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『論理哲学論考』を読む

2024-11-24 11:52:54 | 趣味人的レビュー
ある理由(その理由はレビューとは関係ないので、ここでは述べない)からヴィトゲンシュタイン(長いので以下W)の『論理哲学論考』(以下『論考』)を持つ必要が出て、これまで敬遠していたが、せっかくなので読んでみることにした。

この光文社古典新訳文庫版には、冒頭に野家啓一が高校生に向けて『論考』のアウトラインを解説したという体裁で書いた「高校生のための『論考』出前講義」という付録があって、それが『論考』を読むための重要な指針とヒントを与えてくれる。けれども、残念ながら『論考』はこれだけで読み進められるような代物ではなく、私は野矢茂樹の『『論理哲学論考』を読む』(以下『読む』)を傍らに置いて、その助けを借りながら読んだ。

『論考』は、若干30歳の若き哲学者が哲学の問題を本質的な点において最終的に解決したと宣言し、20世紀の哲学界を揺るがした書である。数学書を模した体裁で書かれたそれは、現実世界において論じられる事柄は、言語によって形づくられた仮想空間──Wの呼び方では論理空間──上の論理形式に対応づけられ、そこからその真偽を形式論理のルールに則った真理演算によって導ける、と述べる。その上で
4.003 哲学的なことについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、まちがっているのではなく、ノンセンスである。だから私たちは、この種の問いに答えることなどできっこない。ただそれらがノンセンスであることを確認することしかできない。哲学者たちの問いや命題のほとんどは、私たちが私たちの言語の論理を理解していないことにもとづいている。
と言い放つのだ。

さて、『論考』はまず「世界」についての定義から始まる。
1 世界は、そうであることのすべてである。
1.1 世界は、事実の総体である。物事の総体ではない。
等々と述べられ、以下、大雑把に、2ではその世界を映し出す像としての論理形式について、3では命題論理について、4では命題論理に対する操作と真理概念について、5では真理関数について述べられるのだが、
5.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
から、いきなりソリプシズム(独我論=「この世界に存在するのは私一人であり、ほかは全て私の意識内容にすぎない」とする考え方)の話が始まる。この部分については、野矢が『読む』で「10 独我論」、「11 自我は対象ではない」の二章を費やして考察しているので詳細はそちらに譲るが、私にはこれがWによる叙述トリックに見えた(もちろん『論考』がミステリでないことは百も承知である)。
それを説明するのに、ここでは『論考』に出てくる「世界」という言葉を普通の意味の世界と区別するため〈世界〉と表記することにする。Wはまず何食わぬ顔で〈世界〉を定義し、その後も何度も〈世界〉について言及してきた。こうしてWは、読者が〈世界〉のことを全ての人と共有していると思い込むように仕向けた。そして5.6でいきなり「私の〈世界〉」という言い方で、その思い込みをひっくり返して見せたのだ。この瞬間、読者は全ての人と共有していると思い込んできた〈世界〉が、実は誰とも共有しない私の、私だけの〈世界〉だったことに気づいて、意識が揺らぐことになる。
ついでに言うと、私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。という一節を、「X氏の言語の限界は、そのX氏の世界の限界を意味する」と読み替えることはできない。私にとって〈世界〉とは、私の言語によって形づくられる「私の〈世界〉」だけだからだ。もちろん私はX氏のこともX氏の世界のことも語ることができる。しかし、そのX氏もX氏の世界も「私の言語」によって語られるのだから、X氏の世界もまた、どこまで行っても「私の〈世界〉」の中のことに過ぎない。かくして独我論は成るのである。

