人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の愛はオールマイティ

2020-12-03 11:57:51 | 
最近、私が精神的なことについて書いていることのほとんどは、(テキトーに言い方を変えながらも)"神的な愛、ハタラキ"に関するものばかりなのです。
とにかく神の愛に触れ、受け入れ、感じていることで、人生のほとんどの問題は解決すると言っても過言ではないと思います。
といって、それは神の愛、ハタラキを受け入れれば、コロナ禍が、紛争ごとが、諸々の社会問題が解決するってことじゃありません。
そういう諸々の問題の解決に向けての試みは、勿論為されるべきだと思いますよ。為せるというのなら...
そうでなければ、否応なしに我々はそれら複雑に絡み合い、重なり合った諸々の問題の前に窒息するしかないようです。
もう、現実は人間の万能を謳う楽観論でも、絶望的悲観論でもどうにもなりゃしないのではありませんか?
私は、ここで"神を信じて幸福になりましょう"、などという、脳内お花畑的な、安易な幸福論を説こうというつもりはありません。
これはそれに伴う悩み、恐怖といった、このどうにもならない苦しみの思いから離れられる、自由になる、ということを言っているのであり、現実の切実な問題に向かい合っているつもりなのです。
神愛に触れるということは、平安な心を取り戻すことに他ならないのですから。
神は全知全能、オールマイティだと言われる...然るに何故この世から諸々の苦難が悪、不調和と思えるようなことが無くならないのか?、と思う人も多いことでしょう。又こういう疑問から神への不信に傾いてしまう者も少なくないでしょう。
しかし、私は神に向かい、その愛に触れたことで、どれだけ救われたか分からないのですi
"そんなことでそうなるもんかi"、と言う人は、そういうことを漠然と思っているだけで、意識が向かう、触れるということが無いのだ、と言ってもいいでしょう。
しかし、それはちょいと意識を向けるだけでそうなるのですi (これは安易な幸福論なのかもしれない?)
逆に言えば、何故この世から次から次へと問題が絶え間なく起こるのか、ということに思いを致せば、ここで触れているような何かが感じられてくるでしょう。

視点を一寸変えて...覚醒や悟りを開くには、その手段として"神的な愛、ハタラキを受ければいい"、と説いている向きもあります。
私は覚醒、悟り体験などに囚われて、ずいぶん迷ったことがあるから言うのですが、どう考えても逆にしか思えません。
神の愛無しに悟りの道など開かれる訳が無いi...そこから離れてより高い悟りの道を目指そうとすることは、そういう思いに取り込まれた迷いでしかないのではないかi
この他宗教、スピの教えには、幸福になるには、"ネガティブな思いを出さなければいい...個我意識から離れたらいい...意識が苦難をもたらすのだから、意識しなければいい"...と、自分の思いでどうにかなるかのような出来もしない方法論で溢れているようです。
何度も言うように神の愛、ハタラキを受けることは、思いを超えたものにあって、その思いを自ずから超えせしめられるということなのです。
イヤ、実にここにはメンドクサイ方法何てのはありません。すべてはあの御方のみ心あってのものなのだから...
強いて言えば、祈るということ(これが意識を向けるということに通ずる)しかないでしょう。
神自体がオールマイティなのかどうかは分かりませんが、少なくとも私には、神の愛に触れ、神と共にあることは、人生のあらゆる道にも通じ、あらゆる方法も超えてオールマイティなことに感じられる次第なのです。
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