花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

ドイツの旅(18)

2011年11月02日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

最終日の午後、再びフランクフルトに戻り、先ず旧市街にある4階建ての贅沢な「ゲーテハウス」に入った。
ここはゲーテが1749年8月に生まれた家で、父は皇帝顧問官、母はフランクフルト市長の娘で、一家はこの町の屈指の名家だったという。第二次世界大戦で建物は破壊されたが、市民の強い要望で復元したものなのだ。
一室ごとに壁紙が異なり、調度品も豪華だった。この家にはゲーテが青年時代を送った場所というばかりではなく、18世紀の名家の様子が窺えた。
ここでゲーテは「若きウエルテルの悩み」「ファウスト」などを書いたと言う。

  

最後にフランクフルトの旧市街に案内され、旧市庁舎「レーマーハウス」の前のレーマー広場で解散して、それぞれ1時間ほど自由に散策した。
見ると市庁舎前に大勢の人が集まっていた。どこかの国の指導者が来ると言うのだ。私もカメラを構えて待つこと4~5分。10台程の大型バイクを先頭にして、大型の黒い車から中年夫妻が降り立った。市庁舎の入り口に出迎えたのは、多分市長夫妻? 早速シャッターを切ったが、最後まで誰が来たのかは分からなかった。 

  

広場を挟んで市庁舎の反対側の建物も写して置いた。

      

「フランクフルト」とは、「フランク族の浅瀬」という意味で、フランク族が戦いの時にマイン川の浅瀬を越えた事に由来しているらしい。彼らは漁業と水運で財をなし、中世には帝国自由都市として認められ、ますます商業活動を発展させたという。
現在の人口は70万人。EUが統合してからは400以上の銀行が出店していて、欧州中央銀行もあり、EUの経済の中心地なのだ。高層ビルと中世の建物がすぐ傍で共存している面白い町だった。
自由時間の残りをマイン河畔に行ったり、賑やかな通りの店を覗いている内に時間が経った。ゾーリンゲンの刃物店や写真のハーゲンダッツのアイスクリーム店もあったが、15分程立ち寄った文房具店の豊富で珍しい品揃えに魅力を感じた。

  

集合後、ドイツ第一のフランクフルト空港に行き、搭乗手続き後、20;45発の全日空機で成田に帰国した。
私はさすがに長旅で疲れたらしく、飛行機が離陸すると機内食の夕食が出る前に寝込んでしまったらしい。(友人はその夕食が美味しかったと言っていたので、私は何故起こしてくれなかったのか残念だった) 11時間15分かかった飛行中、多分8時間以上は窮屈な姿勢のまま熟睡していたのだろうと思う。
成田に翌日の15時に着いたが、札幌行きに乗り換えて帰宅したら22時を回っていた。今回は遠いヨーロッパの往復はやはり疲れると特に強く実感した。




こうして旅日記を書き終えて強く思った事は、①ドイツ人は過去の歴史や遺跡、古い記憶や建物に誇りを持ち、大切にする国民だったという事だ。
石の建造物が多い事からも、長く残りやすいとも言えるが、戦争で破壊された建物を何年もかけて復元する強い意思には見習いたいと感じた。
やはり歴史は、実物が残っていて初めてリアルに子孫に伝わる。また、権力者が建てた豪勢な建物も、当時の建築家や芸術家の技術を集めたものだと考えると、皆、人類の大切な遺産なのである。

②食事はじゃが芋と肉やソーセージが中心で、ホテルではパンは朝だけ出た。レストランの昼夜の主食は、付け合せのじゃが芋だけ。写真左は、茹でたビーフの薄切り肉に添えられたじゃが芋だ。右はチキンに添えられたじゃが芋。じゃが芋も肉も茹でただけでほとんど味がつけられていなく、ソースが掛かっていた。

      

私も帰国後は、ドイツに習って自分で収穫したじゃが芋を一生懸命食べている所だ。じゃが芋は調理しても壊れにくいビタミンCを含み、高血圧を抑制するカリウムも多い。また味が淡泊なので調理法を工夫すれば美味しく飽きずに食べられるのだから。

③またバスで移動中、あちこちで風車を見た。
ドイツはエネルギーの9.3%(2004年 出典: VDEW 2005, estimated; BMU 2005, preliminary)を再生可能エネルギーで賄っていて、その内訳はバイオマスが1.6%、水力が3.4%、風力が4.2%、太陽光0.1%だ。いずれも発電した電力を近場の発電所が買い取らなければならないことになっていて、実際に家庭が買う電気の料金は値下がりして来ているという。
ドイツは風力による自然エネルギー先進国だったのだ。しかし、風車を建てる場所がもう飽和状態なため、今後は海上に建設することも検討されているらしい。

  

今回、歴史が色濃く残るドイツの街々を訪ねて、多くの事を学び、楽しかった。いつかもう一度、ベルリンには行きたいと思っている。
この記事を読んでいただいた方々には、長く拙い「ドイツの旅」の報告にお付き合いいただき、またコメントを寄せていただいた事に感謝している。
私が撮った写真と書いた文が分かりにくかったのではと心配している。(完)





