「私たち人間は神を知ることなど出来ないのが本当です。もし神を知ることが出来るというならば、それは神自らがご自分を現し、目に見えるように私たち人間の世界にやって来たもうからです」(手島郁郎)
いつも言うように、神がなんであるかは、人間の思考を超えているから分かりません。
思考している自分が分かった、と言うのはただ、そう空想しているだけなのです。
その神が自ら私たちに直接臨みたもうことほど人生で、画期(活気)的なことは無いと言っていいでしょう!(その有り様で、目に見えるように神を知るとは、思いを超えた世界においてであるのは言うまもありません)
私は手島先生に同調して、”私は、私に直に臨んで、顕わにされる神しか知らない!”、と言わずにおれません。宇宙の意志だとか法則のような神のことは知らないし、知る必要もありません!
又、神と一つになるとか、神人合一だとか、ご大層なこと言えた義理などありません。到底、手につかぬ自分のダメさかげんを知る故、そういう境地に達したことは勿論、目指したことも無いのです。
一個なる自分が、それを目指そうとも、そうならないのが本当ではありませんか?
思い、為そうとする自分は、それを超えたものと切り離される故、その一個なる自我に閉じ込められ、その自己を超えるという衝動は、自我の強化、肥大につながるものとならざるを得ないのです。
然るに、否応無しに、終末の様相を映し出す現代文明は、こうした”神無き”意識状態を表しているのではあるまいか?
しかし、その中にあって、どうにか我々の”かくある姿”らしき本来性のようなもの(人間らしい人間の有り様)が存しているのは、意識の深部では、神的なものと切り離されていない自己の”原態”が生きづいているからではないでしょうか?
つまり、この原態が完全に失われるならば、我々は我々で無くなる!...得たいの知れないモンスターと化するか、その性質上、自滅するよりないでしょう。
しかししかし、今、こういう今だからこそ、神は我々を超えた上からも、我々の中からも、ご自身を顕わにされようとしているのが感じられないでしょうか?
それは、神が上から臨むことと、我々の内なる本来からの望みとが合わさることを示しているのでしょう?
だから、神に意識を向け、祈ること、我々の祈願は、神の本願と切り離されないものなのでしょう?!
いつも言うように、神がなんであるかは、人間の思考を超えているから分かりません。
思考している自分が分かった、と言うのはただ、そう空想しているだけなのです。
その神が自ら私たちに直接臨みたもうことほど人生で、画期(活気)的なことは無いと言っていいでしょう!(その有り様で、目に見えるように神を知るとは、思いを超えた世界においてであるのは言うまもありません)
私は手島先生に同調して、”私は、私に直に臨んで、顕わにされる神しか知らない!”、と言わずにおれません。宇宙の意志だとか法則のような神のことは知らないし、知る必要もありません!
又、神と一つになるとか、神人合一だとか、ご大層なこと言えた義理などありません。到底、手につかぬ自分のダメさかげんを知る故、そういう境地に達したことは勿論、目指したことも無いのです。
一個なる自分が、それを目指そうとも、そうならないのが本当ではありませんか?
思い、為そうとする自分は、それを超えたものと切り離される故、その一個なる自我に閉じ込められ、その自己を超えるという衝動は、自我の強化、肥大につながるものとならざるを得ないのです。
然るに、否応無しに、終末の様相を映し出す現代文明は、こうした”神無き”意識状態を表しているのではあるまいか?
しかし、その中にあって、どうにか我々の”かくある姿”らしき本来性のようなもの(人間らしい人間の有り様)が存しているのは、意識の深部では、神的なものと切り離されていない自己の”原態”が生きづいているからではないでしょうか?
つまり、この原態が完全に失われるならば、我々は我々で無くなる!...得たいの知れないモンスターと化するか、その性質上、自滅するよりないでしょう。
しかししかし、今、こういう今だからこそ、神は我々を超えた上からも、我々の中からも、ご自身を顕わにされようとしているのが感じられないでしょうか?
それは、神が上から臨むことと、我々の内なる本来からの望みとが合わさることを示しているのでしょう?
だから、神に意識を向け、祈ること、我々の祈願は、神の本願と切り離されないものなのでしょう?!
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