昨日、フレンド会(クエーカー)の集会に行ってきました。
どうも、そこへ行くと、勉強会の時など私のテンションが上がって、つい熱くなって話したりしてしまうのですが、昨日は雨模様だし、しっとり穏やかに過ごせるのか、と思いきや...
やっぱり、雷が落ちたように語ってしまいました。
こういうのは、誰かの言葉に反応して出てきてしまうものなのですが、会話の成り行きで、ある人の言葉から一寸挑発を受けたように感じたのでした。
「"我は在りて在るものなり"という聖書の言葉をあなたはどう感じていますか?」と2か月前に初めてお会いしたAさん。
"あんだってえi "在りて在るもの"だとお..."という外にぶつけようという、内心の声は一先ずひっ込めて...
「神が原初に何を語ったか、など私には分かりません。私の事始めは、"私はここに在らしめられている、生かされて在る"ということだけが知り得るだけです...」と、私。
そっから、"ああだ、こうだ"と数人から、分かったような、"へ"理屈っぽい言葉が交わされました。
私はAさんから(それがどういう意図かは知らないが)、あることを問われたのです。それに対して私は"誠意をもって答えなければならない"という促しを受けて、言葉にし得る限りでお答えしたのです。
どうも、私はそこで日頃感じていることを、周りに向けて"分かったようなこと言うなi"、とぶつけてしまったようです。
そして、私はその場を離れる際、心にも無く「ちと、反省してます...」などと、しおらしいことを言って、今度は帰り道、そのAさんと"お茶でも飲んで語り合いましょう"ということになり、闘志満々"今度こそ、ギャフンと言わしたるi"とばかりに、喫茶店の席に着き、こう言い放ちました...。
「さっきはあなたからあのような問いかけを受けて、私はとても感謝してます。ありがとう...」
そうです。その時のAさんとの対話はとても平安のうちに導かれたのですi
そしてそれは、あの"実存的問いかけと応答"の余韻を受けてのものなのでした。勿論、私のテンションは穏やかなもので、それが私の本来の調子なのです。(あんな調子でやってたら、脳溢血で倒れちゃうでしょう)
何か思いを超えて、向き合う我々との間に意識が自ずと収斂されて行く...意識の中心のようなものが生まれ、そこから言葉が紡ぎ出されて行く...そう、それは、あの現臨のうちに導かれるような対話だったのです。
こういう経験は、クエーカーとの関わりの中ではほとんどありませんでした。そして、私は数年前に一旦は、(私の煮立つような思いから)そこに見切りをつけたつもりだった、クエーカーの集会に何で又通わされているか、ということも分かりました。
この時のAさんとの交流が、そのままクエーカーの全体の集会において、展開されるか、どうかは別問題です。分かりません。
風の吹くままのような私の性向も、先でどうなるかは分かりません。
しかし、少なくとも私は、私の単独の在り方から、関係性という在り方へと、一歩踏み出し、そこに見えざる命の風が通る、ということを見い出したことは確かなことです。
それは、しかし、どこの何という集会、関係性には限定されないものでしょう。
あの現臨の風が通り、降りてくるところがそうなるのだろうから...。
どうも、そこへ行くと、勉強会の時など私のテンションが上がって、つい熱くなって話したりしてしまうのですが、昨日は雨模様だし、しっとり穏やかに過ごせるのか、と思いきや...
やっぱり、雷が落ちたように語ってしまいました。
こういうのは、誰かの言葉に反応して出てきてしまうものなのですが、会話の成り行きで、ある人の言葉から一寸挑発を受けたように感じたのでした。
「"我は在りて在るものなり"という聖書の言葉をあなたはどう感じていますか?」と2か月前に初めてお会いしたAさん。
"あんだってえi "在りて在るもの"だとお..."という外にぶつけようという、内心の声は一先ずひっ込めて...
「神が原初に何を語ったか、など私には分かりません。私の事始めは、"私はここに在らしめられている、生かされて在る"ということだけが知り得るだけです...」と、私。
そっから、"ああだ、こうだ"と数人から、分かったような、"へ"理屈っぽい言葉が交わされました。
私はAさんから(それがどういう意図かは知らないが)、あることを問われたのです。それに対して私は"誠意をもって答えなければならない"という促しを受けて、言葉にし得る限りでお答えしたのです。
どうも、私はそこで日頃感じていることを、周りに向けて"分かったようなこと言うなi"、とぶつけてしまったようです。
そして、私はその場を離れる際、心にも無く「ちと、反省してます...」などと、しおらしいことを言って、今度は帰り道、そのAさんと"お茶でも飲んで語り合いましょう"ということになり、闘志満々"今度こそ、ギャフンと言わしたるi"とばかりに、喫茶店の席に着き、こう言い放ちました...。
「さっきはあなたからあのような問いかけを受けて、私はとても感謝してます。ありがとう...」
そうです。その時のAさんとの対話はとても平安のうちに導かれたのですi
そしてそれは、あの"実存的問いかけと応答"の余韻を受けてのものなのでした。勿論、私のテンションは穏やかなもので、それが私の本来の調子なのです。(あんな調子でやってたら、脳溢血で倒れちゃうでしょう)
何か思いを超えて、向き合う我々との間に意識が自ずと収斂されて行く...意識の中心のようなものが生まれ、そこから言葉が紡ぎ出されて行く...そう、それは、あの現臨のうちに導かれるような対話だったのです。
こういう経験は、クエーカーとの関わりの中ではほとんどありませんでした。そして、私は数年前に一旦は、(私の煮立つような思いから)そこに見切りをつけたつもりだった、クエーカーの集会に何で又通わされているか、ということも分かりました。
この時のAさんとの交流が、そのままクエーカーの全体の集会において、展開されるか、どうかは別問題です。分かりません。
風の吹くままのような私の性向も、先でどうなるかは分かりません。
しかし、少なくとも私は、私の単独の在り方から、関係性という在り方へと、一歩踏み出し、そこに見えざる命の風が通る、ということを見い出したことは確かなことです。
それは、しかし、どこの何という集会、関係性には限定されないものでしょう。
あの現臨の風が通り、降りてくるところがそうなるのだろうから...。
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