メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

ピエール瀧@ファミリーヒストリー

2016-02-15 16:16:58 | テレビ・動画配信
朝ドラ「とと姉ちゃん」に出演決定

キャスト:相楽樹、杉咲花、西島秀俊、木村多江、向井理、川栄李奈、坂口健太郎 など
平岩紙ちゃんも出る! てか、「あさが来る」終わってほしくないなぁ。毎回、代わる時はそう思う。


『あまちゃん』もよかったねえ 現在48歳て哲さんと同年代!/驚

自らのルーツについてはほとんど知らない。



ピエール瀧の故郷は静岡
 

 

画家の祖父・秀治は、父・正臣さんが10歳の時に亡くなった。
秀治の実家は地元で有名な呉服屋。秀治は6男。
2階建ての倉が去年まで残っていた。

 


秀治は、実家を出て、東京の日本工科(絵画の基礎を教えていた)に入った
九州・熊本市へ。各地から画家の卵が集まっていた。
手取本町に住んでいて、近所には有名な画家石村珪堂さんがいた。その娘さん圭子を訪ねると、記念写真に一緒に写っていた。
当時、秀治ら画家の卵は、堅山南風のもとで学び画家を目指していた。

 


26歳で熊本の女性と結婚
 

絵画展に足を運んだ秀治は、博覧会を手伝っていた母・夕子(たね)と出会った。
夕子は粋で活発だった。タネの父は「売れない画家は飯が食えない」と猛反対、2人は駆け落ちして熊本で新生活を送る。

父・正臣さん誕生。
 

秀治の絵はなかなか売れない。古美術商人さんいわく、熊本には何十人の日本画家がいて最後まで絵を続けた人は一握り。
本山町に住んでいた場所にある古い寺を訪ねる。そこの天井画を任された。

 

当時の絵が残していた人がいた。祖母が気に入ってとっておいたそう。
「家族を養うため、あちこち訪ねて、絵を描いてなにがしか頂く感じだったのでは」(古美術商

ピ「なるほど。やっぱり駆け落ちだったんですね。有名じゃないのに、気に入ってくれる人がいるのは嬉しい」


10年後、静岡に戻る。


今は理髪店になっている加藤さんの祖父が、「2階が空いてるから住め」と秀治一家の面倒をみていた。
加藤「島田中の名士も来るため、交流もあったのでは」


昭和14年、静岡市へ。
娘さん宅にも当時売れなかった2枚絵がある。


昭和16年、太平洋戦争がはじまる。
絵の注文は減り、酒で紛らわせるようになる秀治。
秀治の腕を知る人が
「息子が出征するので、布に虎の絵を描いてもらえないか」と頼みにきた。
当時、「千人針」(布に1針ずつ縫い、腹巻にすると弾避けになると信じられていた)に虎の絵を描くことが多かった。

 

静岡平和資料センター

 

「虎は千里の道を走り 千里の道を帰る」という言い伝えがある。
当時は「ご無事にお帰りを」などというと「非国民」と言われた時代のため、虎に託した。
秀治も虎の絵を描き続けた。そんな父の姿を正臣さんも覚えているそう。

父「出征する人は、命を賭けて行くわけですから、手を抜いちゃいけないという気持ちだったのでは」



虎の絵を依頼した松野さんは、その虎の絵の千人針を巻いて戦地に赴いた

「俺の宝物だ。これを巻いていたから命が助かった」と言っていた。
しかし旧満州で終戦を向かえ、混乱の中で千人針を持ち帰ることは出来なかった。


昭和20年 静岡大空襲
 
約2000人が犠牲になった

当時8歳の正臣さんは空襲を呆然と見ていた。


「不気味なぐらいバカンバカン音がしてね。風がガソリン臭いような、焼夷弾の臭い」

その模様を正臣さんも絵に描いていた。防空壕を抜け出して見た悲惨な光景。
 




昭和20年 終戦
秀治は結核になり、妻と5人の子どもを残して死去。享年49歳。昭和23年。
ピ「俺もうすぐ49だ」

当時11歳だった正臣さん。

「棺を釜へ入れる時、その前に“親戚の方”て火葬場の方が言った時、年寄りらに“おい、あんただよ”て指差されてね。
 マッチを擦って棺おけに火をつける儀式を私がやったんですよ、11歳の。
 涙も出なかったんだけど、おじぎして。これをやるってことは、俺に任されたんだなってことで、
 それからあまり他のことでへなへなしなくなっちゃった」

中学を卒業後、正臣さんは就職。高校へ行く経済的余裕はなかった。
父の苦労を見て育ったため、安定したサラリーマンの道を選び、地元の印刷会社に就職。
同僚は真面目に働く姿を覚えている。「いつも帰りは遅かったですね」

 

