読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

火星の人 (最後に少しネタバレ)

2016年01月09日 | SF小説

火星の人

著:アンディ・ウィアー 訳:小野田和子
早川書房


今年「オデッセイ」というタイトルで映画化するそうなのでネタバレなしでいきたいが、そうすると何も書けないのでまず差し支えなさそうということだけ書いてみる。

この小説は無重力宇宙空間からの地球への帰還を描いた映画「ゼログラフィティ」の火星版である。主人公マーク・ワトニーは不慮の事故で火星にひとり置き去りになる。そこから地球に生還するまでの物語である。

とはいっても火星から地球までのとほうもない距離を漂う話ではない。もちろん地球からは救助船がむかう。が、そこらに救急車が駆けつけるのとはわけがちがう。救助船の建造からはじまるが、宇宙船なんてのは技術にしても費用にしてもそう簡単につくれるものではない。

ゼログラフィティとの共通点としては、徹底的にリアリティ目線で書かれているということだ。科学的といってもよい。救助船がやってくるまで、ワトニーはどうやって生きながらえるか。どうやって火星の地で食糧をつくっていくか。酸素をつくっていくか。地球と交信していくか。そして、どうやって救助船とランデブーするか。
サイエンスの素養がない自分にはむしろ冗長に感じられたりもするのだが(映画ではどう描写するんだろうか)、生きた化学というのはこういうことなんだろう。



このようなサバイバルでは、何よりも大事なのはここはまず何をすべきかという優先順位のつけ方だろう。こそ小説では繰り返しそれが出てくる。最終的な目的は何か。そのために今ここで達成しなければならないことは何か。そのためには何が必要で、そのためにはなにを諦めなければならないか。こういった判断と実行の連続である。南極での遭難から帰還したシャクルトンのエンデュアランス号漂流記なんかとも通じる部分だ。主人公の性格は極めてやんちゃで前向きだが、計画の立て方は極めて戦略的で、到達目標から逆算しながら今すべきことを導き出しており、直感的な行動はほとんどない。これこそがサバイバルの最重要な点だと思う。



最後に少しネタバレ。
ゼログラフィティでもそうだが、中国が重要な仕事をする。日本人には気づきにくいことだが、あるいは気づきたくないゆえに気づきにくくなっているのかもしれないが、グローバルの協調を要する宇宙開発では中国は既にかなりの存在感をだしている。NASAにも中国人スタッフはかなり存在する。有人宇宙船を飛ばす国はアメリカとロシアと中国しかない。リアルに宇宙を描こうとするほど、中国が現れてくることが、この小説でもわかる。


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プロジェクトぴあの 南極点のピアピア動画 (ネタばれ)

2015年01月05日 | SF小説

プロジェクトぴあの

作:山本弘

南極点のピアピア動画

作:野尻抱介

 

 どちらも似たような道具立てでありながら、その世界観が真逆である。

 「プロジェクトぴあの」のほうは、ぴあのという超絶的天才少女(物語後半では立派に大人の年齢になるが)が出てくる。頭脳も嗜好も人間離れしている。驚異的な物理学の知識を有する一方、愛情や羞恥心の概念をいっさい持たない。およそアンドロイドを彷彿させる。アイドル稼業をやっており、歌唱が抜群にうまく、しかも投稿動画から出発しているからして、このぴあのというキャラクターは人間なのだけど、ボーカロイドそれも初音ミクを想起させる。

 だけれど、ぴあのは人間である。その超絶人間であるぴあのは、宇宙にあこがれる。どうすれば宇宙、それも大気圏外とか月面までとかケチなレベルではなく、太陽系外への旅立ちを本気で目指す。そのために現代物理学そのものに挑戦し、ついに推進エネルギーの方程式をみつける。これは宇宙旅行だけでなく、地球規模のエネルギー革命といってもよいのだが、ある日、ぴあのは一人宇宙の果てを目指し、人々の前から姿を消す。

 「プロジェクトぴあの」の根底にあるのは、人間文化への悲観である。宇宙を目指すぴあのは人間だけれど、市井の人間とはまったく相いれないタイプであり、彼女の計画を邪魔するのは人間の欲望や人間の打算である。彼女自身が人間というものに常に絶望し、人間を捨てて一人宇宙へ経つ。生来の夢を実現するために。最終章の虚無感といったらない。

 

 いっぽう、「ピアピア動画」だが、こちらも初音ミク的なものが出てくる。が、こちらは人間ではなく、アンドロイドと、なんと地球外生命体である。それをとりまく人間たちが宇宙を目指す。

