度々触れていることですが、精神的な道では、しばしば現在の自分よりも先にある、進化した自分、高きにある自分、悟った自分が見据えられたりします。
そうして自分をずっと前に置いて追求している訳ですが、これは本当には、前に見えてる訳ゃなく、ただそうあるべき自分を思い描いているだけでしょう。
言い換えれば、現前にある自分は見据えられていないということ...いや、見ようともしてないということでしょう。全くそれは、思い描かれている自分とかけ離れているのですからね!
現実には、見据えるもなにも、そのありのままの自分を受け入れなければ、何も始まってこないのです!
何故ならば、現前にある自分というのは、そう在らしめているもの、自分の思いを超えて現前するもの、そのものと一つのものだからです。これは勿論、現臨と言ってもいいのですが...
西田哲学では、“見るものと見られるものは一つ“、と言ったりしますが、思い描いたものでなく、現存するものというのは、全く直に現前するものを置いてはあり得ないでしょう。
リアルに直接的に伝わって来るものというのは、上とか下とか、外とか中でなく、現前するもの、という他ありません!...
これは、そのように伝わるものを言葉を借りて描写しようとすると、そういう風にしか言えない、ということなのですが...
“見なさい!“と、声なき声に促される...現前を見るしかない!...そこに実存的光が差し込むから!
かく、現臨、現前、現存にないものは、何一つ見えてない、と言ってもいいでしょう。
そうでなければ、どこまでも思念に囚われ続けるしかないでしょう。現実に見えてない、何かの像を追いかけているしかありません。
捉え、追い、得ようとするのでなく、捉えられて初めて開かれる...思いが、自己実存が開かれる!
開くものご自体によらなければ、開かれようがないではないか!
何故、見えてもいない、蜃気楼のように遠い先に映し出されているものを見て、追いかけようとするのか?!
真っ先に合わなければならないものは、すぐ目の前に、真ん前に開かれてあるではないか?!...
そうして自分をずっと前に置いて追求している訳ですが、これは本当には、前に見えてる訳ゃなく、ただそうあるべき自分を思い描いているだけでしょう。
言い換えれば、現前にある自分は見据えられていないということ...いや、見ようともしてないということでしょう。全くそれは、思い描かれている自分とかけ離れているのですからね!
現実には、見据えるもなにも、そのありのままの自分を受け入れなければ、何も始まってこないのです!
何故ならば、現前にある自分というのは、そう在らしめているもの、自分の思いを超えて現前するもの、そのものと一つのものだからです。これは勿論、現臨と言ってもいいのですが...
西田哲学では、“見るものと見られるものは一つ“、と言ったりしますが、思い描いたものでなく、現存するものというのは、全く直に現前するものを置いてはあり得ないでしょう。
リアルに直接的に伝わって来るものというのは、上とか下とか、外とか中でなく、現前するもの、という他ありません!...
これは、そのように伝わるものを言葉を借りて描写しようとすると、そういう風にしか言えない、ということなのですが...
“見なさい!“と、声なき声に促される...現前を見るしかない!...そこに実存的光が差し込むから!
かく、現臨、現前、現存にないものは、何一つ見えてない、と言ってもいいでしょう。
そうでなければ、どこまでも思念に囚われ続けるしかないでしょう。現実に見えてない、何かの像を追いかけているしかありません。
捉え、追い、得ようとするのでなく、捉えられて初めて開かれる...思いが、自己実存が開かれる!
開くものご自体によらなければ、開かれようがないではないか!
何故、見えてもいない、蜃気楼のように遠い先に映し出されているものを見て、追いかけようとするのか?!
真っ先に合わなければならないものは、すぐ目の前に、真ん前に開かれてあるではないか?!...
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