人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

気分良いこと、悪いこと

2016-05-04 13:00:41 | 雑感
言うまでも無いことですが、このブログで書かれている内容は一つのサンプルに過ぎません。
当然のことながら、例えば自分自身が幸福に感じたこと、真理(と感じたもの)に出会えたことなどを綴ったりしますが、何人にも当てはまるかどうかは知りません。
あまり馴染みの無い固有名詞も沢山出てくるかもしれませんが、ブログを開始した当初は”もっと一般向きの事書いた方がいいだろうか…”などと人の顔色を窺うという邪心?もありましたが、何時の頃か吹っ切れたように”自分自身のことを書けばいい”と調子こいて書いて、そうなってる次第なのです。
宗教、教師たちとの出会い、影響を受けてきたことなどについても触れてきていますが、そこには何とも宗教、スピ界を取り巻く問題も隣り合わせのように浮き彫りにされているのを感じます。
私はそうしたことについても、良きこと、悪しきこと共々書かずに居れないものを覚えます。
又、私はエラそうに批判がましいこともチクチク呟いてます。
でもなるべくは、批判のための批判はしないようにしてます。
これらは多く前述した精神世界を取り巻く問題と関連が有ります。
自分の中に内包されているこうした問題について、ここぞとばかりに浮き彫りにさせてくれる記事などが目に入ると、私の中のタチの悪い虫がもうジッとしていられなくなるらしいです。私の克服すべき欠点でしょう…。
それらは実はほとんど私が個人的に関わりのあった具体的な個人を念頭に置いていたりします。(個人的な恨みなど無いのに失礼な話ですが…きっと気分悪い思いをさせてしまっているだろう…)
そうでない人に直接そうしたことを呟くことはなるべくしないようにしています。(私の流儀では無い)
カリスマブロガーAさんとは個人的な面識はありません。ただ、そもそもこうしてブログを始めるきっかけになったのは、彼の存在を知ったからでもあり、著書は何冊も読ましてもらったし、啓発されることも多かった…ブログの方向性の定まらない(今でも定まってませんが)時には、彼のブログを参考にもしていました。これ又勝手な話ですが、そのよしみです(笑)
ただ、こういう形で呟いてばかりでは行儀が悪いと思って、向こうのコメント欄に書き込んだことも有りましたが、もう二度とそんな軽はずみなことしません。(シンパに取り囲まれそうで気分悪い!)

前述した問題点については、何度も吐露していることです。
その主たるものは権威主義がはびこることです。
教祖や教義についての安易な追従、迎合…これは通俗的オカルト思潮へのそれと密接なものです。一つのサンプルに過ぎないものの特別視、絶対視、原理主義の台頭…精神的共同体ならぬ、支配と依存、隷属のデキあいの集団…
こういう事に関わる当事者というのは気分が良くてやっているのでしょうか? それとも大きな力かなんかに飲まれて”仕方ないから”そうしているのでしょうか?…もし、それが私に向けられたら、もう吐き気を催す程気分悪いことです。
一方私が最高に気分が良い、つまり幸福に感じる事は、それらの対極にあります。
そこには自由というもの無くしてあり得ません。捉われからの解放と言ってもいいでしょう。それは又自我からの解放でもある…逆説的ですがそこから自己信頼が生まれます。
それはデキ合いの宗教、グループには見出され得ません。
何が本当の宗教であり、誰が真実のマスターであるかなど分かりません。
明言した途端に気分悪くなる事態を招くばかりでしょう。
気分の良いことも悪いことも、これまで宗教や精神的な道において隣り合わせのように内包していたことです。
私はそのどちらにも触れてきたのです。
それぞれの人が安易に妥協すること無く、気分良い道を歩んで欲しいと願うばかりです…。


