愛されたり・愛したりする未来

2011年07月20日 | 生きる意味
 
 このネット授業で、かつて、ものごとがどう見えるかはかなりの程度見方しだいだということを学びました。

 それは、地震-津波-原発事故そして復旧・復興の遅れ、不確実な収束、放射能汚染についても言えることだと思います。

 特に放射能汚染について、心配のあまり絶望的な気分になっておられる方が少なくないようなので、ここで意識的に希望を持つために復習をしてみたいと思います。

①事実あるものごとは、目を開ければ見えるが、目を閉じれば見えない。見えないとないような気がしてくる。

 ②事実あるものごとは、目を開けていてもその方向を見ていなければ見えない、その方向を見れば見える。

 ③事実あるものごとは、見る距離によって見える大きさが違ってくる。近づけて見れば大きく見え、遠ざけて見れば小さく見える。

 3・11の後、放射能の危険さについて、私たちはいやおうなしに目を開かれ、そちらに目を向けさせられ、特にあまりにそのことに目を近づけて見過ぎて、他のことが見えないという状態になっているのかもしれません。

 十円玉を親指と人差し指で持って片目をつぶり、開いている目のすぐそばまで近づけて見ると、視界は十円玉でいっぱいになり、まるで世界が十円玉だけで出来ているように見えてくる、というワークをやりました。

 私たちは、放射能についてそういう状態に陥っているのではないでしょうか。

 世界中が高濃度の放射能だらけで、すぐにでもみんなガンになりそうで、もう何の希望もない、と見えているのかもしれません。

 その気持ちは私もほんとうによくわかります。

 しかし、学んだように、視界=世界ではありませんでしたね。

 不幸中の幸いと言うべきでしょう、福島原発のすぐそばを除くと、確かに汚染はされているのですが、まだ「ただちに健康に害のある量ではない」という状態で、「やがてガンになる確率が高くなる」危険(0.1%から1%くらい?)はありますが、「すぐに全員がなる」のではなさそうです。

 あえて言うと、絶望するのは放射能の危険を過大視しているためであって、もちろん心配をし、できることはしなければなりませんが、ここで子どもや自分の人生が終わるわけではなく、そういう意味で未来はまちがいなくあるのであり、したがって希望を持つこともできるという、他の面、より広い面を見ることも忘れないでおきたいものです。

 そして何よりも、私たちは生きているかぎり、愛されたり・愛したりすることができます。

 たとえ放射能に汚染されても、病気になっても、愛されたり・愛したりするという体験をすることの可能性はこれからも生きているかぎりなくなりません。

 ただちに命にかかわるような量でないかぎり、放射能が愛の可能性を汚染したり破壊したりすることはないのです。

 愛されたり・愛したりする未来への希望を捨てる必要はまったくありません。

 そして、時間があると思うとかえって気がゆるんで大切な人への心づかいがなくなりがちで、時間が有限だという覚悟があってこそ人への思いが深くなるということもあります。

 愛については、時間は長さよりも質が大切なのではないでしょうか。

 愛されることも愛することもなく長く生きるよりは、短くても深く愛され・愛する人生のほうがいい人生だ、と私は考えます。

 もちろん、深く愛され・愛する人生が十分な長さあったほうがもっといいに決まっていますが、残念ながら人生は私たちの100%思いどおりになるようにはできていないようです。

 だとしたら、私たちは許された人生の長さの中で、愛され・愛する体験をしながら、悔いのない、せめて悔いの少ない人生を生きる努力をするほかありません。

 特に大人は、子どもたちのために心配するあまり絶望して、子どもたちまで絶望させることのないよう、できるかぎりの愛情を注ぐ努力をしていきましょう。

 人との出会いはすべて「一期一会」であり、子どもと親との出会いも「一期一会」です。

 その思いを忘れず、大切に、丁寧に、思いを込めて大事な人とつきあっていきたいものです。


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4 コメント

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正しく恐がり、正しく対処・・・ (ひろ)
2011-07-21 06:25:47
学校現場でも、放射能の影響について、「大丈夫でしょー」というような空気が膨らんできました。
子どもが来る前に、プールサイドに水をまき、洗い流すという基本的なことですら、「そんなこと気にしていたら生きていけない。」とか、学校給食の材料の産地の問い合わせに対して、「神経質な人もいるもんだね。」とか。

確かにあまり神経質になるのもどうかと思いますが、逆に無神経になるのも恐いです。
迷える子狸さんがこのブログで紹介していた、8月27日の田中さん、小出さんなどが話す集会に申し込みました。子狸さん、有り難うございます。

さて、「どう見えるかは、かなりの程度、見方次第」という点、このような時だからこそ、痛感します。
与えられた人生の時の一部を、愛し愛されるワークとして、見つめなおしていきたいと感じました。

ただちに人体的な影響はない。しかし、ただちに気持ちへの影響はある。その気持ちは、自分で選べる。アランの『幸福論』の一節が思い出されました。
「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のものである。」
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慎重さと希望 (おかの)
2011-07-29 10:08:53
>ひろさん

 今、期末のレポート採点で忙殺されています。お返事が遅くなり失礼しました。

 この間もNHKで放射能に対して「おおらかな」お母さんと、「神経質な」お母さんという表現をしていましたが、問題だと思いました。

 「気にしない」と「慎重」とでも表現すべきだと思います。

 「気にしない」のはその人の人生戦略でご自分の範囲ではそれでいいと思いますが、子どもの未来に対しては「予防思考」でできるだけ「慎重」に対処すべきですね。

 「慎重」すぎると「神経質」ということになるのでしょうが、今は、できるだけ、慎重すぎるくらい慎重に対処したほうがいいのではないでしょうか。

 できるだけ慎重に対処しながら、希望を失わない、という姿勢を保ちたいものです。


 
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Unknown (かおり)
2011-08-08 21:08:43
先日、私が住んでいる隣の市で、子どもの尿からセシウムがでたという事実を知り、絶望感でいっぱいになりました。
私が食事を気にしていることに、大袈裟・神経質という友人も多いです。
ですが、こういう事実が出るたびに、やっぱり必要以上に気にすべきだと思いなおします。

一方、先生から先日頂いたアドバイスやこちらの記事を通して、
有限な時間の生き方も改めて考えさせられています。
非常に悩みましたし、今も怖い気持ちが残りますが、
夫とも改めて話し合い、9月に郡山へ行くことにしました。
友人の結婚を祝ってきます。先生いつもありがとうございます。
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よく決心しましたね (おかの)
2011-08-11 11:00:56
>かおりさん

 放射能汚染のこと、本当に心配です。特に子どもたちのことを考えると、本当に心が痛みますね。

 お友達の結婚式への参加の件、二人でずいぶん悩まれたことでしょう。よく決心しましたね。どうぞ悔いのないように心を込めて祝ってきてください。

 昨日まで、大学のレポート採点に忙殺されていて、お返事が遅くなり失礼しました。


 
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