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伊東潤著「茶聖」を読み終わりました。
会話部分が多くとても読みやすく、映像が浮かぶ、あたかもTVドラマを見ているようにさえ感じました。
それにしても利休は天下一を目指す秀吉にすり寄って、考えられないほどの大役を任されたり、秀吉に臆することなく進言をしたものです。
いわば傀儡子となって秀吉を支えて?いました。
それもこれも ”荒ぶれた武士の心を茶の湯で鎮め、世の中を静謐に つまり戦いのないものにする”という大義を掲げて秀吉に近づいたのです。
黄金の茶室を見て驚きはするものの「殿下は己の侘びを見つけられましたね」と忖度した言葉を発する。
異常なまでの美意識を追求する「聖」の部分と、大義を実現するために権力者の懐に入る「俗」の部分が利休にはあったのです。
秀吉の懐に入りすぎていく利休をみて家康に「利休殿は少し火遊びが過ぎましたね」と言わせしめています
「俗」と「「聖」の部分を読み進む中に、時々出てくる妻りきとの夫婦の会話でホッと息がつげます。
第5章、秀長の永眠後、秀吉が利休の大坂屋敷を訪れ二畳の茶室で茶事となります。
この狭い空間での秀吉と利休の息詰まる最後の緊張感のある会話…最後に傀儡子はもういらん!と死を宣告されるのです。ここがこの小説の圧巻部分と思います。
利休は自分の死で茶の湯が未来永劫の命が約束され、それと共に豊臣政権が滅びの一歩を踏み出すこととになると思い、喜んで死を受け入れるのです。