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諸刃の剣

2016-05-03 15:05:59 | 求道、探究
全託、明け渡し…
私は何度も触れています。それは選択の余地の無い、そこに導かれた者にとって絶対的な意味を持った道である、と…
けれど、お気づきかも知れませんが、これは一歩間違うと全く個人の主体性を放棄した、あるいは自分の魂を別のものに渡してしまう、洗脳といったことと隣り合わせのものです。実に諸刃の剣という感じですね。
何処にその境目が有るかと言えば、間に人間が介在していて、その人間が信頼するに足る者か否か、という事になってくる訳です。
洗脳という場合にはそこに必ずと言っていいほど言葉というものが強力なツールとなっているものです。それに付帯して、怪しい目つきとか手つきとかいろいろなものがくっついてくるのです。
絶対的なんて言葉は軽はずみに言う事じゃないですが、あくまであなたや私自身にとってそうだ、と言っているのであって、誰かについて向けられたら、何時心を占領されるかわかったもんじゃないです。というか、それは自分から誰かを絶対視するのは奴隷願望の表れと観ていいでしょう…。
こうしたことでなくて、心霊的な事で先入観を持っている人がよく考えてるようなケースというのもあります。
以前に聞かれた事が有ります。”全託を促す、その現臨とか見えざる導師といったものが、低級霊みたいなものだったらどうするのか?”
私の場合、ごく普通の時、真夜中の墓場だとか病院などに居たら、そういった障りみたいなことについて考えない訳ではありません。
ただ、かのシェキナーというか臨在感に触れた時、そういう思い自体起きて来ません!
もし、そんな思いがあったら、そういう状況にはなりません!
だって、それは思いを超えたところから起きてくるんですから…当然でしょ!
中にはこんなことも…”その思いを超えるってのがアブナイことなんでは?”
そうね…そう思ってるからこそ、そういう思いが有るんだ(笑)
先ず、そのようにゴチャゴチャ、ザワザワとしたものに思いが捉われているうちは、全託何て事忘れるべきです。
少なくともザワザワした思いが消えるまでは、日常生活でお手上げになってた方がいい…
思った通りの、恐れた通りのことが起きたって誰も責任とっちゃくれませんよ。
低級だか高級だか知りませんが、どうだろうか、こうだろうか案じている、ということはきっとまだその時じゃないんでしょう…
精々、高級霊が懸ってくるまで修行に励むか、善霊、悪霊を見分けられるよう眼識?を持つことです。
何時になることやらサッパリ分かりませんが…(そのうち神の国が来るだろう)
その時が来ていない、という事は言い換えると覚悟が出来ていない、という事です。(ああでもない、こうでもないって、要するに余裕なんだ…)
より高い境地になってから、高級霊が何か分かってから…いやそういうことをズバリ言ってくれるどっかの覚者を求めてたりして…
だから…あなたはハマっちゃうんだってば…依存しちゃうんだってば…アブナイなあ…
実は私だって、あのものが神なのか、守護霊なのか、サタンなのか分かっちゃいないんです。
だけどね…仮にサタンであったとしても、全人生をささげても、地獄に落ちても本望なのです!(天国か地獄か…諸刃の剣みたいです。)
それが覚悟というものです! 他に道が無い、あらゆる相対、信じる、信じないを絶した、絶対的というのはそういう意味です。
これはどっから来るかと言ったら…自己信頼に尽きる!
又、あのものがそっちに導いてくれるのです。現臨に絶対的に従う事と、自分を絶対的に信じる事というのは二つ無いのです。
だから善霊だの悪霊だのって、問題など起きてくる訳無いのです。
先の人間を介しての明け渡しという事でも、その人間を通してその絶対的な道が開かれる場合もあり得ることです。
その場合でも全く同じです。その導師に対して(相対観を伴った先述の例とは違う意味で)絶対的信頼、帰依の心情も生まれるかも知れません。
でも、そこには自己信頼というものも必ずある筈でしょう…。
自己信頼こそが、まやかしだらけのスピの世界からも守ってくれる守護神でしょう…。



コメント (3)
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神の国が来た

2016-05-02 18:11:24 | 独語
神の国が来た…(想像してみよう)

全天全地に真理の太陽が輝いた…
あれほど喧しかった神、真理についての押しつけがましい教説もオシマイだろう…
OOの神を信じるなんていうのは、凡そバカらしいこと
空気、太陽にいつも浴していながら、”空気、太陽を信じます”と言っているようなもの
まして”この教えのみが正しい、この方法に依らなければ神につながることが出来ない”
なんてカルト思考ときたら…
彼らはいつまで自分たちの観念で作り上げた会堂に閉じこもり、彼らにしか通用しない神、真理を頑なに信じているんだろ…
エー…カルトの皆さん!外は空気はうまいし、真理の太陽は我々の中も外も照らし続けていますよ…
ほう…それでも未だ来ない神の国を待ち続けているんですか…永久に?
神につながることを目指してのあらゆる修行、瞑想に日夜励む求道者たち…
一体いつまでし続けるんだろ…
呼吸法、マントラ、一点集中…
公園で猫ちゃんと遊んでる方がいいや…
悟りには何段階ものレベルってのが有るらしい…
最終的には一者とやらと一つになるらしい…
そうでない人はもっと上を目差さなければならないらしい…
誰がどのレベルで、誰がホントに悟ったか、とか”まだです”とか…
エッ…誰が決めるんでしたっけ…神ですか?
内にも外にも光が照らしているだけ…何処へ行っても…
それはずっと沈黙している…
しかし、その前ではどんな喧しい教説も黙るしかない!
一体何を問題にしてるんだろ…
私が私であることに段階とか悟りの境地など一体何になるだろうか…
”私は居ない”とか”全てはストーリー”とか…
そう言えば…居た、居た…けど今はそんな事言ってる人は…”居ない!”
さして、面白くない、生きてるのか死んでるのかわからない”ストーリー”だった…
あっという間に過ぎ去ったのでよく覚えちゃいないが…
誰かが誰かに教えを垂れたり、誰かが誰かに従ったり…
私が私であるだけなのに…
皆、それぞれのサンプルを共有しているだけなのに…
何を比べる必要が有るんだろ…
それぞれの私がそれぞれの色合いで、みんなの命を共有してるだけなのに…
そうとも…あの太陽を共有しているんだ…




