人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無為の国に惹かれて

2020-06-23 12:09:43 | 現臨、ハタラキ
何を思う、何をするでもなしに、ポンと身も心もゆだねてみる...
すると...すぐに耳がきんきんして来て、じんじんと何かが始まる...

当たり前のようにいつも書いていますが、当たり前だから驚くべきことなのか、驚くべきことは当たり前じゃないのか、よく分からないですが、いつの間にかこういう風になってしまったのです。
"ひとりでにそうなる"とか、"こっちが為すんでなしに、無為に為される"というようなことは、昔から読んだり、聞いたりして来ました。
しかし、当然のことながら、以前はそれが一体どういうことを言っているのか、体感されることが無いので、よく分からなかったのです。
ただ、分かることはそれはとっても素晴らしく、有難いものに違いないもので、何だか無性に惹かれてやまないものを感じていた、ということです。
老子の言う無為の国に惹かれて...それは何か生まれる以前から抱いているような感覚なのでした。
思い返せば、このことがじっつに大きな意味を持っていた、とハッキリ分かるのですi
体感されることが無い、と書きましたが、こういうこともある面では体感と言えるでしょう。
これは"特殊な体験"ということに囚われていて、意識があまり深く浸透していなかった、ということではあるのですが、もし、そのように感じるものが無かったならば、おそらく"ポン..."となってしまうことも無かったでしょう。
そして、私は"こうやればそういう境地になれる..."と、人為的な方法、修行にはほとんど赴くことが無かったのです。無為的なものに惹かれていたのですから...
無為的とは、私が思ったり、行うことじゃない...そういうこの世の表で、前に出ていた私が引っ込められ、それと共に、裏で隠れていた私の"見えざる御大"が顕わになる、ということです。
"じんじん"してくる、というのをも少し具体的に言えば、こうした退引と顕現が交錯するプロセスに伴う、心身の緊張と弛緩のこれ又交錯した状態の感覚と言えるでしょう(余計分からなくなったかもしれませんが)。
言うまでもないことですが、この一連の在り方は、見えざる御大の主導で行われるのです。
だからこちらが思いを無くして、自分を引っ込めようとか、出来もしないことをしなくても、そのことにポン、と意識を向けているだけでいいのです。
意識が向けられたり、心身をゆだねられる、ということは、向けられる、ゆだねられる何かを対象にして念じたりして、人為的にハタラキかけなくとも、その御大がすでにここに来ている、ここにあるからこそ可能なのです。
無為的なハタラキというのは、けっして雲を掴むような、捉えどころの無いものじゃありません。
そういうものに捉えられることほど、具体的で、リアルにハッキリ分かることは無いのです。
もし、そこにあなたが無性に惹かれてやまないものを感じたのなら、そのことがハッキリ分かることでしょう...。
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