今日も良い天気でした。布団もばっちり乾きましたよ。
今日は土地のトラブルの相談で、仕事終わりに、芦屋町まで行ってきました。土地の境界が壊されてるとのこと。
字図とスマホのナビ、スマホの方位磁石で、土地の本来のラインを探りました。草ぼうぼうで、結構大変でした。あとは当事者同士の話し合いですね。うまく話がまとまりますように。(^^♪
自宅に帰り、ちょっとインスタントラーメンで腹ごしらえして、今度行われるソフトバレーボール大会の第一回の練習に行きました。
練習の準備をして、2試合しました。結構疲れるものですが、楽しみました。
帰って、夜ご飯、私が金曜日に作ったポテトサラダが、ほとんど食べられておらず、見ると、少しカビっぽいものが、ジャガイモだからね・・・
冷蔵庫でも痛むわな"(-""-)"
でも大量にあったので、捨てるわけにもいかずに、フライパンで炒めて、お好みソースと、マヨネーズ、唐辛子をかけて、お好み焼き風で食べました。かなり腹いっぱいになり、今は結構苦しいです。でも無駄にせず良かった・・・・
空手小話③ 僕の好きな先生!!(実話に基づくフィクションです。登場する団体は実際の団体とは無関係です。)
私の先生は国士館大学体育学部の剣道専攻でした。ほんとは拓殖大学の空手部に入りたかったのですが、先生のお父様が、当時やはっていた空手が嫌いで、剣道に行けと。
それで国士舘大学でした。当時の国士舘はまさに右翼中の右翼の学校。学内に右翼団体が何十とあったそうです。当然、学内の右翼団体は、東京の暴力団ともつながっていて、学内でも右翼同士の抗争も勃発していたそうです。
先生はどの団体にも所属していないフリーで、当時同じようなフリーの暴れん坊同士で何となく、仲の良いグループを作ってたそうです。先生が3、4年生になる頃には、先生たちのグループは学内でも一目置かれる存在で、先生が国士舘の頭をとれと言われたこともあるそうです。
でも、先生が大学に入った1年の時は、全寮制で、部屋ごとに2年生、3年生、4年生の完全縦社会で、結構不合理なことが多かったそうです。寮長は大学を卒業した先輩がしていて、結構後輩をいじめていたそうです。先生は、大学に2年か3年遅れて入っているので、年下の先輩から、いろいろ言われて、悔しさをかみしめていたそうです。
しかし、4年になる頃には、国士舘で頭角を現した先生に、まさに、ビビられる存在になっていて、昔いじめられていた寮長も、まったく歯向かえずに、新入生いびりをしているのを、一括して、謝らせていたそうです。むかし偉そうにしていた寮長が、先生の前で正座させられていました。
当時の国士舘は東京のど真ん中にあり、その周りには高いコンクリートの塀がぐるりと取り囲み、上には鉄条網が・・・。まさに刑務所のような感じで、脱走するのが困難な感じでした。鉄条網に囲まれた大学・・・すごいですね。さすが右翼の国士舘。
でも今の国士舘は昔とは当然全く違いますよ。念のために。
というのも、学内で抗争が相次ぎ、殺人事件が起きたそうです。
これを機に、文部省が入り、運営体制をガラッと変えたそうです。当時の幹部はほとんど首になったということでした。
実は私の従兄も国士舘で、国士舘の校歌を子供のころに聞きましたが、まさしく、ザ・軍歌でした。
学旗は、これまた、ザ・軍旗。というより、右翼っぽいなというものでした。私の好きな朝日マークのド派手な奴です。
先生も、恩師の先生が何か辞めさせられるときに、友人たちと、血判状をしたためて、学長に談判したこともあります。大学で血判状!!
うーんさすがです。(^_^;)
当時の国士舘には、全国から番長クラスの荒くれ物が集まっていて、先生の友達で、四国から来た缶コーラの〇〇と恐れられていた方。その喧嘩の仕方は、缶コーラを背中に隠し持って、相手が近づいたら、それを武器に。
また、小河さん(仮名)という方は、大男で柔道の使い手、やくざと喧嘩した際、襟首捕まえて、そのまま宙吊りに、相手は絞められて気絶していたそうです。
こうした友達は、大学卒業後連絡が取れなくなったそうです。やくざになったか、もう死んどるか。と話していました。
とにかくみんな喧嘩が強かったみたいで、先生のグループは3.4人で、実質の国士舘の番長グループ。ある右翼団体から、番長をゆずってくれと相談もあったそうです。
でも先生たちは別に、番長のつもりはなく、まったくの自由人なので、別に俺たちは番を張っとるわけじゃないと言って、その右翼団体が国士舘の頭になったと言ことです。
では本日はここまで。おやすみなさい。