おととい、ようやく青色申告の提出が終わり、ほっとしました。
夜は中級講座で、遅くに帰ってきて疲れたので、昨日はいろいろなことを少し忘れて、のんびりしたいと思ったのですが、いろいろそうもいかないこともありました。
いろいろの一つは、昨夜、NHKテレビの夜7時半から10時まで、「日本の、これから 『いじめ、どうすればなくせますか』 市民と文科省・教師が大討論」という番組を見ての感想です。
知れば知るほど、いじめはますます深刻になっていくばかりのようです。
2時間半かけて、いろいろな意見が出てきましたが、最後はいつものように、「結論は出ませんが、話し合うことは大切です。これからも一緒に考えていきましょう」という話でした。
公共放送の中立性ということからいうと、やむをえないのでしょう。
いじめの原因についての特定の分析-判断-対策を支持することはできないのかもしれません。
しかし、見ていて非常な不満感が残りました。
話題にしたいのか、問題提起したいのか、解決したいのか、公共放送という以上に大人としての責任が問われているのではないでしょうか。
もう一歩踏み込んで、元「ようこそ先輩」・現「課外授業」のようなかたちででも、いじめをなくすることのできた事例・方法の紹介などもしてほしいものだと思いました。
で、私のコメントですが、私はいじめの最大の社会的原因については、神野直彦氏が『「希望の島」への改革』(p.202、NHKブックス)で書いておられる、以下の文章がきわめて端的・簡潔に捉えていると思います(ということは、NHKさんも全体としては、こういうかたちで特定の明快な主張の報道をしていないことはないわけですね)。
「競争社会」とは、強者が強者として生きていくことのできる社会である。適者生存よろしく、強者が弱者を淘汰していく社会である。強者が弱者を淘汰していくがゆえに、競争社会は効率的だと誇張される。
だが、「競争社会」のコストは高くつく。確かに競争は、経済システムのコストを低めるかもしれない。しかし、政治・経済・社会の3つのサブ・システムから成る「総体としての社会」にとってのコストは高くつく。
強者が弱者を淘汰することは、「いじめ」以外の何ものでもない。強者が弱者を淘汰していく競争原理を伝道された子供たちが、「いじめ」に走るのは当然である。
スウェーデンの中学校の教科書では、子供たちに人間の絆、愛情、思いやり、連帯感、相互理解の重要性を教えている。日本では人間の絆、愛情、思いやり、連帯感、相互理解を鼻で嘲笑し、白けるように、子供たちに教えている。
一方(本音)で、友達を潜在的に、時にははっきり意識的に競争相手・敵とみなし、「強い者が弱いものに勝つのは当然だ」と教えておいて、もう一方(建前)で「強い者が弱い者をいじめてはいけない」と言っても、子どもたちは本音のほうしか学ばないのは当たり前でしょう。
日本の大人社会全体が、競争社会から協力社会へと根本的な方向転換をしないかぎり、子ども社会でのいじめが根絶されることは、きわめて残念ながら、ないでしょう。
しかし、そう言うだけでは、今すぐの問題には対処できません。
社会全体が方向転換を遂げるには、まだそうとう時間がかかりそうですから(私たちはそのための努力も精一杯しているところですが)。
けれども幸いなことに、特定の社会集団(例えばクラス)を取り仕切ることのできる権限のある人間(例えば教師)が、人間の本質が競争にではなく協力にあること――それに加えて言えば、生物の世界全体がかつて唱えられた「弱肉強食」や「適者生存」だけで語れるようなものではなく、共存的競争-競争的共存しながら、全体としてエコロジカルなバランスを保って共生しているという事実*――を、知識としても感受性の訓練としても伝え、並行して相互承認のワーク等を行なえば、その集団の範囲内なら確実にいじめは予防できる、と実践に基づいて私は確信しています。
また、いったんいじめが始まったグループでも、根気よくそうしたコスモス・セラピーを行なえば治療可能なはずだと思います(これは残念ながらまだ実践の機会がありません)。
これは1クラスでも可能だし、まして1校単位で取り組めば大きな成果が上がるはずです。
それは、コスモス・セラピー=コスモロジー教育には、「なぜ人を殺してはいけないか」と同様、子どもに「なぜ人をいじめてはいけないか」を納得できるかたちで語り伝えうる根拠があるからです。
別に自分の創ったシステムを広げて有名になりたいわけではなく、子どもたちが幸せになってほしいので、一日も早くこのシステムを多くのみなさんに学び-使ってほしいと切望しています。