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ドイツの旅(17)

2011年11月01日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪マインツ・フランクフルト市内≫
ドイツの旅も最終日、9日目になった。3泊したフランクフルトのホテルで朝、スーツケースを廊下に出してから3回目の豪華なバイキング式朝食を食べ、9;30にバスで西方45kmの町、マインツに向かって出発した。

先ず、シャガールの描いたステンドグラスで有名な「シュテファン教会」に行った。
住宅街の静かな場所に立つ小さな教会だったが、ここは14世紀に建立され、戦災後修復されたらしい。
シャガールが1978年にユダヤとキリスト教の協調を表すものとして正面のステンドグラスをデザインしたと言う。シャガールに依頼したのは、ロシア生まれで自身が東洋系ユヤダ人だったからだ。
中は青色のステンドグラスを通して入ってくる青い光に満たされていた。ここでシャガールの絵の小さな来年用カレンダーを土産に2つ買った。

   

その後、モダンな住宅街を抜けて、旧市街の「マインツ大聖堂」まで歩いた。その途中の住宅街で素敵な像の噴水を見つけた。雨の日はさらに傘から多くの雨が流れ落ちてリアルさが増すのだろうと思った。
「マインツ大聖堂」はドイツの三大聖堂に入るそうで、起工は975年だと言う。大きな主祭壇には、とても荘厳な印象を受けた。
大聖堂前の広場では、丁度週3回開かれると言う朝市が開かれていて、野菜、果物、パスタ、ワイン、蜂蜜など多彩な商品が並べられていたが、パスタを袋に入れて人形にして売っている店が珍しかった。また大きなマンゴーなども珍しかった。

   

   


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ドイツの旅(16)

2011年10月30日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ケルン≫
ザンクトゴアで昼食を食べてからバスは世界遺産「ケルン大聖堂」がある北西140kmの町、ケルンまで走った。
ケルンは人口100万人の重工業が盛んな大きな町で、毎年多くの見本市が開かれているらしい。

ドイツ一の大聖堂は、高さ157mの2つの尖塔が空に聳え立つ。外から見ても中に入っても確かに壮大な教会で、とても写真に入るものではなかった。
1248年に着工して以来、300年もの工事中断期間を経て、建設続行開始後、完成したのは1880年だという。

   

教会周辺の店を覗いた。パン屋が美味しそうなパンを売っていたので1個買って歩きながら食べた。傍のクリスマス商品を置いてある店で瀬戸製の小さな天使を2個買った。
それから大聖堂広場角の喫茶店のトイレを借りた。0.5ユーロだったが、デザインの斬新さに驚いたので写真を写した。
私が入ったすりガラスでできた女性の個室には、日本の芸子さんの後ろ姿の写真が額に入って飾られていた。手洗いでは、手をかざすと噴水状に水が出て驚いた。こんな水の出し方は不経済極まりない筈だが、ドイツ人の遊び心をデザインしたのだろうと思った。

   

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ドイツの旅(15)

2011年10月29日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ライン川クルーズ・ブリューリュ≫
8日目午前中は、古城を船から楽しむ「ライン川クルーズ」だった。フランクフルトから西に70kmのリューデスハイム迄バスで行った。ここにはクルーズ船の乗船場があるからだ。
ライン通りでバスから降りると、小高い丘の裾野に多くの住宅が見え、背後に葡萄畑が広がっていた。この地域には有名なワインの醸造所が多いらしい。バス通りに面した大邸宅(ホテルかも)には素敵な薔薇が植えられていた。①
程なく着いたその町の有名な「つぐみ横町」②を少し見てから船乗り場に行った。この小さな通りには、美味しいワインを飲ませる店やレストラン、土産物屋があるのだ。

 ① ②

船乗り場には既に3つ位のグループが並んでいた。船に乗り、早速、両岸が見渡せる屋上に行ったが、今にも雨が降りそうな天気で風もあり寒かったので、二階船室に入って暖かいコーヒーを飲みながらくつろいだ。
ライン川は、スイスアルプスを源にオーストリア、ドイツ、フランス国内を通り、オランダのロッテルダムから北海に注ぐ全長1320kmの国際河川であるが、その内の698kmはドイツ国内を流れている。流れが緩やかなため、昔から水運に利用されて来た河川で、有力領主は航行の安全を保障する代わりに通行税を取った。
また川の両岸に葡萄畑を作り、美味しいワインを醸造する領主も多く、幾つもの古城が今も残っているのだ。
約1時間半のクルーズの終わりころ、川岸にローレライの乙女像が見える所があった。
そのあたりは断崖絶壁の下で、河底が狭く深く急カーブになっていて航行の難所といわれる所だ。そんな場所なので、昔から川岸で髪を梳く金髪の妖精が操縦者の気を引き、船を遭難させると言うローレライ伝説が伝えられている。
しかし、船上からは像は遠すぎて良く見えなかった。(前回は今回とは反対の岸で下船したので、像の近くをバスで通った時に良く見えたが)