そこのように一時、独我論などを挟みながらも、6でWは再び論理空間における論理形式と、形式論理による真理演算についての思索を深めていく──のだが、6.4に入るとその内容が一変し、Wは倫理や死、神などについて語り出す。その中の特に印象的な部分をピックアップすると
6.41 世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。すべてが、あるようにしてあり、すべてが、起きるようにして起きる。世界の中には価値は存在しない。──もしもかりに価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。
6.43 善意または悪意が世界を変えるなら、変えることのできるのは、世界の限界だけである。事実を変えることはできない。
6.431 それはまた、死んだときには世界は変わらず、世界が終わることに、似ている。
6.4311 死は人生の出来事ではない。死を人は経験することがない。
永遠とは、はてしなく時間がつづくことではなく、無時間のことであると理解するなら、現在のなかで生きている者は、永遠に生きている。
6.432 世界がどうであるかは、より高いものにとってはまったくどうでもいい。神が姿をあらわすのは、世界のなかではない。
6.44 世界がどうであるかということが、神秘なのではない。世界があるということが、神秘なのだ。
といったもので、こうした下りが『論考』のハイライトであると同時に、最も不可解な部分でもある。
Wのこれらの言説についても、野矢は『読む』の「12 死について、幸福について」で考察を試みているが、私はむしろ存在と死について語るWにハイデガーとの相同性を見る。実際、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(以下『ハイデガー』)の中で、古東哲明は次のように書いている。
よくしられているように、ウィトゲンシュタインは、いろいろなかたちで、「ぼくは世界の存在に驚く」、「この世界があるなんてことが〈ある〉ことが法外だ」と語る。いわゆるタウマゼイン(存在驚愕)の体験をつたえるエピソードである。これはハイデガーとまったくおなじ内実。「わたしには、ハイデガーが、存在とか不安という言葉でなにを考えているのかよくわかる」(1929年11月30日、「シュリック家での談話、ハイデッガーについて」)といっていたウィトゲンシュタインのことだから、そう考えていいはずだ。
また古東は『ハイデガー』の中で、後期のハイデガーが「神」や「神秘」という言葉で何を語ろうとしたのかを述べているが、それはそのまま『論考』でWが語った「神」や「神秘」についても当てはまると私は思う(なので詳しくは『ハイデガー』に譲る)。また、6.4311は一見するとWが死の存在を否定しているかのように捉えられてしまうが、よく読むと「過去でも未来でもなく〈今ここ〉を生きよ」と言っていることが分かる。それはハイデガーの言う「ほんとうに生きているひとには、いつも時がある」というのと同じだ。
してみると、Wとハイデガーは「同じ地点への違うルートを示した2人」と言えるのかもしれない。

■テキストの選択について

『論考』の日本語訳は数種類あるが、文庫本で手に取りやすいのが、ドイツ文学者の丘沢静也訳による光文社古典新訳文庫版と、哲学者の野矢茂樹訳による岩波文庫版だ。『論考』は哲学書だから、普通に考えると文学者の訳より哲学者(しかも専門はWから始まる言語哲学)の訳の方が信頼性が高いと思われるし、野矢の書いた『読む』も読んでいるので、当初は岩波版を買う予定だった。が、天邪鬼な性格もあって、急に気が変わって丘沢訳の方を選んだ(といっても、実際に中を読んだ上で決めたのだが)。

丘沢はドイツ文学者とはいえ、Wが自身の哲学の集大成として書いた『哲学探究』も訳しているほか、カントの『永遠の平和のために』、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や『道徳の彼岸』なども訳していて、「文学者がちょっと出来心で哲学書の翻訳にも手を出してみた」というのとは違うようだ。

とはいえ、読んでいくと丘沢訳ではよく意味が取れない箇所があり、結局、途中から野矢訳も用意して、両者を平行して読むことになったが、改めて丘沢と野矢の訳文を比べると、全体として野矢の訳の方がより的確であると感じた(哲学書に限らず、翻訳というのは原書に対する訳者の理解と解釈が如実に現れる。『論考』については、内容の理解の深さという点で野矢が丘沢を上回っていたということだろう)。ただし個々の訳文では、野矢訳より丘沢訳の方が原文の意味をよく伝えているものもあり、丘沢訳が野矢訳より大きく劣るわけではない。
 
※「本が好き」に投稿したレビューを採録したもの。

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