25歳の時見合い話がくる。3枚の写真から1枚を選んだ。
「健康そうで、丈夫そうだなとw」


照子さん可愛いv

ピ:
なるほどw 両親の話になると急にこっ恥ずかしくなりますけどねw
いろんなことが起きてましたね。戦争がありましたもんね。虎の話も思い出しました。
で、うちの父がとにかく真面目に働くんですよ。親を反面教師で見てるっていうのがあるかもしれないですね。


*************母方・大隈家

実家は佐賀県の長女
 

よきちさんの胸にはたくさんの勲章

「とにかく厳しい方だったとしか聞いてない」


大正3年 陸軍に召集されたよきちさんは、第一次世界大戦に従軍
ドイツ軍と戦って武勲をたたえられた。

 

 

長男・光治さんは足が不自由で農業の手伝いが出来なかった。
照子「白いご飯を食べたことがない。麦はいいほう。大根などを入れて炊いてた。子ども心に惨めだなと思いました」


昭和29年 照子は高校進学を諦め看護師を目指し、2年後準看護師の資格をとり、結核療養所で働く。
幼い妹たちのために仕送りを続けた。

 


「姉は“自分のことは自分で考える”と言っていて、尊敬できる。根本は貧乏だったということ」

給料はなかなか上がらず、静岡に条件のよい職場をすすめられ、すぐ決めた。
19歳で静岡の精神科で働き始める。

先輩「よく慕われていた。真面目で、熱心、優しい」

5年目、「お見合いしてみない」と先輩に言われ、喫茶店での簡単な見合いだった。


正臣さんもハンサム

照子「(第一印象は)やせっぽでしたよ。52キロって聞いて、私のほうが重かったと思います」


昭和38年 結婚
 

昭和42年 正則(瀧さん)誕生
 
可愛い!


幼い頃の瀧さんは、高熱、気管支炎で体が弱かった。共働きの2人は必死に看病した。

瀧さんは健康を回復し、小学生になるとひょうきんさでクラスの人気にw
高校では野球部に入り、甲子園を目指す。残念ながら夢は叶わなかった。

 
ピ「こんな部分までやる番組でしたっけ?」w

 

父「その頃からワンテンポちょっと笑かしたりしてた」


高校卒業後、瀧さん上京
医療関係の専門学校に進むが中退、両親は子どもには好きな事をやらせたいと考えていた。
父「ある時、突然、ああいう音楽が聞こえるようになって」


平成3年メジャーデビュー


 

 
CD買ってるんだね~

両親には理解できる音楽ではなかった。
「電気ビリビリなんてね、こっちが聴いててビリビリしちゃう」
母「少しは自分なりに理解しようと思いましたけど、理解の限界を超えるわと思って、それからはもう努力しないです」ww
ピ「ま、そうだろうね」


平成22年 大河ドラマ「龍馬伝」に出る

父「大河ドラマに出るなんて夢にも思わないので」



Q:瀧さんの魅力は?
味わいのあるおじさんが役者界にあんまりいないんですよね。
みなさん二枚目から入るじゃないですか。カッコイイってところから、いろいろ進化していくと思うんですけど、
ピエールさんは二枚目じゃないとは言わないですけど、味わいのあるおじさん顔の感じでいうと
本人の持っている風情が昭和感がある、昔の役者さんみたいなニオイがあるんですよね。

母:
今でも心配です。今のサラリーマンでもいつクビきられるか分からない時代ですけど、
ああいう世界はなおさら分からないものだから、今でも“あんた仕事あるよね”て聞くもんだから
“心配しなくていいんだよ”て言うんだけど、やっぱり今でも心配します。

ピ:
やっぱり戦争がなかったら、どうなったんだろうなとは思いますよね。
それを見ると、そういう世代にあたっちゃってますからね。

そうすると僕が生まれてない可能性がありますからねw

Q:ファミリーヒストリーを知って
僕は命のバトンていうんですけど、命のバトンをみんなが渡してきたから
ずっと途切れずにきているから、僕がいるわけじゃないですか
僕は娘がいるんですけども、バトンの可能性は渡していかなければと思います。

(前回の竹中直人さんと同じこと言ってるね

照子さんは同じ病院に40年間勤務して、看護師長になった。



「60歳の誕生日プレゼントに、お疲れさまってことで(瀧さんから)もらいました。
 “俺が買っても分からないから一緒に買いに行こう”て連れてってくれて(優しい!
 成長している子どもを実感しました。私にとっては大事な宝です。

(親にとっては子どもは、いつまでも子どものままなんだなぁ

父も60歳定年まで勤務した。
 
絵を描いていると亡き父のことをふと思い浮かぶという。

父:
父親は父親で短い時間を駆け巡った人だからね、父親と多くを語った時間が少ない反面、
描いているのを見ている時間が長いから、余計そうかもしれない。



今回の取材で秀治さんの絵が新たに見つかった。

望月「父が戦争行く時に絵を描いていただいて」

 