コメント (2)
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全託

2016-05-01 15:23:31 | 求道、探究
私はしばしば全託何て事言ったりしますが、ホントは軽々しく言えるようなものでは有りません。
”よし、これから全託しよう…”などと勘違いする人も居るかも知れませんが、やって出来る人など誰も居ないのです!
ですからそれは簡単なことだ、とか難しいこととかいった表現も当てはまりません。
宗教やスピ界では、これを実に安易に捉えている向きも多いですね。
この種の人たちは、何らかの教えとか修行システムに固執している人が多いものですが、よく考えてみてください。
そういう人たちが全てを手放すことに意識が向かうと思いますか?
精々、ある先生が全託の道を説いているから、それに倣って、それを信じて全託でもしましょうか…といった赴きなんじゃないですか?
観念的にはそういう事も考えるだろうけど、内心はちっともそっちへはいきません。
無上の教えなリ、修行の方が大事なんですからね…手放す気なんぞさらさら無いでしょう。
これはもう欺瞞以外のなにものでも無いです。冒涜です!
手放す気など無い人は、そういう事に赴くこと自体が間違ってます。
やらない方が身のタメです!周囲の人のタメです!…あ…やろうとしても出来ないんだった…
何て言ったらいいんだろ…と、とにかく忘れて下さい!
S会という神への全託から霊的修練に入ることを標榜している団体で、カリスマと観られていた人物が居ました。
自身も体験談をしていましたが、その修練を通じて何らかの覚醒を経験しているのは間違いないと思います。
ただ、私にはどうも何かがオカシク感じられて仕方が有りません。
”この人は何で又、うわ言のようにB師(S会の創始者のインドネシア人)に従いなさい…とかB師、S会を奉ることばかり言うんだろう…”
私にはどうにもその人がS会、B師にまつわる観念から自由じゃないんだ、と感じてならなかったのですが、自分自身がそうだったら別にどうでもいいのですが、周囲にそうした信仰?を流布し出すのです。
又、従順な周りの人たちを見えない何かでコントロールしようとしていたのも気になりました。
(この従わせたり、従ってしまったりする構図にはホントに嫌悪感を覚えます!)
この会は宗教では無い、所謂指導者的存在も居ないというフレコミだったハズなのですが、こうした例に限らず狂信者のように見える人、やたら指導したがる人も結構見受けられました。
そこでは全託という言葉はしばしば聞かれましたが、さあ、果たしてその内実はどこまで浸透していたかは全く定かではありません。
”パーッと修練して、ビールでも飲むか…”という声も聞いた気がしました(笑)
”別にそんな全託などと御大層な事言わんでもいいだろ…”とも思いましたが、霊的な道(修練では人智を超えたある力を受ける)を甘く見ているようにも感じました。そしてある固執された観念を霊的修練に持ちこむ傾向もあったのではないかと拝察されます。
だから中途半端な全託というのは危険なのです。関わらないほうがマシです!
偏った、クサイ人間になるだけです。
このように言うと、欲望やマインド、とくに固執した観念を捨てなければならないのか?…と、これまた出来そうにないことを考える向きも有るかも知れませんが、それらが実際に捨て去られる、無くなるかどうかは知りません。
ただ、かの上よりの力が臨んだ時、(実にこの瞬間のことを言っているんです!)手放させようとするハタラキに手放す気が有るのか、無いのか…そこんとこだけでしょう…
これは本当に生きた現実に関わることなので”こういうものだ!”と決めつけたことは言えないので、そういう事しか言えません。
ハッキリ言いたいのは、全託の道は、いつまでも特定の教えとかメソッドに御執心の御仁が踏み込む道じゃない、ということです。
どうしても、こうしても踏み込んじゃう人には、あなたの見えない導師が上手くやってくれることを祈るばかりです…。


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