、悟りの道も的外れなものになるしかないでしょう。
それらにはマンネリ化、形骸化、逸脱化というものがつきものです。
キリスト信仰も、阿弥陀信仰などにもそういうものはつきものだろうって?...だから信仰のことは言ってないんだってば!
現実に臨んでくるもの、生ける現臨の事態をバーチャルな信仰の事態にすり替えてはなりません!
私にどうして特定の信仰や修行が身に付かなかったかがよく分かる気がします。
私は知らずして、あの御方に意識が向けさせられていたのでしょう!
あの御方は、キリストなのか、阿弥陀様か、瑞の御霊素戔嗚尊か?...いや、真我の表れなのか?
いやいや、もう余計な詮索は止めよう!...ほら、バーチャルな感じにボケ始めた!...
考えている私に即さないのは確かなことです。
そして、この臨在により、考えている私は離れ、私はより私自身になるのは確かなことなのです。
そして又、ますますその直接性は強くなってくるのを覚えています。
ゆくゆくは、どうなって行くのかは分からないけど、わが主にゆだねてゆくのみです...。
コメント (2)
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