先日、弥生美術館で見た「森本美由紀展」がきっかけで、彼女の行った美術学校「セツ・モードセミナー」と恩師である長沢節について本を3冊読んだ。森本美由紀も長沢節も、私がファッション情報に疎くなってから他界されていたことも知らなかった。本で長沢節は戦前からイラストレーターでデビューしていたことを知り、その年代ならば当然・・・と自分の浦島太郎ぶりにも呆れた。
森本美由紀のファッションイラストは女子の「なりたい自分」像ということで、可愛くてキレイでちょっと毒がある時もあって服がよく似合う、本当に自分がこんな顔だったらな、とかこんなに細長かったらな、とスルリと共感できるのに対して、長沢節の方は、その美意識を文章で読むととても頷けるし、彼の美意識の反映であるモードセミナーのホールや教室、自室の写真はこんな所に住みたい!と思わせるのに、肝心のファッションイラストと服のデザインの方は正直好みではないことがよく分かりました。
いちばん共感を覚えた彼の美意識は、骨っぽい手首足首、手と足への執着です。これは私も去年から絵を描き始めて気づいたのですが、腕や脚から先を描いていると時間を忘れて夢中になるのです。私の場合はあと骨格のキレイな顔が加わるのですが、スパークス兄弟は細身で顔の輪郭も好みなので、服から出た肌色の部分を描くと満足してしまい、服の部分は黒に至っては光を吸収して何も見えないのでもうどうでもよくその通りに黒く塗りつぶしておしまいです!
ということで彼のイラストも手足は好きなんですが、彼は顔への執着はあまりなかったのか、森本美由紀はファッションイラストでも顔まで可愛かったのに、長沢節の顔の好みは理解不能。彼が敬愛したマルセル・ヴェルテスの描く顔はもっと時代が遡るのにカワイイのに。
ところで彼は1961年にパリのオートクチュールを見た初の日本人らしいのですが、パリには自分と同じ孤独な大人が大勢いるので居心地がいいと書いていて、そういう人でサンジェルマンのドゥ・マゴやル・フルールはいっぱいになるので席を見つけるのに一苦労、ということが書いてありました。それを読んで・・・おや?スパークスが新曲「ザ・ガール・イズ・クライング・イン・ハー・ラッテ」で提示した光景が浮かびました。カフェではひとりラッテを飲みながら泣いてる人が常にいる・・・これは社会が何かおかしいのでは?という歌詞です。
長沢節は孤独を愛し生涯独身を通した人なので、同類、しかもサンジェルマンの有名なカフェとなればそこに座ってるだけでも孤独だけど満ち足りた人生を送っている人に見える・・・たとえ泣いているかも知れなくても。それから何10年か経過、スパークスだって独身かどうかは謎だけど自由人だし、パリも大好きだしオシャレさんだし、だけど「孤独な社会」を問題視して多くの人が共感するというのは、時代の価値観なのでしょうか。
20世紀にはプライバシーのない村文化に対抗する都市文化が定着して、自由で孤独な都会生活がクリエイティブな人には理想、というのが暗黙の了解だった気がします。が、ミレニアムを迎え、かつてはおしゃれ圏外だった健康志向とか環境問題、人権問題、メンタルヘルスなどが逆に最先端に。1960~70年代には喫煙はクールなことで、オードリー・ヘプバーンがオートクチュールを見ながらバレンシアガのサロンのカーペットに吸い殻を落としても誰も気にしない時代だったと長沢節が書いていたのも、価値観の変化がよくわかるエピソードです。
21世紀も1/5が過ぎ、自由は普通になり人間関係の重さが減ったけど、それでも孤独にひとりカフェで泣く予定じゃなかった、ということ?
これが好きだと世界中どこへ行っても楽しめますね!
もちろんお菓子が美味しい所なら尚更ですし、パリとか(ウィーンでも)なら
美人美男オシャレさんを眺められて一石二鳥・・・ああ、旅に出たくなった
でも自分がカフェに行くお金もないという貧乏生活したことあるので
正直スパークスの曲を聞いた時には、カフェに行って泣けるなんて贅沢
とも思ったのですが自宅に居場所がないというシチュエーションだってあるし
カフェにはドラマがあることは間違い無いです。
「カフェでひとり」は私にとって大好物のシチュエーションなので、パリの有名カフェに一人陣取って内心うきうきだったであろう長沢節氏の姿はとても他人事とは思えません。肝心のファッションイラストについてはまったく存じ上げませんが。
そして、
>カフェではひとりラッテを飲みながら泣いてる人が常にいる・・・これは社会が何かおかしいのでは?
その通り!!!「カフェでひとり」にうきうきになれない人がそんなにもたくさんいる社会は絶対どこか間違ってます。曲も歌詞もまったく存じ上げませんが、そこだけは強く主張したい!