 「プロジェクトぴあの」が人間へのニヒリズムであるとすれば、「ピアピア動画」に通底しているのは人間賛歌であり、徹底的なオプティミズムである。「プロジェクトぴあの」と同様に、投稿動画((これのモデルはニコニコ動画である)を中心としたボトムアップで、ついにアンドロイドが動く。また、宇宙に行くための技術が組み上がっていく。集合知のすばらしさが描かれる。物語の後半で地球外生命とファーストコンタクトをするが、それを機に人間は、さらに良き人間としてステップアップしていく(つまり「幼年期の終わり」である)。

 また、「ピアピア動画」では、人間の叡智として、アンドロイドの回路技術や、コンビニエンスストアの物流ロジクシティックスモデルや、素材技術が出てくる。いずれも日本が世界に誇れるものだ。初音ミクだって、ニコニコ動画だって、日本発であり、まだまだ日本は捨てたものじゃないという気もする。

 

 つまり、「ピアピア動画」は宇宙を目指す物語だが、初音ミク風のアンドロイドがいて、初音ミク風の地球外生命がいて、でも人間たちの華やかな連携プレーがあって人間賛歌に終始する。いっぽう、「プロジェクトぴあの」も宇宙を目指すが、そこにアンドロイドも地球外生命もおらず、(初音ミク風の)一人の人間離れした人間が、人間を捨てて宇宙へ旅立つ。

 そしてどちらの小説も、最後は初音ミクの歌詞で終わる。「プロジェクトぴあの」は「サイハテ」。「南極点のピアピア動画」は「ハジメテノオト」である。

 

 SF作家が、「初音ミク」や、その周囲の現象をみたとき何を連想するか、というのは興味深いことである。そこに人間の可能性をみるか、人間の限界をみるか。(「ピアピア動画」と「プロジェクトぴあの」の執筆の間に3.11が起こっているというのも考察に値しそうだ。)

 個人的には「南極点のピアピア動画」のようなあっけらかんとした明るさは好きだし、このようであればどんなに良いかと思う。だが、性善説で貫くにしては、実際の世の中はあまりにもせちがらく、また打算に満ちているのも確かだ。しかし「プロジェクトぴあの」がこれから先の姿だとすれば、あまりにも悲しい。「プロジェクトぴあの」で描かれる未来社会像は、むしろ退廃のニオイさえする。

 「悲観は感情。楽観は意思。」といったのはアランだが、意思をもった2015年としたいものである。

 

 

 


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千億の昼と百億の夜

2014年09月13日 | SF小説

千億の昼と百億の夜

光瀬龍

 これも昔から知られたSFだが、今まで読んだことがなく、新聞の書評でとりあげられてようやく手にした。書かれたのは1965年。破天荒というよりは破れかぶれな気宇壮大。

 しかし宗教上のVIPを狂言回しに地球の創世から銀河系の消滅までを相手にした巨大叙事詩も、まさかその半世紀後に「聖お兄さん」みたいなマンガが世に出るとは思ってもいなかっただろう。

 


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渚にて 人類最後の日

2014年09月12日 | SF小説

渚にて 人類最後の日

著:ネビル・シュート
訳:井上勇

 古典名作SFとして名高いが、人類滅亡が迫ったとき、人は何をするのかという文学的主題も背負っている。

 舞台はオーストラリアのメルボルン。人々はパニックにならず、むしろ今年の夏も越せなそうなまでにXデーは迫っているのに、淡々と庭造りに精を出して来年の芽生えを楽しみにする。就職のために専門学校に通い始める。牛の世話を続ける。いつかあえるはずの家族のお土産を買う。

 災害時に冷静な行動をすることで世界から絶賛された日本人の行動だが、本当に破滅するとき、どんな行動をするのだろうか。

 


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女子高生、リフトオフ!     (と ゼロ・グラビティ)

2014年02月13日 | SF小説
女子高生、リフトオフ!     (と ゼロ・グラビティ)

著:野尻抱介


 どっちもネタばれ。


 野尻抱介の「南極点のピアピア動画」や「ふわふわの泉」が面白かったので、こちらも読んでみた。
 で、それと前後する形で、評判の映画「ゼロ・グラビティ」も観たのである。

