今日は朝まで降っていた雨も上がったので、札幌に行き、美術巡りをすることにした。
一人ではつまらないので、従姉妹を誘って近代美術館で待ち合わせた。
従姉妹への土産に庭のキューリ、トマト、インゲン豆、サラダ菜、シシトウを大急ぎで摘んで、持参した。
先ず、そこで公開されていた『レオナード・藤田展』を、1時間半掛けて堪能した。
彼は1986年に東京に生まれ、東京美術学校卒業後フランスに渡ってピカソやルソーらと親交を深め、その影響を受けながら当時のエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍したのだった。
やがて、日本画の筆を使ったり、陶器の肌のような乳白色の絵画表現でヨーロッパで有名になる。
数枚の自画像や裸婦の絵には猫も書き込まれていて、独特な雰囲気を醸し出していた。大型キャンバスに描かれた多くが裸の男女の群像は見ごたえがあった。
晩年、彼はフランス国籍を取り、キリスト教の洗礼を受け、最後の仕事とした協会建設を手がけた。内部の壮大な壁画、ステンドグラスには、彼の画家としての集大成を見ることができた。
私は、こんな素晴らしい作品を残した日本人画家が居たのかと感動した。
しかし、当時の日本社会では、彼の様な自由奔放な絵画表現は許されない風潮があった時代だったと思うし、とりわけ戦争中、日本の軍部に依頼されて書いた軍人の群像画が、戦後非難を受けた事もあったらしく、彼が言うところの『日本に捨てられた』画家としての苦悩と人生が理解できる思いがした。
どの絵も荘厳な人間の存在と精神に満ちていたが、笑顔は一つも描かれず、生きる幸福感を感じさせられる絵はなかった。
最後に私は、彼が建築家と作り上げた協会の説明文の中に、『戦争や広島の原爆という悲惨な出来事が、世界から無くなる事を神に祈る』ための場として協会を建てた、と言う様な意味の事が書かれていたのを見つけたのだった。
美術館を出てバスに乗り、次に見に行ったのは無料で展示されていた『墨描・中国人強制連行図絵』展だった。
「人として忘れてはならない歴史がある」として、当時の中国人の強制連行の実態を墨で大判十数枚の絵に書き上げたのは、太平洋戦争末期、北海道岩内町(現在共和町)にあった鹿島組玉川事業所で管理人をしていた志村墨然人さん、85才だ。
彼は、その事業所で実際に見た自分の記憶を、そのまま絵に表したのだ。
絵は、数百人の中国人が列車で岩内駅に着いた所から描かれていた。
2日間の身体検査の後、初めてさせられたもっこ担ぎの絵、過酷な作業現場、集団逃走、捕らえられてからの拷問場面、過酷な労働と栄養失調で死んだある中国人の解剖場面図、その火葬の図、日本人囚人を使ったたこ部屋の作業場面などが、次々と白黒の墨による圧倒的な迫力で当時の実情を訴えて来るのだ。
日本は戦時中不足した労働力を、このようなすざましい非人間的なやり方で補ったのだという。見ていると辛くなった。
会場の片隅で画家の志村さんは取材を受けていたため、声を掛けたかったができなかった。それで私は記名帳に「有難うございました」と一言書いて出て来た。
戦後63年、もっともっと、当時の歴史的な事実を知ることが大切だと思った。
その後、二人で遅いランチを食べながら絵の感想や近況報告などおしゃべりをしてから帰宅した。
今日は全く異なる作品に触れる事で、それぞれに感動したり、考えさせられた一日になった。