   

         

ザンクトゴアで下船し、バスでブリューリュに戻り、ランチを食べた。
ブリューリュでは、世界遺産「アウグストゥルブルク城」の庭園を散策した。
前から私は気づいていた事があった。花の植え方が私達とは違うのだ。ドイツでは予め数種類の種を混ぜ、それを掴んで庭に撒き散らしたような感じに花が植えてあるのだ。つまり花壇には、種類が違う色とりどりの花を混ぜて植えてあるのだ。私達と庭作りのセンスが大分違うと思った。
(そういえばTVで、世界的に有名なドイツの鍋の工場が出てきたが、鍋に求める日本人の色にはピンクや黄色もあってヨーロッパ人の好みとは違い面白いと経営者が言っていた)

   

  

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ドイツの旅(14)

2011年10月28日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

今朝の当地の気温は4℃。かなり寒いので庭仕事は2時間後位からしたい。一昨日7℃の中で仕事をしたら、厚手の手袋を履いていても指先が冷たくて痛くなったから。

≪ハイデルベルク≫
ローテンブルクでランチを済ませてから、バスで西方90kmの所にあるハイデルベルクまで古城街道を走った。
ハイデルベルクに着くと、先ず市内を見下ろす事ができる「ハイデルベルク城」の展望テラスに行った。眼下にネッカー川にかかる「アルテ(古い)橋」と旧市街が広がった数年前の懐かしい街並みを望むことができた。(ハイデルベルクを流れるネッカー川は西隣の町マンハイムでライン川に合流する)写真①
「ハイデルベルク城」の大半は幾度の戦争や火災、落雷で破壊され、今残るのは展望テラス、中庭、フリードリヒ館、ハインリヒ館位のものだが、存続を望む市民の声が強いという。

その後、崩れた古城の周りを散策後、坂を下りて「アルテ橋」に行った。入り口の「橋門」(②は橋から門の向こうの市街を見た。③は橋の手前から門の上を写した) をくぐって橋の中ほどに進み、そこから「ハイデルベルク城」の写真を撮った。④

 ① ②

     ③ ④ 

この町にあるドイツで最も古い大学「ハイデルベルク大学」は1386年に創立されたノーベル賞の受賞者が7人も出ている大学だ。町中に学部が散在し、3万人の学生の多くが自転車で行き来していた。
大学の裁判所で入牢の決定を受けた学生が入って暮らした「学生牢」もあった。6畳間程の広さがあって快適な生活ができたそうだ。
ドイツは小学校から大学までの教育費が無料なので、日本からの留学生も多いらしい。
「聖霊教会」⑤には入らなかったが、ステンドグラスの一部に広島に原爆が落とされた日が赤いステンドグラスに記録されているそうだ。
楽しい連結バス⑥が走る旧市街を散策したり、少しの時間、店を覗いたりしてからフランクフルトのホテルに戻った。

 ⑤ ⑥



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ドイツの旅(13)

2011年10月27日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ローテンブルク≫
7日目はまずフランクフルトから100km南東の町、ローテンブルクを目指してバスは走った。
ローテンブルクはロマンチック街道の北側にある城壁に囲まれ、中世のたたずまいが未だにそのまま残る小さな町だ。9世紀に町が造られ、12世紀にホーエンシュタウエン家の城が造られた。
1172年には神聖ローマ帝国皇帝より自由都市の特権を得て、市民に自治権が与えられた。その後、市民の力で町を取り囲むように屋根つきの城壁を築いたのだと言う。
しかし、第二次世界大戦で破壊されたが、世界中から寄せられた寄付で修復されたのだという。

    

マルクト広場に面した「市議宴会館」の仕掛け時計が有名である。
1631年、皇帝軍がプロテスタントの町を包囲した時、将軍が「もし誰かが3.25Lのワインを一気に飲み干したら全員を処刑しない。」と言った。当時のヌッシュ老市長が飲み干して町を救ったという故事にちなんで仕掛け時計が1683年に取り付けられたのだ。右の人形が、大きなカップで飲んでいるのが分かるだろうか。 
また「市議宴会館」にコの字型につながる「市庁舎」は16世紀に建てられたもので、高さ60mの塔を持つ。

        

  

数年前、娘と来た時はこの町に一泊したので、30~40分、ぐるりと城壁の上を歩いて町を見たり、「市庁舎の塔」に登ったりできたが、今回は自由時間が少なく、私はぶらぶら、友人は「聖ヤコブ教会」に入っただけだった。
散策していたら広場の方から賑やかな音楽が聞こえた。楽隊が来た。見ると楽隊員は皆中高年の人だった。ひょっとしたら市役所の職員さんたちなのかも知れない。町興しに一役買っているのだと思った。

 


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ドイツの旅(12)

