同調(Conformity)とは、その個人が、集団や他者の持つ基準や価値観や期待などに沿って行動することで、 これは、職場、学校、家庭内をはじめとする、ありとあらゆる社会集団の中で見られる現象である。
ここで大切なのは、個人は、自分のものと対立する、集団内の他の人達の見解を受け入れるということで、 「集団圧力」の無いところでその人が同じ刺激に対して同じ判断、行動を取ることとは区別する必要がある。
例えば、日本では電車内で、携帯電話を使うこと(通話)は、四方八方からの集団圧力によって著しく制限されるもので、それはたとえ、個人がそこで携帯を使いたくても我慢せざるを得ない、目に見えない強固な圧力がそこに存在するわけだけれど、逆に、終電間際で、
周りにほとんど人のいない状況だと、その人は、大した迷いもなく携帯を使えたりする。
もし、ある人が、終電間際のがらがらに空いた車内では問題なく携帯電話を使えるのに、通常の時間帯は使いたくても使う気になれなかったとしたら、この人は、集団の価値観に沿って行動したわけで、これは「同調」と考えられる。
まさに、状況の力によって、個人の行動に影響がもたらされるわけだ。
同調に関する研究では、Asch(アッシュ)の実験が有名で、多少異なるけど、以下のような感じ。
それは、7人1組の集団において、「視覚実験」という名目で、3つの比較線分、例えば、
1)―――――
2)――――
3)――――――
の中から、標準線分 0)――――――
と同じ長さの線分を選ぶという課題を与えるもので、 このテストは、間違いの非常に少ない、分かりやすいものなのだけれど、実際は7人中6人がサクラで、6人が意図的に誤答を繰り返すと、全体として40%近い被験者の誤答が発生したという。
ちなみに、ニュートラルな状況での誤答率は、0.7%と、非常に易しい問題だったという。
(ちょっと分かりにくい説明ですね。この記事の例だと、 上の線分1~3の中で、0と同じ長さの線はどれかと問われて、正解は(3)と非常に簡単なのだけれど、 7人のグループで、6人のサクラが(1)と答えたのに影響されて、被験者も(1)と答えてしまう強い傾向がこの実験から確認された、ということです)
これは、集団の中の少数派が、多数派の集団圧力に屈した反応と考えられ、この実験を機に、同調に関する様々な研究が行われるようになった。
同調を誘発する集団の特徴として、集団としてのまとまりが強いこと、つまり、集団としての目的があり、集団や、情報源に魅力があり、また、集団内一致とが高いことがある。逆に、集団内の多数派の全員一致度が崩れると、同調率も大幅に低下することが知られている。
また、課題の重要性、あいまいさや、困難度などが増すに従って、同調率も高くなる。例えば、重要な会議において、重要な決議をしている時に、多数派の意見が明らかだと、少数派は意見が出しにくく、周りに同調しやすくなる。
個人的な要因としては、その人の自己の確信や自信が低下すると、同調は促進されるし、大きな失敗経験のある者は、同調しやすいと言われている。
逆に、パートナーの存在や、自分に対する社会的支持がある場合、同調は大幅に減少することも知られている。
さらに、興味深いのは、集団における地位が真ん中ぐらいの人間が、一番同調しやすく、これは、彼らにとって、 同調することによって得られるものと、同調しないことによって失うものが一番大きいからだと言われている。
社会的な生き物である人間において、同調することはサバイバルにおいて必要不可欠である。慣れない環境、例えば、新しい職場や、海外旅行などにおいて、 どう振舞っていいか分からないとき、まず、多くの人間のする適応手段は、周りを観察して周りの人間の振舞うように振舞うことである。
不確かな環境でうまくやっていくには、とりあえず、周りに同調するのが無難である。
言い換えると、人間は、様々な状況において、他者の言動や振る舞いから、様々な情報を得ている。 曖昧な状況下においては、とりわけ周りの人間からの情報は、そこでどう振舞うべきかの大きなヒントとなる。
