「超越と実存」南直哉著/新潮社刊
著者は、曹洞宗の僧侶で、青森の恐山菩提寺の院代をされている方です。
まずこの題名ですが、私はここで何回、この"超越と実存"について書き表してきたことでしょうか?
宗教、哲学、スピ...あらゆる精神的な道において、このことに触れないものは無いと言っても過言ではないでしょう。
それは取りも直さず、その道に主体的に関わるならば、そうならざるを得ないということです。通り一辺の仏教の入門書、通史などならいざ知らず...
この書は、表向きそうした装いを持ったものですが、あくまで著者の"実存"世界より観たインド、ブッダの原始から中国、日本へと伝播した仏教の通史、といった趣向で書かれたものと言えるでしょう。
仏教書というより、そういう用語が頻出するし、哲学書として読んだ方がいいと思われます。
では、その実存とは何か?...言うまでもなく、それは自己と離れてそういう問いかけ自体起きてこず、又考えている私からは答えは見付けられるべくもありません。
従ってその私とは、「"何であるか分からない"ままに存在する"何ものか"」(同書)ということになり、実存とは著者によれば、「根拠を欠いたまま存在する事実」(同)を意味する、ということになるようです。
つまりは、この思われた私も、"本当の私"と想定されるような私も、定まった実体は無いということになります。これがブッダに始まる"無常"観というものでしょう。
では一方、"超越"ということについて著者は、如何に述べているかというと...私はいささか肩透かしを食った思いにさせられたのでした。
というのもそれは、実存的私の外に、神や霊的存在といった予めそうした"実体"をもった超越的な存在を想定したものである、と著者によって、多く批判対象として"予め想定"されているからなのです。
つまり、実存と超越とは、二元的に理解されているのです。果たして、本当にそういうものなのだろうか? こういう理解は"超越"され得ないでしょうか?
私が感ずることは別の機会に触れるとして、そういう"一つ"の理解は勿論あってもいいのでしょうし、何しろ、それは著者の"独断と偏見"と断っているのだから、尚更いいってことなのでしょう?
そうそう、本題に触れずじまいになりそうですが、そのブッダの原始仏教から大乗仏教が開かれ、変遷して行く過程で、大日如来(密教系)、阿弥陀如来(浄土系)などのように(天台の本覚思想のような定見になり得るものも含まれるとされる)、先の超越的な何ものかとして、観念が導入されることにより(著者は"超越論的パラダイム"と名付ける)、「仏教の核心的考え方を見えなくする」(同)ということを仏教の歴史を通して指摘しているのです。
そして、その無常観的核心に再び迫る気風を伝えたものとして、著者は親鸞と道元の二人を挙げております。
親鸞の「"信じる"行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏」(同)により、「信じる主体/信じられる対象」(同)という関係性を突破した在り方に言及されているのは実に明解です。
著者が思想遍歴の末、現在に落ち着いたとされる、道元の「座禅、修行という行為そのものへと脱落される」「行為が主体と対象を構成する」(同)ことで、行為によって縁起の意味が開かれるとされるところは、門外漢の私にはよく分かりませんでした。
一読して感じたことは、先に触れたことに関わるものですが、仏教に限ったことにとどまらず、自分の思い、行いを超えたもの(信じられ、想定され得るものとは限らない)についての言及がほとんど見られないのは、一体どうしたものか、ということなのでした。
ともあれ、著者の主体的な、実存に根差した仏教の歴史についての考察というものは、そういう例はあまり無いであろうし、意欲作であるのは間違いないと思います。
著者は、曹洞宗の僧侶で、青森の恐山菩提寺の院代をされている方です。
まずこの題名ですが、私はここで何回、この"超越と実存"について書き表してきたことでしょうか?
宗教、哲学、スピ...あらゆる精神的な道において、このことに触れないものは無いと言っても過言ではないでしょう。
それは取りも直さず、その道に主体的に関わるならば、そうならざるを得ないということです。通り一辺の仏教の入門書、通史などならいざ知らず...
この書は、表向きそうした装いを持ったものですが、あくまで著者の"実存"世界より観たインド、ブッダの原始から中国、日本へと伝播した仏教の通史、といった趣向で書かれたものと言えるでしょう。
仏教書というより、そういう用語が頻出するし、哲学書として読んだ方がいいと思われます。
では、その実存とは何か?...言うまでもなく、それは自己と離れてそういう問いかけ自体起きてこず、又考えている私からは答えは見付けられるべくもありません。
従ってその私とは、「"何であるか分からない"ままに存在する"何ものか"」(同書)ということになり、実存とは著者によれば、「根拠を欠いたまま存在する事実」(同)を意味する、ということになるようです。
つまりは、この思われた私も、"本当の私"と想定されるような私も、定まった実体は無いということになります。これがブッダに始まる"無常"観というものでしょう。
では一方、"超越"ということについて著者は、如何に述べているかというと...私はいささか肩透かしを食った思いにさせられたのでした。
というのもそれは、実存的私の外に、神や霊的存在といった予めそうした"実体"をもった超越的な存在を想定したものである、と著者によって、多く批判対象として"予め想定"されているからなのです。
つまり、実存と超越とは、二元的に理解されているのです。果たして、本当にそういうものなのだろうか? こういう理解は"超越"され得ないでしょうか?
私が感ずることは別の機会に触れるとして、そういう"一つ"の理解は勿論あってもいいのでしょうし、何しろ、それは著者の"独断と偏見"と断っているのだから、尚更いいってことなのでしょう?
そうそう、本題に触れずじまいになりそうですが、そのブッダの原始仏教から大乗仏教が開かれ、変遷して行く過程で、大日如来(密教系)、阿弥陀如来(浄土系)などのように(天台の本覚思想のような定見になり得るものも含まれるとされる)、先の超越的な何ものかとして、観念が導入されることにより(著者は"超越論的パラダイム"と名付ける)、「仏教の核心的考え方を見えなくする」(同)ということを仏教の歴史を通して指摘しているのです。
そして、その無常観的核心に再び迫る気風を伝えたものとして、著者は親鸞と道元の二人を挙げております。
親鸞の「"信じる"行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏」(同)により、「信じる主体/信じられる対象」(同)という関係性を突破した在り方に言及されているのは実に明解です。
著者が思想遍歴の末、現在に落ち着いたとされる、道元の「座禅、修行という行為そのものへと脱落される」「行為が主体と対象を構成する」(同)ことで、行為によって縁起の意味が開かれるとされるところは、門外漢の私にはよく分かりませんでした。
一読して感じたことは、先に触れたことに関わるものですが、仏教に限ったことにとどまらず、自分の思い、行いを超えたもの(信じられ、想定され得るものとは限らない)についての言及がほとんど見られないのは、一体どうしたものか、ということなのでした。
ともあれ、著者の主体的な、実存に根差した仏教の歴史についての考察というものは、そういう例はあまり無いであろうし、意欲作であるのは間違いないと思います。
隻手の声を拈提せよ