2011年10月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ヴェルツブルク≫
その後、西へ100km離れた町、ヴェルツブルクに行った。この町はロマンチック街道の北の起点の町だが、紀元前1000年頃にはケルト人が砦を築いていたという。
7世紀にアイルランド人司教キリアンがこの地で殉教した後、8世紀には司教座がおかれ、司教領主(教会内部だけでなく、町全体の支配権を有した司教)の下で発展を遂げた町らしい。
長崎の出島で活躍したシーボルトやX線を発見し、最初のノーベル物理学賞を受賞したヴィルヘルム・レントゲンの出生地でもあるらしい。

私たちがバスを降りて最初に向かったのは、世界遺産「レジデンツ」だった。
ここは1720~44年に建てられた大司教が暮らした宮殿である。今回はオプショナルで入場した。(旅行会社は、こんな凄い世界遺産に初めから入場する計画を立てるべきだと思った)
バロック調に作られた絢爛豪華に飾られた広大な部屋が幾つもあり、およそキリスト教会の司教の住まいというイメージとはかけ離れ、フランスのベルサイユ宮殿を小型にした様な所だった。
2階に上がる「階段の間」(広さは33×18m)の2階までの吹き抜けの天井に描かれた見る者を圧倒するフレスコ画は、世界一の一枚絵のフレスコ画だという。
去年、バチカンの美術館に行った時に感じたのと同じく、信者には清廉潔白を説きながら、権力を持った大司教たちは庶民とは余りにもかけ離れた暮らしぶりだったのだ。

  裏庭

(調べて見たら、マルチン・ルターの宗教改革の影響を受けた農民たちが、1524年に教会と諸侯の圧政に対して次々と各地で釜や槍などを持って蜂起したドイツ農民戦争では、司教領主たちが結束して立ち向かった。その時「ライブハイム」では、1000人の農民が虐殺され、ドナウ川に捨てられ、全土では10万人の農民が殺害されたという悲惨な歴史もある。最も多くの農民が戦った地域は「チューリンゲン」だったらしい。この後、農民への搾取はますます強まったと言う)

その後歩いて大聖堂に向かい、市庁舎の前を通り、マイン川にかかった「アルテ・マイン橋」に行った。橋は観光の名所だけでなく、市民の憩いの場らしく大勢の人々が行き交っていた。

 奥が大聖堂、左が市庁舎  

その橋から北側を見ると葡萄の段々畑が広がっていた。反対側を見ると小高い丘の上に「マリエンブルク要塞」が見えた。ここは「レジデンツ」が建つ1719年まで歴代大司教の居城、兼要塞だったところだと言う。
(写真の様に橋脚の全てが水中にむき出しではなく、水の強さを弱めるため上下の流れに向かって石と土を盛って守っていた。感心した。)

  

観光を終え、バスはホテルがある120km西のフランクフルトを目指した。その夜から「シェラトン・コングレスホテル」に3泊した。



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ドイツの旅(11)

2011年10月25日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪バンベルク≫
6日目は8;45と少し遅い出発だったので、朝食を終えてからホテルの付近を散策した。直ぐ傍に「チューリンゲン駅」があったので行って見た。
入り口を入るとすぐ右手が書店だった。駅の奥に行くと食料品店、パン屋、果物屋、肉屋、園芸店などが営業を始めていた。果物屋の店先に400g程のパックに入った苺が並べてあったが、真っ赤に熟して美味しそうだったので買った。1.99ユーロだった。(これは日本の半額以下だと思った)
女性店員は私たちを旅行者だと見たようで「洗いましょう。」と言って水道で洗ってくれたので、そのままバスに持ち込んで友人と分けて食べた。完熟した甘い苺だった。
切符売り場が見当たらなかったので、そのまま列車が停まるホームに行って見た。切符は乗ってから車内で買うのかも知れないと思った。

   

その日はまた南に100km以上走り、バイエルン州の水の都バンベルクに行った。ここは第二次大戦の戦禍を免れた町なので、旧市街は中世のたたずまいが残り、世界遺産になっているのだ。
バスを降りてレグニッツ河に沿った小ベニス地区に行った。かって猟師町だったらしいが、古い木組みの家々が川沿いに立ち並んでいた。アイビーゼラニュームで美しく飾ってあった。

 

小ベニス地区から500m程歩くと小高い場所に出た。そこには古い大聖堂①が聳えていた。1012年に建てられた後、火災に遭い、1237年に再建されたと言う。添乗員の話を聞いていたら、大聖堂の昼休み時間になってしまい、中に入れず残念だった。仕方がないので直ぐ傍に建つ、かって皇帝と司教の居城だった旧宮殿(今は歴史博物館になっている)②に行ったり、その隣の新宮殿③の裏庭を見学したりした。旧宮殿には真っ赤なゼラニュームがずらりと飾ってあって、古い建物を華やかにしていた。
新宮殿の裏庭からは、遠くの丘に「聖ミヒャエル教会」④が望めた。ここは1015年に修道院として造られたのだそうだ。
バンベルクの古い建造物からも、当時の建築技術の素晴らしさを思った。

