近年のアメリカの社会科学の分野では、Other (他人)という名詞が動詞として使われるようになってきている。
これは、"Othering"という概念で、差別、偏見、ステレオタイプにおける理論に使われる(Otherはここでは便宜的に「他人化する」と訳しておく)。
差別と偏見のメカニズムにおいて、In-Group/Out-group Dynamism という理論があって、これは、「人間は自分が属しているグループ内の人達を、強い個性を持った一人一人と見るのに対し、自分達のグループの外にいる人はみんな同じに見える」という人間の認知の傾向について言っている。
学生時代、たとえば、中学や高校で、一つのクラス内はいろいろなグループに分かれる。自分が属していたグループのことを今でも鮮明に記憶している人も多いと思う。
ちょっと思い浮かべて頂きたい。あなたはどこにいただろう。あなたのグループにはいろいろな個性を持った人がいたと思う。個性派ぞろいで楽しい学校生活だったかもしれない。さて、他のグループっていくつかあったと思う。どうだろう、なんかどちらかというとみんな同じように見えなかっただろうか。
たとえば、バスケ部で固まっているグループがあったとする。彼らは、自分達のグループはみんな個性的だと認識し、お互いを「個人」としてみるけれど、自分達の所属していない、鉄道部とか写真部の人達の作ってるグループ(つまりバスケ部の立場からすると外のグループ)の人達が、みんな同じに見えたりする。「秋葉系」として、ほとんど無意識に一括りにしがちである。
これがIn-Group/Out-Group Dynamismの一つの例だ。実際には、鉄道研究部や写真部の人達だって彼らと同じくらい、もしくはそれ以上、一人一人個性的なはずなのだけれど、その個性は、一つの、大雑把な、「秋葉系」というカテゴリーで終わってしまう。このような、一般化の仕過ぎを「ステレオタイプ」というのだけれど、こういうことはどこででも起こり得るものだ。
人間の脳は、あらゆるものを分類・一般化して整理しておいて、その分類を、日常生活で出会うあらゆる情報のすばやい処理に使うのだけれど、ステレオタイプは、一般化が行き過ぎた形だと言われている。
このIn-Group/Out-Group Dynamismの最大の問題点は何かというと、この認知の過程で、人間はどこかへ所属していたいという本能があるのだけれど、その自分が所属するグループがよいものと信じたいので、そのために、他のグループを自分達より劣るものとしてみる傾向だ。
In-Groupのメンバーは、自分と何か同じ性質を共有している仲間としているのに対し、外のグループは、取るに足らない群集と見なしがちだ。これがOtheringの過程である。
他人化された人は、みんな同じに見える。個性が見られない。これをステレオタイプ呼ぶ。言うまでもないことだけど、このステレオタイプはたいていネガティブなもので、偏見へとつながってゆく。精神障害をもったひとを、「メンヘラ-」と一括りにする人が多いのもこの良い例だ。
この理論はもともと、アメリカの白人とそれ以外の民族や人種においてのものだった。アメリカ白人は、自分達のお互いの違いにはものすごく自覚があり、お互いの「個人」の「個性」をみとめて生活しているのだけれど、黒人とか、アジア人とか、ヒスパニックといったグループに属する人がみんな同じに見えてしまったりする。韓国人と日本人と中国人とタイ人は我々日本人から見れば全然違うけれど、彼らからはその違いが分かりにくく、「アジア人」でひとくくりになる。
逆に、日本にアメリカ人やイラン人や中国人がいたら、我々はとりあえず「外国人」と一括りにしたりする。それで、「アメリカ人はこうだ、イラン人はこうだ、中国人はこう」といった具合に、典型的な行動パターンや容姿で単純化してしまう。「日本人」というIn-Groupの外にいるOut-Groupの人達は皆同じようにみえる。
さて、話が大きくなってきたけれど、こういうことって私たちの日常生活でかなりよくあると思う。たとえば会社でも、仲のいい人達のグループってあるけれど、その外部の人がやたらと共通点の多い似たり寄ったりの人に見えたりする。ここに、他人化が起こっている。どうでもいい人。関係ない人。個性のない人。つまらない人。知らない人。
でも、このIn-Group/Out-Group Dynamismの構造の中で暮らしていたら、グループを出たところでの、深い人間関係や、新しい発見のチャンスを逃し続けることになる。自分のグループの外にいる人はみんな同じに見えるけど、「それは認知の問題だ」と自覚して、グループを超えた人との交流をしてみると、面白いことあるかもしれない。
マザーテレサが言っていたように、人間一人対一人の関係はとても大切だ。
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