仏教の出発点は、いうまでもなく、ゴータマ・ブッダが覚りを開いたことにあるわけですが、何を覚ったかというと、「縁起の理法を覚った」といわれています。
『ウダーナ』という経典には、覚った後、ブッダが語ったという三つの詩が記されています。
「実にダンマ(サンスクリットでは「ダルマ」、法、真理)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
では、「縁起の理法」とは何かということになりますが、「縁起」には大きくいうと二つの意味があります。
まず第一は、「すべてのものが縁・つながりによって生起している(したがって結局は一つだ)」という意味です。「相依相関」という言葉で表現されることもあります。
長い禅定の末、暁の明星を見たとき、ブッダは「あの星(そして宇宙)と私はつながっていて一つだ」と覚ったのです。
『サンユッタ・ニカーヤ』という原始経典には、「わたし(ブッダ)によって体得されたこのダンマは、はなはだ深くて、理解しがたく、覚りがたく、寂静であり、分別を超えて微妙であり、賢者によって知られるべきものである」とあります。
ブッダは、深い瞑想を通じて、分別つまりすべてをばらばらに分離したものと見るものの見方を超えたとき、すべてがつながりによって生起していること・縁起の理法を覚ったのです。
これは迷いのものの見方・無明を克服して、すべてが一体であるという宇宙のありのままの姿、つまり「如(タタター)」あるいは「真如」・「一如」を覚った、と言い換えてもいいでしょう。
仏教学界ではいろいろ議論があるところのようですが、私はこの縁起の第一の
意味が決定的に重要だと考えています。
*私のブッダの教えの解釈は、玉城康四郎先生の影響が大であり(例えば『仏教の根底にあるもの』講談社学術文庫、参照)、友人の青森公立大学教授羽矢辰夫さんとはほぼ合意しているものです。
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あと、すべてはつながっているという“縁起”ということ、さきの現代科学のコスモロジーの“宇宙はつながって一つ”ということと同じなのでしょうか?
だとしたら、2000年以上前の人の直観的な洞察したというのは、時代を超えたすごいものだということになりますね。
これも、考えてみたこともなかったです。
学ぶというのは楽しいことなのですね。
言語による分別知を超えて、すべては縁(関係性)によって生起している、もともと宇宙はすべて一体であるということを覚ったんですね。
玉城先生の本「仏教の根底にあるもの」、本棚に眠っていたので、起こしてきました。今度はしっかり読んでみます。
宿題がいっぱいです(笑)
超えるとは、新たなものが違うものが融合する事により産まれることのように思います。
ウスイツカサ