「あなたの性質は神の性質で、あなたの本質は神の本質なのだ。あなたが神になるのでも、神があなたになるのでもまったくない。外的にも内的にも、“彼の顔以外のすべては消滅する“。これが意味するのは、神以外は存在しないということである」
(イブン.アラビー/バルヤニ「あなた自身を知りなさい」.ナチュラルスピリット刊)
霊性の道の伝統において、イスラーム神秘主義(スーフィー)の存在は無視出来ないでしょう。しかし、その文献は、わが国ではほとんど紹介されて来なかったのが実状なのです。
ここに最近、おそらくわずかに邦訳もある、神秘主義的な詩人ルーミーに次ぐくらいに知られているであろう、12、3世紀のイラン(ペルシア)の神秘家イブン.アラビーの邦訳が出されたのです。
しかし、それもどうもその神秘家の著述でなく、彼に影響を受けた、同時代の神秘家バルヤニが本当の著者らしいと言うのだからちょっと心もとないですし、それが又わずか100ページにも満たない小著なんだから心もとない...。
だから、この本にはまとまったイスラーム神秘主義、イブン.アラビーのその神秘思想について知ることは期待出来ません。
そうなんです。それでいいのです。神秘思想にそういうものを求めるのは、学者か好事家でしょう。
わずか数行の言葉に“捉えられ“、魂が揺さぶられるような経験こそが、真に“神秘思想に触れた“、ということなのですよ。
この本の主題は、「ハディース」と呼ばれる、イスラームではコーランに次ぐ聖典とされる書き物にある、預言者マホメットの言葉「自己を知る者は主を知る者である」についての解明にあります。
このブログを読まれている物好き?な方々、こういう表現を何回目にしたことであろう。
「神的なものと自己は切り離されない」「超越的なものは実存する」「私のすべての主なるもの」...
これは、私の独創的な思想を裏付けるものでなくて何であろうか?...いいや、そうでは無い!
そんなこと本気で思っているヤツは、主の前に立てる訳が、主の臨在などある訳が無いのです!...従って、そんな思っているだけの私は消え去るのみ!...
古今東西のいかなる宗教、霊性の道、神秘思想でこうしたことを指し示し、触れないものなど無いのではありませんか?
解説にもあるように、イブン.アラビー(バルヤニ)の神秘思想を特色づけるものは、この普遍性を開示するところにあるのでしょう。
それを“存在一性論“とかコ難しく哲学的に解釈もされるのでしょうが、要するに“神、真我しか存在しない“、ということでしょう。
この本では、そのことをコンパクトに、マスターが弟子に語るように、直接的に書かれているのです。
一つ重要なことで指摘したいことは、スーフィーの伝統では、苦行などを通じて、自己を消滅させようとする試みに対し、この神秘家は否定していることです。
つまり、個人として、肉体存在としてで無しに、ただ“私は在る“という意識は、消滅させる必要もなく、出来ないということなのです。それを彼は“神の顔“と呼んでいるようです。
根底から在るものは消滅出来ない...即ち“神、真我しか存在しない“
この本は、吹けば飛ぶような私の根底にあるものを裏付けるものであるのは、確なことに違いありません。
揺さぶられずにおれないのだから!...
(イブン.アラビー/バルヤニ「あなた自身を知りなさい」.ナチュラルスピリット刊)
霊性の道の伝統において、イスラーム神秘主義(スーフィー)の存在は無視出来ないでしょう。しかし、その文献は、わが国ではほとんど紹介されて来なかったのが実状なのです。
ここに最近、おそらくわずかに邦訳もある、神秘主義的な詩人ルーミーに次ぐくらいに知られているであろう、12、3世紀のイラン(ペルシア)の神秘家イブン.アラビーの邦訳が出されたのです。
しかし、それもどうもその神秘家の著述でなく、彼に影響を受けた、同時代の神秘家バルヤニが本当の著者らしいと言うのだからちょっと心もとないですし、それが又わずか100ページにも満たない小著なんだから心もとない...。
だから、この本にはまとまったイスラーム神秘主義、イブン.アラビーのその神秘思想について知ることは期待出来ません。
そうなんです。それでいいのです。神秘思想にそういうものを求めるのは、学者か好事家でしょう。
わずか数行の言葉に“捉えられ“、魂が揺さぶられるような経験こそが、真に“神秘思想に触れた“、ということなのですよ。
この本の主題は、「ハディース」と呼ばれる、イスラームではコーランに次ぐ聖典とされる書き物にある、預言者マホメットの言葉「自己を知る者は主を知る者である」についての解明にあります。
このブログを読まれている物好き?な方々、こういう表現を何回目にしたことであろう。
「神的なものと自己は切り離されない」「超越的なものは実存する」「私のすべての主なるもの」...
これは、私の独創的な思想を裏付けるものでなくて何であろうか?...いいや、そうでは無い!
そんなこと本気で思っているヤツは、主の前に立てる訳が、主の臨在などある訳が無いのです!...従って、そんな思っているだけの私は消え去るのみ!...
古今東西のいかなる宗教、霊性の道、神秘思想でこうしたことを指し示し、触れないものなど無いのではありませんか?
解説にもあるように、イブン.アラビー(バルヤニ)の神秘思想を特色づけるものは、この普遍性を開示するところにあるのでしょう。
それを“存在一性論“とかコ難しく哲学的に解釈もされるのでしょうが、要するに“神、真我しか存在しない“、ということでしょう。
この本では、そのことをコンパクトに、マスターが弟子に語るように、直接的に書かれているのです。
一つ重要なことで指摘したいことは、スーフィーの伝統では、苦行などを通じて、自己を消滅させようとする試みに対し、この神秘家は否定していることです。
つまり、個人として、肉体存在としてで無しに、ただ“私は在る“という意識は、消滅させる必要もなく、出来ないということなのです。それを彼は“神の顔“と呼んでいるようです。
根底から在るものは消滅出来ない...即ち“神、真我しか存在しない“
この本は、吹けば飛ぶような私の根底にあるものを裏付けるものであるのは、確なことに違いありません。
揺さぶられずにおれないのだから!...
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