       ① ②

 ③ ④

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ドイツの旅(10)

2011年10月24日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ライプツィヒ・ワイマール≫
ポツダムを見学後、270km南西のライプツィヒに向かい、そこで昼食を食べた。
この町は古くから商業、金融の町として発展し、ドイツで3番目に古い大学があり、ゲーテ、ニーチェ、森鴎外も学んだと言う。
印刷、出版が盛んな町としても有名で、世界初の新聞が発行された町である。かってはドイツの出版物の半数以上がライプツィヒで印刷されていたらしい。
また1989年、この町最大のニコライ教会(1165年建立)は、平和の祈りに集まった若者たちが民主化を掲げたデモをした事がドイツ統一のきっかけとなったという歴史的に有名な教会であるが、今回その教会には行かなかった。

午後はさらに270km南西にあるワイマール市に向かった。
私は、高校時代に世界史で習った民主的な『ワイマール憲法』が制定された土地として記憶していたが、この町でゲーテは、1775年26歳でやって来てから亡くなる82歳(1831年)までを過ごし、『ファウスト』などの文学を生み出したのだ。またゲーテと並んで評されるドイツ古典文学者で劇作家のシラーも、ゲーテに招かれてやって来て、ここで『ウイリアムテル』を書き、亡くなったという。
『ファウスト』や『ウイリアムテル』が初演されたという国民劇場は何度か火災で消失したらしいが、今のは1907年に再建されたものだ。国民劇場前の広場には二人が並ぶ大きな像が建っていた。それを見て二人が町の誇りなのだと強く感じた。写真①
ゲーテが亡くなってから180年経ったが、彼が56年間住んでいたという家②とシラーの家③が保存公開されていた。私たちは外から写真を写しただけだった。
高校時代にゲーテの著作は世界文学全集で読んだが、シラーの作品は『ウイリアムテル』の童話を知っているだけなので、今度図書館で探したいと思っている。
この国民劇場④では、1919年に『ワイマール憲法』が採択されている。

   ① ②        
             ③ ④

その日のワイマールでは、丁度、「玉ねぎ祭り」が行われていて、旧市街のゲーテ広場や通りは数えきれない程多くの出店と行き交う人々で大混雑していた。出店には小玉葱で作ったリースや飾りなどが売られていて、地元の人たちが買い求めていた。飲食関係の出店も多かった。
国民劇場前広場には舞台が作られ、電子ギターの音楽が演奏されていて、大音響のスピーカーで響いていた。それを見て私は、こんな祭りもいいなと思った。

  

ワイマール見学を終えてから、その日の宿泊先である隣町エアフルトの「エクセルシオールホテル」に向かった。


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ドイツの旅(9)

2011年10月22日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ポツダム≫
5日目はベルリンのホテルを出て、45km離れた隣町・ポツダムに向かった。車窓には林や公園が次々と現れ、自然の豊かさを感じた。
ポツダムでは、まず小型の「ブランデンブルク門」でバスから降り、プロイセン国王フリードリヒ2世の夏の宮殿だった「サンスーシ宮殿」の広大な庭園を散策した。
この宮殿の名を「無憂(サンスーシ)宮」としたのは、文学や芸術を愛した若き国王が、嫌でも政治や軍事に関係せざるを得なかったために憂いの無い場所を求めて建てたといわれている。
かなり奥まで歩いて行くと、右手の小高い場所に「サンスーシ宮殿」があり、その下には階段状に葡萄が植えられていた。早朝の空気はヒンヤリしていて、ドイツの晩秋を感じた。

  



その次に向かったのは、第二次世界大戦後の収拾策を話し合う戦勝国の会議が行われた「ツェツィリエンホーフ宮殿」だ。
ここは1917年に建てられたホーエンツォレルン家最後の王子が住んでいた宮殿で、湖を背景にして建てられた英国風カントリー調の城だった。
中に入り、幾つもの部屋を案内された。(内部は撮影禁止だった)
この宮殿で第二次世界大戦末期に米、英、ソ、中4か国の首脳が集まって会議をした部屋や資料が保存されていた。会議に使われた部屋は庭に面した大きな部屋で、中央に大きな円卓が置かれていて、座席に優劣が無いような配慮がされていた。
日本にとっては、ここで決まった「ポツダム宣言」を無条件で受諾して敗戦したという歴史的な場所だけに、今回の旅で実際に行けたことを感銘深く、重く感じた。
ポツダムを案内してくれたガイドは、フンボルト大学で政治学を専攻し、日本語を学んで、日本の京都大学に10か月研修に行ったという中年女性だったが、日本語が上手く、「ツェツィリエンホーフ宮殿」での説明も私たちの感情を配慮し、客観的な事実をきちんと話してくれて大いに好感が持てた。
私たちが出た後に欧米人のツアーが入って行ったが、どこの国か聞かなかったのが残念だった。

  