例えば、競馬をやったことのない人間が、競馬場に行って、周りのほとんどが同じ馬に掛けていたら、とりあえず、自分も同じ馬にかけるのではないだろうか。全然違う馬にかけた時のリスクが大きいのは、容易に予想できるだろう。
また、人間は、元来、他者に受け入れられたい存在である。人は周りに同調することで受け入れられることや、逆に、自分の所属する集団で周りと同調しないことから来る居心地の悪さや、拒絶などは、多くの人が、経験的に知っていることだと思う。
混んでいる電車内で携帯で通話した時に、自分がどのような心境になるかを想像してみると、いかに社会が同調によって成り立っているかがわかると思う。
このように、同調することは、人間が生きていくなかで、常に強化されている。
職場における、悪い風習がなかなか変わらなかったり、コミュニティーが低迷を続けていたり、社会が変わらなかったりすることの理由の一つに、この「同調」があるけれど、会社やコミュニティーや社会が円滑であるためにも同調は必要不可欠なわけで、良くも悪くも、人間は同調の束縛の中で生きている。
同調することは、適応能力でもあるけれど、 集団が誤った方向に同調する例は数知れず存在し、同調における問題点も非常に多いので、少なくとも、 無自覚に同調するのと、人間に同調する傾向があることを自覚した上での同調との間には、大きな差があるように思う。
(参考文献:有斐閣 心理学辞典)
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私は以前、あるブログ運営サイトにおいてブログをやっていたものですが、同じ運営サイトのあるブロガーさんを確証バイアス的なものだと批判して、その批判の責任として自らにブログを閉鎖しました。
今、新しいブログを自分でサイトを持って始めようとしているのですが、確証バイアス的なブロガーを確証バイアス的に見てしまうという現象もあるのでしょうか?
たとえば、あそこのサイトは確証バイアス的だと思っている自分の中にすでに確証バイアスは認められるのでしょうか?
また、確証バイアス的なサイトに集う人たちの同調というのは、客観的な正しい情報が与えられてもサブタイプ化してしまうのでしょうか?
コメントありがとうございます。
このブログしばらくチェックしていませんでした、すみません。
「確証バイアス的なブロガーを確証バイアス的に見てしまうという現象」は、自然にありえるものだと思います。また、活字のみで、匿名性の強い、他者の全体像が掴みにくいサイバースペースという空間そのものが、どうしても確証バイアスを生じやすい性質を帯びているように思います。
さらに、そうした地盤のうえで、ブログを定期的にアップし続ける人たちというのは、往々にして、強い意見、意思、価値観、世界観を持っているもので、そういう性質の人たちが、一定の興味、関心のもとに集まった場合、同調の力も確証バイアスの威力もより強固なものになるかもしれません。
そこに、第三者がまっさらでそのコミュニティーの期待にそぐわない情報を提示したところで、それが曲解されることなく受け入れられることはまた困難かもしれませんね。
確証バイアスは、人間の進化の過程で備えられるようになったものと考えられていて、つまり、元来は適応的で、「ある程度は」あったほうが我々のサバイバルに都合がいいものであるので、私達人間の脳はもともと確証バイアス的に働らく傾向があります。その中で極力非バイアス的に客観的にものごとを見据えるには、まず感情的にその対象から距離を置くこと、全くニュートラルの立場にいる第三者の意見や視点を借りること、統計的、数値的に対象を分析すること、などがあります。
感情的に対象から距離を置くのは、簡単そうで難しいように思えますが、一番効果がありそうです。
ニュートラルにいる第三者の意見や視点を借りるというのは、いい考えだと思えます。
私は、理想主義者なので、バイアス的な傾向に拒否反応が出てしまいます。
そのせいで、社会でのサバイバルが難しいのですが…
とても参考になりました。
本当にありがとうございました。
また、のぞかせていただきます。