NHKテレビを見ながら、またしてもはがゆい思いをした一晩でした。
今日は、そのストレス解消というわけでもありませんが、誕生日祝いの意味もあってチケットを買っておいた、フランスの名ピアニスト、エリック・ハイドシェックのコンサートにかみさんと行ってきました。
40年近く前からレコードで聴き続けてきたピアニストの70歳になっての演奏をじかに聴くことができたのは、ある種、感無量です。
40年近い年月にみごとに円熟した、しかし円熟という言葉も当てはまらないほど瑞々しい演奏に、すっかり感動し、憂き世の憂さをしばし忘れ去ってしまう、すばらしい時間を過ごすことができました。
人間は、例えばこんなに美しい音楽を創り奏でることのできる存在であり、そのことに目覚めれば、人生にはいじめや殺人や戦争などというつまらないことをしている暇はないことがわかるはずなのですが……
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確かにそうだなと。
息子が見上げる親父の背中には
「自分だけの人生なんか楽勝。人生は与えることに感動がつまってるぜ」を背負っていたいです。
実際は競争社会でひーこら言っていてもです。
お子さんがおられると、いじめは本当に身近で大きな問題ですよね。
緊急避難として、場合によっては学校を休ませることや転校も必要だと思います。
学校と会社以外の選択肢もぜひあってほしいですね。
どうしてもという場合は、辞めさせてでも子どもを守ってやる必要もあるでしょう。
しかし、社会全体で学校をちゃんと機能させる努力も必要だと思うのですが、いかがでしょうか。
>XAITOくん
先日の番組にファックスしてきたお母さんも、「うっかり、子どもにまわりはみんな競争相手、負けてしまうわよ」と教えていたと反省していました。
親や教師が競争社会を前提にものを言うことが、意図しなくても=まったく悪意はなくても、結果としていじめを生み出す大きな要因になっているんですね。
そうでない生き方を、言葉=ロゴスでも、行動でも、子どもに示す努力をしていきましょう。
昨年、国内外で科学論文や実験データの捏造にまつわる事件が多く報道されましたが、科学研究の世界では特に競争原理が強く働いて引き起こされた出来事と言ってよいでしょう。しかし、うちのセンター長などはよく皆で力を合わせていくことの重要性を説いているのですが、10人にも満たないメンバーでもこれがなかなか上手くいかないのですから社会全体となればなおさら難しいでしょう――決して不可能だとも思っていませんが。
ところで進化論で「適者生存」と言う場合の「適者」は強者とは限らない――むしろ、そうでない場合の方が多いようです。食物ピラミッドの頂点近くにいるから栄えている、という訳でもなく、その捕食者の生存を支えている被捕食者の方が数が多いからこそ食物連鎖が成り立っているのです。一方で、環境に適応しすぎていると僅かな環境の変化についていけずに簡単に絶滅の危機に陥ってしまうようです。むしろ「強者」が真っ先に自然淘汰されてしまう…… こういった生物は目立つので、あたかも生物種にも寿命の様なものがあり、種は必ず絶滅してしまうと考えられるようですが、細菌などは平気で何億年も命をつないでいるみたいですし、「種」の概念自体が結構いい加減らしく、この辺り進化論や生物学に明るい方の意見を伺いたいところです。
この生物学的な進化論が社会に対して適用された(こじつけられた?)社会進化論において「適者」=「強者」と読み替えられて自然界の弱肉強食のごとく強い者が弱い者に犠牲を強いることが自然の法則であるかのようになったのではないでしょうか。ナチスの依拠した悪名高き「優生学」の発想にも同様なものが見て取れます。余談ですが「血液型性格分類」の歴史を調べた本(タイトルを忘れてしまいましたが)によると、血液型で人の性格がわかるという考えの源は優生学に端を発するそうです。そういったところが個人的には嫌いなことや血液型性格分類がはやっているのはほぼ日本(と近隣諸国)のみのようで、なぜこのような事態になっているのか不思議に思います。軽いお遊び程度なら構わないのですが……
話を戻しますと、何が強いとか何が優秀とかは様々な文脈の中でも異なるでしょうし、それを無理やり、例えば収入などに一元化して我々大人が他人は全て競争相手と考えているような状況では子供たちの間で(大人の間でも)いじめは無くなりそうにありません。