その後、緑が多く落ち着いたポツダムの町をバスで回ったが、かってこの町はソヴィエト連合軍の滞在地だったということで、軍人の宿舎跡が沢山残っていて、今は色々な目的に使われているようだった。

        

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ドイツの旅(8)

2011年10月21日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ベルリン②≫
ベルリン市内中心部をざっとバスで回ってから「ペルガモン博物館」に行った。私自身勉強不足で事前の知識が全く無かったので、行って見てベルリンにこんな素晴らしい古代遺跡があったことを初めて知った。
「ペルガモン」は現在のトルコ領、トロイ遺跡の北側に隣接する古代オリエントの都市だった所だという。そこから発掘した紀元前180~160年の「ゼウスの大神殿」は体育館の様な大きい部屋一杯に保存再現されていて、入場者は祭壇の上迄行く事ができる。本当に素晴らしい芸術作品だし、人類の遺産だと思った。

   

              

次の部屋には古代バビロニアのネプカドネザル2世時代(紀元前603~562年)の「イシュタル門」などの遺跡が再現保存されていた。門を飾る数々のライオン像は、立体的にリアルに描かれ、2500年以上前に作られたにもかかわらず色も鮮やかさを失っていない事に驚いた。「行列通り」のライオン像も素晴らしかった。

  

この遺跡がベルリンにある経緯をネットで調べてみると、1864年にカールフーマンらが発見したもので、外交交渉で金を払って買い入れたのだそうだ。その後、1910年から保存のため建物の建設に取り掛かり、1930年に完成した。
しかし第二次大戦中、「大祭壇」は戦利品としてレニングラードに持ち去られたが、1959年に東ドイツに返還されたそうだ。機会があれば再訪して、もう一度じっくり見たい博物館だった。

博物館を出てからバスに乗って「ブランデンブルク門」の見学に行った。
ところが車道がプラカードなどを持った一杯の人で塞がれていてバスが進めない。警察官が警備しているようだった。
私たちはやっとバスから降り、歩道を歩いて門に向かった。ガイドに聞くと、ロマの人達が就職や生活向上を政府に訴えるデモなのだと言う。
「ロマ人」というとエジプトに起源を持つ流浪の民たちで、ヨーロッパの他の国々ではキャンピングカーなどの車中で生活し、スリや子供を使った窃盗等で暮らしている人達だと今まで私は思っていたので、正々堂々と市民権を行使しようとする姿を見たのは初めてだった。しかし彼らの主張は人間として当然だと思った。

 

ガイドの案内で「ブランデンブルク門」の近くに行った。門は1791年、プロイセン王国の凱旋門として、ギリシャのパルテノン神殿の列柱門を模倣して作られたものだが、上部の古代4頭立て二輪馬車は1806年にナポレオンが戦利品として持ち去った事があるらしい。
ガイドは以前、壁が直ぐ近くにぐるりとあり、門をくぐることができなかったと説明した。壁があった所の道路上に「ここに壁があった」と刻まれていて、その傍に、壁が壊された日、大勢の人々がよじ登った写真が掲示されていた。門は今、統一ドイツのシンボルになっているようだった。
  

ベルリン市内には見るべき場所が沢山あるのだが、見学コースと時間が限られたツアーではそのごく一部分しか見られない。できればもう一度ベルリンに行きたいと思い始めている。

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ドイツの旅(7)

2011年10月20日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪マイセン・ベルリン①≫
6日目はドレスデンのホテルを出て25km北西の町、マイセンに向かった。マイセンはヨーロッパで初めて白磁を作った高級な陶磁器工房がある事で有名だ。
入り口に中国女性が画かれているショウルームに入ると、中は幾つかの部屋がつながっていて、様々な高級陶磁器製品が置いてあった。私は食器類が主だと思っていたが、立派な置物も多く飾られていた。それらの値段はどれも驚く位高かった。日本にも東洋陶器など世界に誇る素晴らしい工場があるので、私の日常生活で使う物は日本製で十分だと改めて思ったが、目の保養にはなった。(かってマイセンは、有田焼に学んだ歴史がある)
奥に行くと、ろくろ、型取り、部品の貼り付け、絵付けなどの手作業を担当者が実際にやって説明してくれた。2階ホールでツアー客のためのマイセン陶器で作ったパイプオルガンによるミニコンサートもあった。

   




昼食後は北に195km(3時間)走って、ベルリンに行った。私がベルリンを訪れるのは初めてだった。
かって西ベルリンは東ドイツの中にあったが、1989年11月9日、西ベルリンを取り囲んでいた155kmの「ベルリンの壁」が崩壊し、東西ドイツが統一され、再びベルリンがドイツの首都になってから22年が経っている。(10月3日が再統一記念日だ) 
現在ベルリンの人口は300万人だが、その55%が旧東ドイツの人で、45%が旧西ドイツの人だという。

