人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生まれつきか生まれ変わりか?

2021-08-26 11:44:01 | 雑感
人間は生まれつき、生来から愛、平安に与れる神の子のような性質を有しているのか?
真我というものは、人間の本来性なのか?
最近の私は、ラマナ.マハルシがしばしば述べていたように、真我であることは、人間の自然な状態、本来性によるもの、というようなことに言及することが多いのですが...これは老子のタオイズムだとか、日本神道でも大体そのような言い方をしているようです。
しかし、キリスト教などでは、原罪というものと引っかけて、生まれつきの人間は、肉(自我)の思いから抜け出すことが出来ず、主なる神、キリストへの回心によって生まれ変わる経験を経なければ、そのような幸福に与ることは出来ないと説かれたりしているのです。
あ、そうそう...神、キリストというものは、生まれつきの人間から見れば"絶対他者"なのであり、"私は私でないほど私になる"、なーんてことも私は思い出したように書いたりもするのでした。
私のこうした二重人格のような矛盾性は、おそらく生来からのものでしょう?
だって、この相反するような言葉を発することに、何らの不自然さも感じていないのですから...
このことは、初めてあの恩寵の光を受けた時に、感じさせられたことがそのままが物語っていることなのです。
どっちも本当i...あれこれ、理屈を捏ね回してそういう結論を得たんじゃなくて、そう感じちゃったんだから本当ですよi
何度も言っているように、真我というものがどういうものかということは実は分からないのです。
これは光に照らされた時に、"思われた自分でない自分"に出くわしたことで感じさせられたものなのです。
それまでの思われた自分にとって、その自分は全く超越したものであり、未知のものなのでした。
しかし、同時にその自分はことごとくが既に知られていたのです。"思い出したi...これこそは本来の自分i...今、取り戻したのだi"、と...。
つまりは、生まれつきの思われた自分はそのままで、愛、平安、神と共にある幸福に与ることは出来ないのです。
ラマナ.マハルシでも、ある修練の必要性について説いており、その本来の自分は目覚めを通して開かれると述べています。
思われたままということは無い...思いは超えられなければならないのです。
しかし、又本来の私は、罪の子であることなど、我が主から示されたことなどありません。
"見よi、お前に現存しているものをi、そこに罪というものはあるのか?"
自然に主にある平安へと導かれてしまうのです。それが本来性というものでしょう。
そして、回心、目覚めへと赴かせること自体が、こういう本来性へと回帰させようとする見えない導きと言えるでしょう。
目覚めよう、帰ろうとさせる催しのようなものがある...それが本来から来るものであるからです。
真我的なものとは、未知のものであると共に既知のものであったのです。
もっとも、あなたにとってホントーに本当のことは、あなたの主に聞くことが一番です。それがもっとも自然なことでしょう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 思いは神に帰す | トップ | 言い逆らいの証 »

コメントを投稿

雑感」カテゴリの最新記事