神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.116 思い出すこと 1 

2024-03-22 01:29:37 | 追憶
 いくつか思い出したことを書こうと思います。

  

(1)立教の大学院で修士論文を書き始めた1978年ころは、1戸建ての2階の半分を借りてのアパート暮らしだった。もともと狭い造りのところへ、そのころにはもう本箱6~7個分は蔵書があったので、けっこう手狭だった。
 それでも、居場所が必要なので、部屋の一角を本箱とふすまで仕切って自分の居場所をなんとか確保した。すると、歩き始めた娘が遊んでほしくて時々やってくる。しかし、そうそう遊んでいるわけにもいかないから、炬燵の台を立てて通せんぼをしたら、おもしろがって、どこで覚えたのか不思議だが「大丈夫、通れる」と言ってすり抜けてきてしまう。そこで、バリケードよろしく頑丈に閉鎖すると、こんどはふすまを開けて、みつけたとばかりに「にか~ッ」とよだれを垂らしながら笑う。そして机の下をくぐって入ってくる。そうすると、やはりいくらかは遊んでやらざるを得ないので抱っこしてやると、こんどは机の上に興味を持って「じじ〔字字〕」といって落きたがる。おかげで、当時使っていた『岩波ロシヤ語辞典』の内表紙にはその「じじ」がくちゃくちゃと書かれていて、いまでは「私の宝物」になっています。
 娘は今、高校生の娘と中学生の息子のお母さんです。


(2)そのころは情報公開法制定のずっと前で、からきし資料がなく、先行研究を探すことも難儀するような時代でした。
 記憶違いがあるかもしれませんが、先日、「目白御殿」といわれた田中角栄元首相宅が全焼したことが報じられましたが、あの建物に木曽のヒノキが使われていたのではないかと思われます。そのころと思いますが、私も木曽に行きました。
 この時のこととして覚えていることが3つあります。
 1.原寿男さんが「木曽の林政と施業の沿革」(『昭和43年度木曾分場年報』)を書かれていて、それを読んで、お話を伺いに農林省林業試験場木曽分場に伺ったことです。もう記憶が薄れるばかりですが、原さんは、まだ何も伺うすべを持たない私に、端正にして控えめな姿勢で、ニコニコしながらお話しくださり、上記の論文のコピーを持っていった自分に、記念にと抜き刷りを下さいました。
 2.原さんにお礼を言って辞去しようとすると、さりげなく引き留めました。そして、ちょっと出てから戻ってきて、「分場長に挨拶していってください」といい、案内してくれました。
 分場長は鶴園さんとおっしゃいました。原さんが私のことを説明されたようで、私が「なかなか手掛かりがないので、ともかく御料地だったところを見たいと思ってきました」と挨拶すると、にわかに運転手に来てもらい、財布から5000円札を出して渡して「予定外で申し訳ないけど、これで希望のところへ行けるところまで案内してあげてください」といい、私には「今日は会議があって時間がありませんから、また来てください」といって部屋を出ました。
 運転手さんにお世話になり、木曽福島から、王滝の方の奥まで上がりました。そこは、運転手さんが心配して、「雪解けで崩落のキケンがあるから、ここで勘弁してください」というようなとことで、巨木が林立していました。
 のちに、神足も越えた真弓峠の名前を知っていたので、その方角を聞くと「あの奥の方です」と。
 3.木曽には何回か行きました。いちど王滝の民宿に泊まった時のことです。
 民宿の主人から「王滝へ来た目的」を聞かれたので、「皇室財産の研究」をするつもりであること、その中心地の旧御料林を見に来たことを話したところ、突然怒り出して「もう御料林なんかいいよ」と言いだしました。
 私が「でも、何にもわかってないですよ。」「ちゃんとわからないと、墓標が立てられない」というと、もう客であることを忘れた対応でした。
 この件もあって、これが「私の課題」です。 
   

 もっと簡単に書くつもりでしたが、今日はここまでです。
 つづきは明日。





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