人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

わが主の祈り

2024-11-17 09:15:14 | 祈りと瞑想
祈りというと、普通に考えられていることは、神であれ仏、キリストであれ、それがある神的なものの対象に向けられるということでしょう。
そういう決められた呼び名によってなされるものですね。
私もいつも祈りについて触れているのですが、よく考えてみたら決まった呼び名というのは無いのです。
言葉に出さずともある感応に導かれ(それを現臨と言ったりする訳です)てしまうという理由があるのですが、いきなりそういうことになる以前の昔からそうだったのです。
おそらく、決まった呼び名で祈ることにより、特定の宗教宗派色を出さないようにするためだったようです。私は○○教でも○○主義者でも無い、“自由でありたい“という心持ちが求道の初期からあったのです。
それでも、これは呼び名では無いが、あるニュアンス、響きをもった言葉を意識する、というかさせられるという感じは持っていたのです。
それは、“わが主“というものです。言うまでもなくそれは、キリスト教方面から借りたもので、多くはキリスト.イエスのことを指します。
手島先生、小池先生との縁から来ているのですが、ご存知のように私はクリスチャンではありません。
しかし、わが国では、この“lord“という英語を“主なるもの“という訳で、よくぞ言ったものだと思いますよ。もう、思い浮かべただけで、じんじんと主の現臨を覚えて来るではありませんか?
この“主“の一語には、その私を超えた神的なものの他に、“私の主なるもの“~“思い、為すものだけが私ではない、すべてなる私“、といった意味合いを含んでいるのです。
これを端点に言えば、この一語に超越的な神的なもの、内在的な真我的なものが含まれているということなのです。
この神と真我につながることは、あらゆる宗教、霊性の道において、形を超えて普遍的に
説かれ、伝えられていると言っていいでしょう。
そして、“わが主“と意識することで、他人行儀でない、私と一つに働くものへの親しみを込めたものになるのです。
そうなるともうこれは、祈りというものがある対象に向けられる、というそうした形、概念を超えたものにならざるを得なくなるでしょう。
だから、私がいつも言うように、祈りと(内在的な方に意識が向けられる)瞑想は切り離すことは出来ないのです。
勿論、これは私の場合のことを言っているのでして、決まった神名で呼ぼうと、何と呼ぼうと呼ぶまいと、各人の自由です。
しかし、私の“わが主“がそうであるように、自分自身と切り離されない、実存的な祈りとなるならば、それがキリスト、阿弥陀様、どんな名で呼ばれようと、それぞれにあって“わが主“とならざるを得ないでしょう!...
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