人は本質的に社会的存在であり、その社会的な環境においてうまく生きていくために、自分の能力、才能、実力、容姿、社会的ステイタス、経済状況などを、正確に評価しようとする傾向にあります。しかしひとは、何しろ社会的存在、そうした自分の立ち位置がどのあたりなのか、一人ではわかりません。たとえば、フィギュアスケートの上手な10歳のナナちゃんは、なぜ自分が上手であるのか知っているかというと、同じスケートのクラスの同年代のこの中で一番できるからです。でもナナちゃんは、自分が世界一でないことも良く知っています。浅田真央さんにあこがれてスケートを始めたわけで、自分にはできないことを、真央さんはやっています。さて、このように、人は自分と何かしら共通点のある他者と自分を比べて自分を評価するわけですが、これを最初に理論として提案したのは、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)というアメリカの心理学者です。これは今や古典的な理論ですが、現在でも有益なもので、またその基本は理解しやすく日常生活にも応用しやすいので、今回は、Takaさんから頂いた質問がきっかけで、書いてみることにしました。
さて、「何かしら共通点のある他者」と言いましたのは、自分の何らかの属性を他者と比べるときに、有効な比較対象が必要です。たとえば、ナナちゃんは、自分と同年代のフィギュアスケートの選手と自分を比べたり、浅田真央選手と比べたりしますが、たとえば、プロ野球のダルビッシュ選手の投球と自分のスケートのどちらが優れているかとか、同学年のサッカー選手とどちらがすごいか、などと比べるのはやや無理があります(脚注1)。やはり、自分と何か同じことをしている誰かと比べるほうがしっくりきます。
さて、ひとは自分を基準にして、他人と比べるわけですが、ナナちゃんの例にみられるように、人は2つの異なった比較を行います。ナナちゃんが、同年代の自分よりも劣る選手と自分を比べることを、下方社会的比較(Downward social comparison)といい、自分よりも優れている浅田選手と比べることを、上方社会的比較(Upward social comparison)といいます。ナナちゃんは、自分と同年代の子たちを比べることで、自分は人よりも優れているのだという優越感を感じ、また、浅田選手と比べて、一種の劣等感を感じ、もっとがんばろうと思います。ナナちゃんは優しくて健全な精神の持ち主なので、優越感を表に出すこともしないし、オリンピック選手と自分を比較して落ち込むこともありません。しかし、望ましいセルフイメージを保ちながら、向上心を持って練習していくために、ナナちゃんには両方の比較が必要なのです。
ところで、ひとは、自分の置かれた状況や精神状態によっても、比較の方向が異なることが知られています。何らかの状況下で、自尊心が脅かされるようなときには、ひとは自分よりも良くないところにいる人と比べて精神の安定を図ります。リストラの対象になりそうな人が、ホームレスの人と自分を比べて、「大丈夫だ。まだ貯金だってあるし、家賃もしばらくは払える。あの人と比べたら自分は恵まれている」、と言い聞かせて安心したりします。
逆に、安定した状況で、自己評価も高いひとは、より良くなりたいと思い、自分よりも良いところにいる人と自分を比較する傾向があります。恋人との関係が良好で、信頼関係が深まりながら1年が過ぎた人が、仲の良い友達で、最近婚約した人を見て、「いいな。私たちもがんばろう」、と前向きな気持ちになったりします。営業に携わるビジネスパーソンが、自分の成績がトップ3であり、向上心に燃えているときに見るのは自分より上にいる2人であり、自分よりも成績の良くない人とはあまり比べません。しかし、この人の成績が真ん中より少し下ぐらいになってしまったら、自分よりも下にいる人と比べて自尊心を守るかもしれません。
まとめますと、人は心が安定していてそれなりの充足感があるときに、自己向上(Self-improvement)の欲求が強く、上方社会的比較によって、自分のモデルとなる人を見つけて、その人のようになろうとします。逆に、心が不安定で、自尊心が傷ついている状況だと、自己高揚(Self-enhancement)の欲求が高まり、下方社会的比較をして、傷ついた自尊心の修復、改善を図ります。このように、人は多かれ少なかれ、人と自分を比較する存在なのですが、問題は、比較手段がこのどちらかに偏っている場合です(脚注1)。比較手段が下方比較に偏っている人は、下の人と比べて満足してしまい、向上心も湧かないし、人生の幅は広がりません。また、下方比較にばかり依存する人は、無意識的に避けている、低い自己評価に挑む機会もないため、成長することも難しいです。
逆に、自分に過度に厳しく、自己批判性の強いひとは、それが不適応である状況でも、常に上方比較をし、「自分はなんて駄目なんだろう」、と落ち込んだり、慢性的な鬱感情に悩まされたりします。つまり、大事なのは、そのバランスです。他人と自分をむやみに比較することはよくありませんが、もしあなたがひどく落ち込んでいることに気づいたら、自分が知らずのうちに上方比較をしていないか注意してみたり、ときには、自分よりも良くないところにいる人と比べてみるのも良いかもしれません。その人と自分の成功を願いながら。
