10年前の2014年9月、私は群馬県吾妻郡吾妻町の須賀尾に高橋寛司の足跡を尋ねて、孫にあたる巌氏(当時80歳余)にお会いできました。
巌氏とは、私の高校の先輩になる関係とわかり、初対面とは思えないほど懇切にお話を伺うことができましたが、寛司についての詳しいことはわかりませんでした。これが今回の結論です。
じつは、高橋寛司は、明治9〔1878〕年から没年の大正9〔1910〕年までの折々に『神足日記』に出て来る人です。また、寛司没後はご子息の穂太郎(1901~1956)氏が、折々の挨拶などで勝記の晩年近くの昭和10〔1935〕年まで出てきます。
しかし、明らかに御料局とは無関係であり、その生涯もはっきりしないので、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の編纂では、全部を割愛しました。
その寛司の情報を求めて私が須賀尾を尋ねたのは、神足が、明治17年と19年の巡回の際にここを通過して、その2回とも寛司を尋ねているからです。
まず簡単にその時のことを書きましょう。
明治17年は、すでにだいぶ前に、神足が「笹子雁ヶ腹摺山」に10月18日に上がったことを書きましたが、神足の巡回はその後も続いていて、長野県飯山を回ってから山ノ内町に戻り、白根山を越えて群馬県の草津・伊香保に至り、そこから、西に向かって吾妻の須賀尾にやってきます。
下の写真は、写りが良くありませんが、途中で神足も見たはずの「岩櫃山〔いわびつやま802.6m〕」です。NHKの「日本百低山」で取り上げられたのでご覧になった方もあるかもしれませんが、やや険しいところもあるようです。
なお、この時は、神足は、翌日に軽井沢へ向かい、さらに長野県・群馬県・埼玉県・群馬県と次々に巡回して本庄市に出て、帰京は12月8日でした。
須賀尾に着いた神足は山木屋に宿を取り、寛司を訪ね、共に「鳥の湯なる温泉場に至り」、夜は「高橋の招請により同家に赴く」と書いています。
温泉は下の「鳩ノ湯」でしょうか。そう思って、私も入ってみました。のんびりとできてよかったです。
2回目の明治19年は、群馬県の碓氷峠を越えて長野県・新潟県を巡回、渋峠を越えて群馬県の草津に入り、長野原から須賀尾峠を越えて須賀尾に見入ります。
須賀尾峠は、上の地図の左端にみえる「かどや酒店」のところへ北から降りてくる道をたどったところにあります。
私も長野原駅まで行って、長野原からここをたどりました。私が歩いたのは車道です。途中ではところどころに旧道と思われる小道が林の中に見られましたが、すでに荒廃していて、歩ける状態とは思えませんでした。
写真をご覧ください。
まず、途中から見た長野原方面です。ダムに水没する地域です。高台移転と橋梁建設のようすが見えます。
次に、途中から上を見ると正面に「丸岩(1124m)」が見えました。
そして、ミニサイクルを押して9時に長野原駅を出発して、10時40分に須賀尾峠に着きました。
私はここからミニサイクルで下りました。
ミニサイクルは、現地へ着くまでは荷物になりますが、駅からここまで荷物を載せて運んでくれましたし、ここからはほとんどこぐことなく、上の地図の右端(大戸)まで運んでくれました。当日の日記に
「須賀尾〔峠〕から大戸まで下り一辺倒でペダルいらずだった」
と書いてあります。
ここから須賀尾に入りますが、明日に回しましょう。
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