何度も書いているように、私は大学生時代、M教団という新教団に入っていたのです。
しかし、その教団の教条主義的な体質にどうしても馴染めず、その説かれる神や真理などについて心から共鳴することも無く、心が安まることも一度も無かったのです。
で、その教団の教え以外に、自由に神や真理について探求出来る道はあるのかどうか、と悶々とした状態になっていた時に五井先生と出会ったのでした。
何よりも、先生の教えから自由に探求が出来るような雰囲気を感じさせることが大きなことだったのです。私の精神的な道の探求はここから始まったと言っても過言ではありません。
そして先生の著書を通して、“ああ、実に神というものは、かつて教えられていたように恐ろしいものでなく、愛そのものだったのだ!“、と知って、涙がこみ上げてきたこともありました。このことは計り知れないほど、その後の私の精神的な歩みに大きなトレースを残したことであったのは言うまでもありません。
こういうことがあったためか、五井先生の信者の中に、“先生の教えは最高、完璧なので、一字一句たりとも付け足しも変更も必要でない!“、なんてこと言っている向きに接して、“そんなに神を、真理を自ら狭いものにしてバカじゃなかろうか!“、と感じてならなくなるのです。
彼らは、白光会でそれこそ教義として掲げられた、“人間と真実の生き方“という文章をタテに、そういうことを言うのでしょう?
まあ、概ね私もそれに同調出来るものはあります。だけど思考停止して、丸のみなんて出来る訳ないですよ。
又、先生がちょくちょく説いていることに疑問を感じないでも無く、生意気を省みず、私もここで自由に批判的なことも書いたりしているのです。
私はその場合、もうとっくに叶わなくなったけれど、直に五井先生と一対一で相対しているつもりで書いているのです。
まあ、こんなこと訊くと、先生怒られるかな、やり込められるかな、という感じはあるのですけれど...とにかく私は自由に先生と接したい、ぶつかりたいという気持ちは持っているのです。先生を神のように奉る気など無いのだから!
きっと先生は、“はいはい、何でも自由に質問していいですよ!“、と例の砕けた調子で応えられると思いますよ!
例えば、“私は世界平和の祈りには心から同調出来ない部分があります“、とか先生の教えの根幹に関わるようなことも訊いたりもするかもしれません。
その他、“守護霊という表現は私にはピッタリしない、過去世など普通にわかに信じられないものでしょう?“とか感じたままを今の私はぶつけるかもしれません。
きっと先生なら“同調出来ないなら、信じられないなら無理にやらなくても、信じなくてもいいのですよ!“と答えられるでしょう?
“で、どういう祈りがピッタリするの?、守護霊でないならどう呼んだらいいの?“
ー“み心のままに導き下さい“、みたいなニュアンスのもの、“わが主“みたいな...感じです。
“ほお~っ...いいじゃないの、それでいい!...あーたの自由におやんなさい!“と...これはあくまで私の都合勝手な想像に過ぎないですが、“きっとそう言う!“、そういう風に感じてならないのです。
私の中の五井先生ならきっとそう言う!
少なくとも、私の内なるものは、そのように霊的存在のような先生に感応しているようなのです。
それで、先生と出会い、どういうものが私を導いてくれたのかが分かるような気がします。
何かとても懐かしい、もしかしたらこれが過去世の縁というものの然らしめるものなのかもしれません。
無理に信じようとしなくても感じていたらいいのです!
“そう、それでいい!“
私の中の五井先生はきっとそう言っている!...
しかし、その教団の教条主義的な体質にどうしても馴染めず、その説かれる神や真理などについて心から共鳴することも無く、心が安まることも一度も無かったのです。
で、その教団の教え以外に、自由に神や真理について探求出来る道はあるのかどうか、と悶々とした状態になっていた時に五井先生と出会ったのでした。
何よりも、先生の教えから自由に探求が出来るような雰囲気を感じさせることが大きなことだったのです。私の精神的な道の探求はここから始まったと言っても過言ではありません。
そして先生の著書を通して、“ああ、実に神というものは、かつて教えられていたように恐ろしいものでなく、愛そのものだったのだ!“、と知って、涙がこみ上げてきたこともありました。このことは計り知れないほど、その後の私の精神的な歩みに大きなトレースを残したことであったのは言うまでもありません。
こういうことがあったためか、五井先生の信者の中に、“先生の教えは最高、完璧なので、一字一句たりとも付け足しも変更も必要でない!“、なんてこと言っている向きに接して、“そんなに神を、真理を自ら狭いものにしてバカじゃなかろうか!“、と感じてならなくなるのです。
彼らは、白光会でそれこそ教義として掲げられた、“人間と真実の生き方“という文章をタテに、そういうことを言うのでしょう?
まあ、概ね私もそれに同調出来るものはあります。だけど思考停止して、丸のみなんて出来る訳ないですよ。
又、先生がちょくちょく説いていることに疑問を感じないでも無く、生意気を省みず、私もここで自由に批判的なことも書いたりしているのです。
私はその場合、もうとっくに叶わなくなったけれど、直に五井先生と一対一で相対しているつもりで書いているのです。
まあ、こんなこと訊くと、先生怒られるかな、やり込められるかな、という感じはあるのですけれど...とにかく私は自由に先生と接したい、ぶつかりたいという気持ちは持っているのです。先生を神のように奉る気など無いのだから!
きっと先生は、“はいはい、何でも自由に質問していいですよ!“、と例の砕けた調子で応えられると思いますよ!
例えば、“私は世界平和の祈りには心から同調出来ない部分があります“、とか先生の教えの根幹に関わるようなことも訊いたりもするかもしれません。
その他、“守護霊という表現は私にはピッタリしない、過去世など普通にわかに信じられないものでしょう?“とか感じたままを今の私はぶつけるかもしれません。
きっと先生なら“同調出来ないなら、信じられないなら無理にやらなくても、信じなくてもいいのですよ!“と答えられるでしょう?
“で、どういう祈りがピッタリするの?、守護霊でないならどう呼んだらいいの?“
ー“み心のままに導き下さい“、みたいなニュアンスのもの、“わが主“みたいな...感じです。
“ほお~っ...いいじゃないの、それでいい!...あーたの自由におやんなさい!“と...これはあくまで私の都合勝手な想像に過ぎないですが、“きっとそう言う!“、そういう風に感じてならないのです。
私の中の五井先生ならきっとそう言う!
少なくとも、私の内なるものは、そのように霊的存在のような先生に感応しているようなのです。
それで、先生と出会い、どういうものが私を導いてくれたのかが分かるような気がします。
何かとても懐かしい、もしかしたらこれが過去世の縁というものの然らしめるものなのかもしれません。
無理に信じようとしなくても感じていたらいいのです!
“そう、それでいい!“
私の中の五井先生はきっとそう言っている!...
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