望月敏夫さんは、終戦後、復員し、千人針を持ち帰ることができた。
その後、額に飾り、亡くなるまでよく眺めていたという。



息子さん:
“俺はこれを戦地に持って行って、大事にしていたんだ”と言っていた記憶があります。
父にとっては大事なお守りだったと思う。

正臣さんは、ぜひ観たいと訪ねた。


正臣「完成品を観たのは生まれて初めてです。死ぬ前に本物を観れて感激してます。ありがとうございます」


ピ「いい虎の絵でしたね」


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topics~台湾地震被災者に東日本大震災被災者が募金 など

2016-02-15 16:15:58 | テレビ・動画配信
最近の気になるトピックス。

台湾地震
東日本大震災の際、台湾はいち早く募金、支援をしてくれた。
その支援は、給水車、学校の給食運搬車、病院再建費用にあてられた。

 

 

 

その恩返しとして、南三陸では自発的に募金活動が行われている。


ケーキ屋さんの主人

「台湾の皆さんからの支援物資によって、一人ではないと思えたことが心の支えになった」


北朝鮮 ミサイル発射@週刊ニュース深読み

「長距離弾道ミサイル」と「人工衛星」の仕組みは同じ
 

先端に人工衛星がついているか、爆弾がついているかの違い。
今回、軌道に乗ったという衛星からは何も信号がないことから、核ミサイルを作って、飛ばす実験と考えられる。

飛距離が12000kmに延び、DC、NYに届く距離


拉致被害者の調査が中止
ある程度の予測はされていたが、これからの交渉に注目される。

頼みは中国だが、慎重な姿勢
北朝鮮が韓国との緩衝地帯のため、北朝鮮が崩壊すると、2国間の緊張が高まることを懸念している。


“電力波”を初めて観測
今回、2つのブラックホールが13億年前に衝突した時の波をとらえた。
“電力波”とは、モノが落ちると空間に揺れが生じること(だっけ?

 

 

 

 

ノーベル賞の梶田さんも「かぐらトンネル」で研究していた。


 

 


映画『イエローストーン』
 




クドカン脚本ドラマ『ゆとりですがなにか』4月~





「lyrics」もアップしました。

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丹沢登山(1995.5.3-4)

2016-02-15 16:14:58 | 町歩き
「おでかけスポットリスト」カテゴリーの「小さな旅」に追加しました。


【5.3】
(1日は派遣先の最終日だったことが書いてある

帰りに慌ててヨーカドーでトレッキングシューズ「HAWKINS」5000円弱と、
ポケットカッパやら買って、ギリギリ銀行でお金をおろした。
親に一応のスケジュールの電話して、思いっきり同情されちゃった(なぜ同情?

3日は5時起床で「あさ天5時」で天気をチェック。
双子座の運勢は[好きなスポーツをとことん楽しめる。健康運良し」とのこと。当たってるv

晴れ女の知人さんのおかげで快晴 暑かった。
コンビニで食料を買い込んで、500mlのウーロン茶2本+おにぎり4個+パン2個+チョコレートを買った。

池袋へはジャスト。
新宿から小田急急行で1.5H。
渋沢まで1本。そこからバスで「大倉入口」まで、いっぱいの人。
4日のほうが多かったけど。写真見れば思い出すかな。






登って、下りて、登って、下りて、小屋があって、当初の予定のみやま山荘が満杯で、
途中「駒だめ」というところで、酔っ払ったオヤジに山まできてセクハララッシュだもの!
なんか今回は女3人だったせいか、こういう下ネタ星人(友だち命名)がやたら多かった

そのオヤジがオススメの小屋が「書策(かいさく)小屋」てゆって、どーりで!
期待はしてなかったけど、ここまでとは

予定の新日大茶屋は閉まっていて、女性経営者のバンガロー一泊食事付き5000円のところや、
頂上の可愛いバンガローとかあったんだけど。。。

知人さんと汗ビッショリかいて、小屋に入った途端、青シャツの下ネタ星人(ここの主人?)が話しかけてきて、
渋谷さんは、昭和元年、10歳の時から丹沢に登って、ずっと住んでいて、
白竜の滝?の命名者で、種まき運動の環境保護者でもあるのに、

突然木彫りのネズミとか持ってきて、いまだに意味が分かんないけど、下ネタ系だったみたいで
からかわれて、ムッとしたから「ダメだ、下ネタ星人だ」てゆってしまった。

布団も昭和元年から干してないんじゃないかな。
トイレはもっとおぞましい。江戸時代からじゃないかっていう“ぼっとん式”。

知人さんと歯磨きも貴重なお茶で口をゆすいだ。
水がないんだもの。顔も洗うどころじゃない。名水の地なのに。
ジュースは1本300円

18時から布団を敷いて寝ようって言われてもムリ

花札のようなまんまる満月で、明るい夜空。静かな函館風の夜景で、
お喋り好きで、山好きな会計士さんの話と、もう1人は渋い中年さんで冗談を言って、
20時頃まで1時間弱話した。

会計士さんの紀行文が山雑誌に載って、インターネットに山のコーナーもあるそう。
パソコンソフト“ともこさんの情報”の話やら、♪サウンド・オブ・ミュージック の歌声なら
山で許せるとか話してたのは楽しかった!

