宗教やスピの道について、何を目的としているのかは人それぞれでしょう。
"現実に抱えている悩みを解消したいから"、"知識を増やし、研究したいから"、"超能力を得たいから"、"その教え、教師を信奉したいから"...
しかし、もしそれが言い方はともかく、悟りを開く、本心の開発、あるいは神仏との一体化を目指すということであれば、これも表現は様々でしょうが、私が"見えざる導き、導師"と言っているものとの関わりを持つようになるのが普通だと思います。
これは自分が信奉している教師、"見える導師"との関係から、どこかで見えないものへとシフトされねばならない、ということを示唆しているのです。
それでその教師、導師との関係が終わるのかどうかは、見える存在を通して見えざる存在を見い出すという場合もあり分かりません。
本物の導師ならそのように導かれるのが普通で、もう、こういうことからしてが"見えざる導き"と言えるのです。
それは"内なる導き"と言い換えてもいいもので、そのつながりが生まれるということは、自分の外に権威的なものとして、そう、外なる導き、導師"を奉るのみの在り方は終わりを告げることを意味しているのです。
そうでなければ、いつまでたっても自己の内なるものは開かれようがありません。
このことは、又観念的に道を歩むような段階ではなくなるということでもあります。
つまり、見えざる、内なる導きというのは、抽象的に思い描くようなものでなく、具体的な感覚を伴うということなのです。
それを私は"じんじん、来た、来たi"とか、"自ずと意識が向けられる"とか、"すべてを見透す目に見られている"とか、訳の分からん言葉で言い表している訳です。
しかし、外なる教え、教師への追従感情(それは宗教的なものへのそれでもある)というものは、実に根深いものがあります。これは同時に自己の内なるものに意識が向かない、それが開かれないということですが、精神といい、霊といい、本来内面に向かうべきはずのものが人類は歴史的にずっとそのような道を歩んできたということなのでしょう。
内なるものは容易く外なるものに取り込まれ、時に偽装したりするので注意が必要です。
例えば、それまである教えに依存し続け、それに迎合した、どうでもいいような情報を散々発信していたのが、にわかに"自己の内なる神に従いましょう"などと言い出す人間も居たりして、その言葉自体が"上からの仰せ"に追従しているのでしょうか、説得力などまるで感じられません。
もし、本当にそういうことを伝えたいのであれば、自分がそのようにシフトした経緯を伝える必要があります。そうでなければただの観念ごとをなぞっているようにしか聞こえません。
しかしながら、内なるものへのシフトといっても、思われた自分からは中々起きやしません。
だけど、精神的な道に関わっていれば、誰しもどこかで、愛、平安といったものに触れたことはないでしょうか? いやそれ以前から、そういうものをどっかで感じているからその道を求めているのではないでしょうか?
先の私の訳の分からん感覚というのも、実にこのものと共にあるのだ、と言ったら頷けるものはないでしょうか?
このことに意識的になることで、容易く内なるものから脱線(これが、どうでもいいもの)しなくなるでしょう。
見えざる、内なる導きというのは、愛、平安そのものと言っても過言ではないのです。
"現実に抱えている悩みを解消したいから"、"知識を増やし、研究したいから"、"超能力を得たいから"、"その教え、教師を信奉したいから"...
しかし、もしそれが言い方はともかく、悟りを開く、本心の開発、あるいは神仏との一体化を目指すということであれば、これも表現は様々でしょうが、私が"見えざる導き、導師"と言っているものとの関わりを持つようになるのが普通だと思います。
これは自分が信奉している教師、"見える導師"との関係から、どこかで見えないものへとシフトされねばならない、ということを示唆しているのです。
それでその教師、導師との関係が終わるのかどうかは、見える存在を通して見えざる存在を見い出すという場合もあり分かりません。
本物の導師ならそのように導かれるのが普通で、もう、こういうことからしてが"見えざる導き"と言えるのです。
それは"内なる導き"と言い換えてもいいもので、そのつながりが生まれるということは、自分の外に権威的なものとして、そう、外なる導き、導師"を奉るのみの在り方は終わりを告げることを意味しているのです。
そうでなければ、いつまでたっても自己の内なるものは開かれようがありません。
このことは、又観念的に道を歩むような段階ではなくなるということでもあります。
つまり、見えざる、内なる導きというのは、抽象的に思い描くようなものでなく、具体的な感覚を伴うということなのです。
それを私は"じんじん、来た、来たi"とか、"自ずと意識が向けられる"とか、"すべてを見透す目に見られている"とか、訳の分からん言葉で言い表している訳です。
しかし、外なる教え、教師への追従感情(それは宗教的なものへのそれでもある)というものは、実に根深いものがあります。これは同時に自己の内なるものに意識が向かない、それが開かれないということですが、精神といい、霊といい、本来内面に向かうべきはずのものが人類は歴史的にずっとそのような道を歩んできたということなのでしょう。
内なるものは容易く外なるものに取り込まれ、時に偽装したりするので注意が必要です。
例えば、それまである教えに依存し続け、それに迎合した、どうでもいいような情報を散々発信していたのが、にわかに"自己の内なる神に従いましょう"などと言い出す人間も居たりして、その言葉自体が"上からの仰せ"に追従しているのでしょうか、説得力などまるで感じられません。
もし、本当にそういうことを伝えたいのであれば、自分がそのようにシフトした経緯を伝える必要があります。そうでなければただの観念ごとをなぞっているようにしか聞こえません。
しかしながら、内なるものへのシフトといっても、思われた自分からは中々起きやしません。
だけど、精神的な道に関わっていれば、誰しもどこかで、愛、平安といったものに触れたことはないでしょうか? いやそれ以前から、そういうものをどっかで感じているからその道を求めているのではないでしょうか?
先の私の訳の分からん感覚というのも、実にこのものと共にあるのだ、と言ったら頷けるものはないでしょうか?
このことに意識的になることで、容易く内なるものから脱線(これが、どうでもいいもの)しなくなるでしょう。
見えざる、内なる導きというのは、愛、平安そのものと言っても過言ではないのです。
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