バスはかっての東ドイツだったところを主に走った。ベルリンの官公舎、大学、ブランデンブルグ門、TV塔、大聖堂などが立ち並んでいたが、随所に大きな林の様な公園や動物園があって、自然に恵まれた都市という印象を受けた。
バスに現地を案内する女性ガイドが乗って来て、バスの窓外に次々と現れる建物を「あれが」「これが」と言って指すが、バスが早すぎて建物をさっぱり認識、記憶できなかったし、ガラス越しの写真もまともな物にはならなかった。だからと言って歩いて回るのには広大過ぎる町なのが悩ましかった。

写真①「ベルリン大聖堂」高さ114m幅73mの巨大な天井ドームがある。7269本の管のパイプオルガンがあるらしい ②「ドイツ歴史博物館」1706年建設のプロイセン武器庫の後を改修し、2006年6月オープンした。ドイツ最大の歴史的収蔵物と展示を誇る ③「フンボルト大学」カール・マルクス、ヘーゲル、アインシュタイン、グリム兄弟らを出したドイツの名門大学  
 ① ②

                  ③

④「市庁舎」赤レンガで作られているので赤の市庁舎といわれる ⑤「TV塔」と「マリエン教会」TV塔は365mの塔。マリエン教会はベルリンで古さ2番目の教会で1270年にできた。森鴎外の「舞姫」に出て来る

 ④ ⑤

⑥「ツォー駅」 ⑦新しい郊外のスーパー 

        ⑥ ⑦

バスで市内中心部を巡った後、私たちが下車したのは、「ベルリンの壁」「ブランデンブルグ門」と、世界遺産「ペルガモン博物館」だった。
まず、現在数か所残されている「ベルリンの壁」だが、私たちは「イーストサイドギャラリー」に行った。
ここには1.3kmの壁が残され、そこを国内外の118人の画家が描いた絵で飾り、公開されている。絵には、長かった忌まわしい時代を乗り超えたベルリンの悲しみの記憶と平和への願いが画かれていた。一時ひどかった落書きを2009年には消して、新たに絵を保存する取り組みも行われているようだ。
1番有名な絵は「ブラザーキス」で、東ドイツの指導者エーリッヒ・ホーネッカーとソ連書記長レオニード・ブレジネフの抱擁を描いたものである。

   


















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ドイツの旅(6)

2011年10月19日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ドレスデン≫
3日目の午後、バスはニュルンベルクの北東320kmの所にあるドレスデンを目指してハイウエーをひた走った。
途中、コーヒーショップを兼ねた店でトイレを借りた。
ドイツのトイレは、ホテルや食事を摂ったレストラン以外は有料で、入り口にいるおばさんかおじさんに0.3~0.5ユーロ(日本円で30~50円)渡して使わせてもらうのだ。たまに誰もいない時もあった。
ところが、人はいなくて使用料のチケットを機械で買う店が数箇所あった。大抵、0.7ユーロ払うと0.5ユーロの金券が出て来て、それを店で買い物に使えるのだ。勿論1ユーロコインを入れると釣りも出て来た。
しかし、そんなトイレの店を良く観察すると商品価格が高めに設定されていた。しかし3~4枚溜まったのでそれに現金を足してチョコレートを買ったりした。そんなトイレの入り口は1人ずつしか入れないようになっていた。写真のトイレはチューリンゲン駅のトイレだ。コインを入れるとガラスの戸が短時間開く仕掛けだった。(居合わせた女性の了解を得て、写真を写した)
また、日本のような洗浄便座には、1度もお目にかからなかったし、トイレットペーパーはどこのもかなり厚く固めで、節約するように作ってあると感じた。

          

道路沿いの農地には、菜の花が咲いていたり、まだ大きくなっていない甜菜の畑があった。収穫前の枯れたトウモロコシもまだ沢山植えられていた。トウモロコシは多分家畜の飼料用だろう。長い杭が沢山残っている畑は、ビールの製造原料にするホップを植えてあったらしかった。芋などの取り入れが終わったせいか、多様な作物は植えられていなかった。
広大な牧草地も沢山あって、牛が放牧されていた。ヨーロッパでは放牧地と畑地を1年おきに使うと聞いた事がある。

  

ドレスデンに着いたら、すでに夕刻だった。
この町は1945年に爆撃されて町の90%が壊滅したらしいが、第二次大戦後、芸術とバロックの町として復興を遂げたという。
エルベ川を挟んで旧市街と新市街に分かれていて、私たちは旧市街の中心・「劇場広場」でバスから降りた。
広大な劇場広場を囲むように壮大な建造物のザクセン王国時代の「ツヴィンガー宮殿」「レジデンツ城」「ブリューリュのテラス」「ゼンパー・オペラハウス」があった。(一度に多くの建物を見たので記憶が定かでなく、写真の説明に一部間違いがあるかも知れない。もしも気づいた方は指摘をお願いしたい)
「ツヴィンガー宮殿」は、1710~32年にザクセン・ポーランド王のアウグスト大王が建てたバロック式宮城である。噴水のある広大な中庭も印象的だった。中庭に向けて設置されている時計の左右には、マイセンの陶器で作ったカリヨンがあった。

