東北の旅、元日は宮古市を訪れました。
震災では8.5mの大津波に襲われ、沿岸部を中心に壊滅的と形容されるほどの被害が出ましたが、4月11日には宮古市魚菜市場の営業を再開、7月16日には観光遊覧船が復活。観光客誘致にがんばっている街です。
山田線・三陸鉄道宮古駅。山田線釜石方面の復旧の目処は立ちませんが、盛岡方面と三陸鉄道の小本までは列車が走っています。
駅前は出迎えの人、見送りの人で賑やか。乗り入れるバスも地方の街としては多く、活気のある街に感じられました。
遊覧船乗り場まではバスで15分。車窓には、あの日テレビの中継で何度も見た風景が、現実の世界として広がります。
浄土ヶ浜ターミナルに着くと、
「遊覧船にお乗りですか?」
と係員の方が出迎えに来られました。ターミナルが地震の被害を受けており、船乗り場までの歩道も崩落して通行止めのため、案内のために出て来られているのだとか。
乗り場まで5分弱の道のり、いろいろと会話を交わしましたが、宮古の復興のためにも、多くの人に観光に訪れてもらいたいとの話が印象に残りました。
乗り場に着く頃には既に出航時刻を過ぎていましたが、バスからの乗り継ぎ客のために出航を待っていたようです。案内の方が船に向かって
「福岡からのお客様です!」
と伝えられ、ちょっと照れくさかったです。
すぐさま出航。美しい浄土ヶ浜の風景が広がります。
今日は波が荒く、船に弱い人は苦しそう。しかしこんな天気だからこそ、海面に岩場が没する、荒々しくも美しい風景に出会えます。
珍しい「ロウソク岩」。
岩場の隙間に波が流れ込み、 霧状に海水が吹き上げる「潮吹穴」も、荒い波のお陰ですごい勢い。
しかしこの航路の名物は、何といっても船に群れるウミネコの大群。船内で100円で売られている「ウミネコパン」の餌付けを、多くの人が楽しんでいました。7月の運航再開を誰よりも待っていたのは、ウミネコたちかも。
津波の脅威は遊覧船からも垣間見られ、破壊された防波堤の数は1つや2つではありませんでした。一方で自然景観は、津波で浸水した場所まで松が枯れている程度で、ほとんどその姿を変えていないのだそうです。
ガイドさんの案内は自然景観に留まらず、津波被害の状況から教訓までに渡り、被害の跡が残る今だからこそ伝わる内容も多かったように思います。
この船自身も、津波の襲来に備え、船長が沖に船を出して命がけで守ったものです。海が落ち着き陸に戻るまでの間、船長は船内に唯一あった食糧を食べながら、命をつないだと言います。その食べ物とはもちろん…そうウミネコパン!なんてエピソードも聞くことが出来ました。
40分の航海は、あっという間。今、乗ってよかったと思った航路でした。
震災では8.5mの大津波に襲われ、沿岸部を中心に壊滅的と形容されるほどの被害が出ましたが、4月11日には宮古市魚菜市場の営業を再開、7月16日には観光遊覧船が復活。観光客誘致にがんばっている街です。
山田線・三陸鉄道宮古駅。山田線釜石方面の復旧の目処は立ちませんが、盛岡方面と三陸鉄道の小本までは列車が走っています。
駅前は出迎えの人、見送りの人で賑やか。乗り入れるバスも地方の街としては多く、活気のある街に感じられました。
遊覧船乗り場まではバスで15分。車窓には、あの日テレビの中継で何度も見た風景が、現実の世界として広がります。
浄土ヶ浜ターミナルに着くと、
「遊覧船にお乗りですか?」
と係員の方が出迎えに来られました。ターミナルが地震の被害を受けており、船乗り場までの歩道も崩落して通行止めのため、案内のために出て来られているのだとか。
乗り場まで5分弱の道のり、いろいろと会話を交わしましたが、宮古の復興のためにも、多くの人に観光に訪れてもらいたいとの話が印象に残りました。
乗り場に着く頃には既に出航時刻を過ぎていましたが、バスからの乗り継ぎ客のために出航を待っていたようです。案内の方が船に向かって
「福岡からのお客様です!」
と伝えられ、ちょっと照れくさかったです。
すぐさま出航。美しい浄土ヶ浜の風景が広がります。
今日は波が荒く、船に弱い人は苦しそう。しかしこんな天気だからこそ、海面に岩場が没する、荒々しくも美しい風景に出会えます。
珍しい「ロウソク岩」。
岩場の隙間に波が流れ込み、 霧状に海水が吹き上げる「潮吹穴」も、荒い波のお陰ですごい勢い。
しかしこの航路の名物は、何といっても船に群れるウミネコの大群。船内で100円で売られている「ウミネコパン」の餌付けを、多くの人が楽しんでいました。7月の運航再開を誰よりも待っていたのは、ウミネコたちかも。
津波の脅威は遊覧船からも垣間見られ、破壊された防波堤の数は1つや2つではありませんでした。一方で自然景観は、津波で浸水した場所まで松が枯れている程度で、ほとんどその姿を変えていないのだそうです。
ガイドさんの案内は自然景観に留まらず、津波被害の状況から教訓までに渡り、被害の跡が残る今だからこそ伝わる内容も多かったように思います。
この船自身も、津波の襲来に備え、船長が沖に船を出して命がけで守ったものです。海が落ち着き陸に戻るまでの間、船長は船内に唯一あった食糧を食べながら、命をつないだと言います。その食べ物とはもちろん…そうウミネコパン!なんてエピソードも聞くことが出来ました。
40分の航海は、あっという間。今、乗ってよかったと思った航路でした。