それからの夜が長いこと、長いこと。
それほど寒くない外のベンチで夜を明かそうかって言ったほど。


ずーーーーっと湿った布団の中で固まって我慢してても、
まだ0:30とかで、信じらんないと言いつつも記憶なく寝てた

渋谷さんが夜中にハアハアいって、入り口を開けてすぐのところに立ちションしてたのにはほんと参った!

(なぜか、小屋の壁には、たくさんの雑誌やらに紹介されてる記事が貼られてたんだよね。
 今の山ガールの時代と違って、もともと山男の世界だから、山小屋といえば、こういうほうが多いのかもだけど、
 メモにもある通り、人気スポットなだけに、女性経営者の山小屋は清潔で、サービスも充実してる。
 その代わり、何ヶ月も前から予約しないと、とくにGWなんかはすぐ満員になっちゃうんだよね


【5.4】
朝、戸を開けて、知人さんが「わあ、朝日が真っ赤でキレイ!」と言った瞬間、
みんな一斉に90度起き上がって外を見た。
右に子鹿がいるって言った時も、みんなで右を見た。お尻の白いところが可愛い

5時に荷物をまとめて、もう出発。
頭ボヤボヤのうちに崖っぷち、鎖場、蟻の門渡りみたいな所を渡ってスゴイよね。
「恐怖心を抱く前に登っちゃう」が鉄則。トレシューさまさまって感じ。








途中、朝食、昼食を食べて、三ノ塔、二ノ塔行って、ヤビツ峠まで下りてきた。

そっからが大問題。

昼にはバス停に着いているはずが、分かれ道を間違えて
1時間も川沿いの道路をキャンプ場を見下ろしながら歩いちゃって、気づいて戻ることに。

やっと戻ったら、今度はものすごい怪しいバス停までの近道が枯れた川沿いの道なき道。
半分やけくそになって、サブリーダーになった私が先頭になってひと山、ふた山登りきって、
ヤツビ峠茶屋でアイスを食べた。







13:30 バスは15:51までない・・・
タクシーを呼んで、30分後に来た。正解だったけど、すっかり車酔いしちゃった
他の2人は、蕎麦やお茶(秦野市名物は落花生)をお土産に買った。

私は帰りの電車で寝まくって、間違えて渋谷まで行ってしまい、戻った。
最寄駅に着いたのは17:30頃でコンビニで食べ物を買って、
写真をすぐに現像してもらおうと思っていたら、今日までお休み。

明日は絶対筋肉痛だよ。今から痛いもの。
今日は早く寝るぞ。


顔が陽にやけてヒリヒリする。頭のてっぺんもシャンプーがしみたし!?
一応パックして冷やしたけどダメだね、きっと。シミになるかも。

足は絆創膏でテーピングして、かつ靴下2枚重ねて、トレシューだったから、
ちょっと足の裏の皮が剥けただけで済んだけど、怖いのは筋肉痛。

とにかく、いろいろあったけど、山の散策は面白かった。


そうそう、皇太子御用達の整備された階段、かぶりもの木と保護色の鹿に会って、
いっしょに写真を撮ったら、角で頭突きされた(これ痛かったあ 野生を侮っちゃいけないね






無事に帰ってこれて良かった。宿は3000円。

新聞の切り抜きが貼ってあって、
「空腹の登山者に豚汁をふるまって、笑顔のかわいいおじいさんは人気者だ」てずいぶんと作った話だ。
新聞の紹介コーナーも信じられなくなっちゃった。ウソばっか!

わんちゃん(ペーター)がいっぱい山に来てて、自由自在に登ったり下りたりする姿に尊敬の念しきり!
四つ足のパワーはやっぱり全然違うんだなあ!




山男の父の影響で、小さい頃から山登りは好きだけど、この山小屋がトラウマになって、これ以降、ほとんど行ってない。
あれ? 鶴岡八幡宮の裏側あたりをトレッキングしたのは、この後だったっけ?
台風の後で、山道は水が川みたいに流れてたし、樹が倒れて道をふさいでいたりで
まるで被害調査に入ったみたいだったっけ


試しに「丹沢 書策」で調べたら、2015年時点で小屋はもうないことが分かった/驚


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