  

「レジデンツ城」は、13世紀に建てられたザクセン王の居城である。
また「ブリューリュのテラス」は「劇場広場」の隅の小高い場所に作られた遊歩道がある庭園で、そこに登ると広場とエルベ川、遠くに対岸の新市街を見渡せた。

  

「ゼンパー・オペラハウス」は1841年に建てられたヨーロッパ屈指のオペラ座で、ワーグナーの「タンホイザー」などが初演された所だと言う。

ひとしきり広場を見た後、少し離れた「聖母教会」に向かう途中にザクセン王の「君主の行列」をマイセン陶器のタイルで描いた101mもの壁画があった。王は自分の強い権威を後世にまで残したかったのだろう。この建物は、現在は交通博物館として使われているそうだ。

 

「聖母(フラウエン)教会」は、11世紀からあるプロテスタント教会のシンボル的教会だ。
1945年2月、英米同盟軍の爆撃で崩壊したが、戦後、崩れた壁の破片はボランティアの市民の手によって番号が振られ保管されていた。1989年ドイツが再統一されると、一気に再建活動が強まり、12500万ユーロという再建費用の大半は市民、諸団体、旅行者の寄付などによって賄われ、ついに2005年、修復再建された。写真をよく見ると、古い石と修復に用いられた新しい石の色が違うのが分かる。廃墟を再建へと導いた市民の熱意と長い間の努力は感動的だ。その前庭には巨大なマルチン・ルターの銅像が立っているが、今回、見学時間を取ってもらえず、内部を見て来られなかったのが本当に残念でならない。

 

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ドイツの旅(5)

2011年10月18日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ニュルンベルグ≫
3日目、ホテルを出て、ニュルンベルグの市内観光に向かった。
この町はバイエルン州第2の都市で、旧市街には神聖ローマ皇帝、ハインリッヒ3世が1050年に建てた居城「カイザーブルグ」があり、旧市街は高い城壁で囲まれている。
カイザーブルグの見晴らし台から、市街を眺望した。遥か眼下に人々が暮らす街が見えた。
すぐ下の傾斜がきつい家の屋根に人が見えた。どうやら屋根を直している所のようだ。この国の人は数百年経った石造りの家を、大切に補修しながら住み続ける事が多いのだろう。

  

 

旧市街の真ん中にある中央広場に行った。広場の入り口には40の像で作られた「美しの泉」があり、向こう側には仕掛け時計が有名な「聖母教会」が聳え立つ。この広場では、毎年、ドイツ最大のクリスマス市が開かれるそうであるが、その時は市場が出ていた。
オレンジが美味しそうだったので買った。聞くとスペイン産との事だった。傍に見たことが無い野菜が売られていた。葉や茎はセロリに似ていたが、球状の根を食べるのだろうか。
また教会の傍の菓子屋でクッキーを買った。プチプチに包んで持ち帰り、帰宅後食べて見たら、シナモンがたっぷり入った美味しいクッキーだった。更に傍のスーパーではチョコレートも買った。

   

 

そこから少し歩いて博物館橋に行った。ドイツで初めて作られたという「聖養老院」が川の上に張り出していた。

 

ヒットラーはニュルンベルグの町が好きで、1935年9月15日にナチ党の国会をここで開き、ユダヤ人の公民権をはく奪した『ドイツ人の血と名誉を守るための法律』『帝国市民法』を制定した。これらの法律は『ニュルンベルグ法』と言われている。
スタジアムや会議堂も建てかけたと言うが、今回はその場所には行かなかった。

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ドイツの旅(4)

2011年10月17日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪ヴィース教会・レーゲンスブルク≫
2日目、ノイシュバンシュタイン城見学後、午後は20km離れた場所にある世界遺産「ヴィース教会」(1746年建立)に向かった。
馬の放牧地の隣にぽつんと建っている教会で、内部がロココ風の明るい装飾になっていた事に驚いた。
ツインマーマンが描いた天井画と祭壇の古いキリストの木の彫刻が奇跡の涙を流した事で有名だという。

   

         

その後、240km北東のドナウ河畔の古都、レーゲンスブルクに行った。
ここには2000年前のローマ時代の街道があり、バイエルンの最初の首都が置かれた町でもある。
町の入り口には大きな古い石橋が掛かっていて、ローマ時代の城門が残っている。町の多くの建物は綺麗に思い思いの花で飾られていた。2本の塔を持つ大きなステンドグラスの古い大聖堂は、ドイツで初めて少年合唱隊が誕生した所だそうだ。

最後の写真は、旧市街で見つけたオスカーシンドラー(ドイツ人実業家。ナチ支配下の第二次大戦中、強制収容所にいた1200人のユダヤ人を自分の工場で虐殺から救ったと伝えられている)が、一時、暮らしたという家である。

  

   

         

レーゲンスブルグ観光を終えてから、バスは110km北にあるニュルンベルグ迄走り、ホテルに入った。


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