(脚注1)もちろんここでナナちゃんは、自分はまだプロじゃないけど、ダルビッシュ選手はプロとして活躍している。すごい。かっこいい。私もがんばろう!と思うかもしれません。また、ダルビッシュと自分の社会的ステイタス、経済状況など、別の分野によって上方比較が起こることもありえます。
(脚注2)たとえば、自己愛の強い人は、自分が他者よりも優れていると思いたいため、下方比較が防衛機制として常習化し、この防衛機制としての下方比較が利かなくなり、上方比較が避けられなくなると、ものすごい怒りを経験したり(自己愛憤怒、Narcissistic rage)、ひどい落ち込みを経験します。自己愛性人格障害のひとたちが、常に他者を見下したり罵倒したりするのもこのためです。
ありがとうございます。私かここでしているようなことは、臨床心理学では一般にPsychoeducation(心理教育)と呼ばれるもので、その時々と、タイミングで、とても効果の高いものですが、プロセスが要であり、クライアントの気持ちと世界が最も大切である心理カウンセリングのセッションでは、このテクニックはかなり注意が必要なもので、気を付けてしています。リスクを恐れて敬遠する心理士も少なくありません。
恐怖を克服するもっとも効果的な方法は、その恐怖を経験することだといいますが、経験してみると、予期していたものとは全然違うものなんですよね。勇気をもって行動していくなかで少しずつ積み重なっていく自信は等身大の本当のもので、財産になるんですよね。
ご連絡、お待ちしていますね。いつでも気が向いたら連絡してください。気が向かなくても、ここでまた気軽にコメントしてくださいね。
これはすごい表現ですね。
僕もまさにそういうフェーズにいると思います。
度々お答えいただきましてありがとうございます。
この先は実際にお会いした時にお話させて下さい。
近いうちにご連絡させていただきます。
スライディングスケールというシステムはありがたいと同時にビジネス的にも興味深いです。
アメリカは先進的・実験的なモデルがたくさんあってすごいですね。
また蛇足ですが先生の論理的・体系的にスッキリしたご説明も、非日本的なものを感じています。
理屈で腑に落ちてからでないと動けない僕のような人間にはとてもありがたいです。
再びコメントありがとうございます。そうですね。それはまさに、「下方社会的比較」の延長ですね。また、社会比較は、かなり主観的な要素が強いので(記事中のナナちゃんと浅田選手のような明らかに客観的な違いがある場合もありますが)誰かが自分より上だったり、下だったり、という認識は、じつはそれ自体がその人の作り上げたものであったり、錯覚だったりします(例:あの人より私のほうが幸せだとか、あの人より私のほうが大変だとか)。
「明日、ママがいない」、すごいドラマですね。私も一度だけですが、スーパー銭湯の露天風呂に浸かっているときに見たことがあります。あのように悲惨な家庭状況、生い立ち、劣悪な環境下で、そのような心理が出るのはとても自然なことですね。ブラットピットとアンジェリーナジョリーのカップルは、上方社会比較の極みですね(笑)
Takaさんがご指摘するように、下方社会比較と、セルフハンディキャッピングは、結びつきが強く、共通点も多いです。下の人を見続ければ、自分の問題の核心に向き合わなくて済むけれど、これは、セルフハンディキャッピングのそれと似ていますね。どちらにしても、見たくない、向き合いたくない自分と対峙しなくても済むからくりで、そこに隠れた承認欲求があることも多いと思います。というのも、これらのシステムは、「間接的」に、自己承認欲求を満たすものだからです。問題は、これらが決してその欲求を満たさないようにできていることで、しかしここが同時に、その人が傷つかずに済む逃げ道にもなっているので厄介です。自分と本当に向き合う恐怖と、自分の潜在能力を全うできずに一生を終えてしまう恐怖を天秤にかけて、後者が勝った時に、人は変われるのだと思います。この天秤が見えている時点で、その人は変わり始めていると思います。
他人の評価を下げる事で、特定の人間関係の中での自分の評価を上げようとする心理もこの「下方社会的比較」の延長なのでしょうかね。
実はこの他人の評価を下げたがる心理を自分の中に発見したのは話題のドラマ「明日、ママがいない」である子どもがそのような行動をとっており、児童カウンセラー役の人が家庭環境による心理的なものと分析しているのを見たのがきっかけでした。
もしかして割と典型的な類型として整理されているのではないかと検索して、先生のブログを再訪できたのです。
僕の場合には他人の評価を下げたがる裏に強い承認欲求を自分の心に発見し、それをさらに掘るとセルフ・ハンディキャッピングが枷になって(こういう用語を使って言語化出来たのは先生のおかげですが)行動出来ていない自分、実績や現状とは無関係に本来もっとすごいはずの自分を認めてもらいたい・認められるべきだと思っている自分を発見しました。
本当は自分はすごくないのかもしれないけれど、内面的な心理としてはこれが本音です。
チャレンジして失敗して等身大の自分が見えたら、きっとそれはそれで納得出来ると思うのですが、その勇気や気力が出ないのがもどかしいです。
きっと傷つくのが怖いのでしょうね・・・。