 これが重なったのは偶然だったのだが、想像以上に被っていて笑ってしまった。「女子高生、リフトオフ!」の後半と、「ゼロ・グラビティ」は、ほとんどおんなじことをやっているのである。
 宇宙空間でスペースデブリが原因で事故にあい、母船を捨てて他国の宇宙ステーションを渡り歩き、その宇宙ステーションでもいろいろ事故があるが、最後は力技の帰還で大気圏に再突入し、カプセルは無事に地球上に生還する。

 おんなじである。
 なのに、温度感がまったく違う。笑っちゃうくらいに違う。
 で、どっちもオモシロイ。


 彼の他の小説もそうだが、非常に科学技術的というか緻密に積み立てられるハード面と、あっけらかんとコトを成し遂げるヒトのココロの極端なギャップが、この小説の味ある部分である。
 機体の素材や燃料、あるいは軌道の計算については妙にロジカルなのだが、一方で、主人公森田ゆかりが猛烈な宇宙パイロット訓練において教官となされる会話、

 「横暴だ!」
 「それがどうした!」

 もしくは

 「逆ポーランド記法を知らんのか!」
 「知ってるわけないでしょ!」

 この会話だけで大笑いできる。

  デブリで軌道がずれようが、船外活動で機体の破壊を発見しようが、ロシアの宇宙ステーションが爆発しようが、どこに着地するかわからない再突入だろうが、ゆかりはなんとも天然的で前向きである。すがすがしいくらいである。

 映画「ゼロ・グラビティ」も、主人公のライアン(女性)は、宇宙でのミッションは初めてという立場である。そんな人物がたいへんな事態に巻き込まれる。
 評判の通り、この映画では無重力というもののやっかいさ、すなわち重量はゼロだけれど質量はそのまんま、ということが克明に描かれている。これこそ「女子高生!リフトオフ」ではちゃっちゃっとはしょられているが実はものすごく面倒で慎重を要する要所で、そんな環境条件下を次から次へとやってくる事故やハプニングに、ライアンはパニックになりそうになりながらも、同僚の力なども借りながら、ひとつひとつ着実に冷静にこなしていく。

 要するに、宇宙飛行士というのは精神的にも猛烈にタフでクールでなければならないということである。
 往年の名作「2001年宇宙の旅」ではボーマン船長やプールが異常なほど冷静に見えたものだったが、実際にあれくらい精神をコントロールする訓練を受けるということなのだろう。


 あとどちらの作品も、普段は信じない「神」というものが微妙に関わってくるところも共通している。信じるものは勝つのだな。


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虐殺器官

2011年12月14日 | SF小説

虐殺器官

著:伊藤計劃

 

話題の作品をようやく読んだ。

今更こんなことを書くのは、時節を逸している気もするんだけれど、いやはやびっくりした。日本人離れしてまるで邦訳SFを読んでいるみたいな感覚に襲われた。

とはいえ、やはりこれは日本人が書いたSFだし、ベテランが手練を尽くしたというよりは、多感な世代が整理半ばで感興ほとばしりながら書いたという気もする。批評的な感想はかえって野暮にも思えるのだけれど、本書がさまざまな知識と創造を駆使したSFではありながら、その本質は極めて人のメンタリティに即した小説だからという気もする。この小説を支配しているのは、フラジャイルな感覚である。

ネタばれしないように書いていくけれど、本書は人が持つ肉体的器官、あるいは生理的器官、さらには精神的(脳機能的)器官の外部への拡張と、その反対である内部にみる法則性の見極め、みたいなものが扱われていて、一見きわめてハードなSFなのである。実際に、その部分だけでも十分に面白く、また示唆に富む。あんがい本当に近い将来そうなるんじゃないの? あるいは、米軍あたりはほんとにこのへん目指してるんじゃないの、と思いたくなるリアリティさえ感じさせる。

だが、ヒトというものは、やはりそこにはタフになれない。というか、タフになれないことにこそ希望がある、というこの感覚に、とても日本人的なものを感じるのだ。わかりやすくいうと、この「虐殺器官」は絶対に、どんなにCGを駆使してもハリウッドが映画にできない性質なものである。脚本の段階で挫折してしまいそうだ。だけど、庵野秀明と押井守あたりがいかにもアニメにしてしまいそうである。も宮崎駿さえどこか共感してしまうのではないかとも思うのである(まあ、ぜったい映画化はやらないだろうけど)。

これはやはり、自分自身の精神の推移とか気持ちのクローズアップいうものを特に気負いなく記述できてしまう、という「私小説」というジャンルをもつ日本人のDNAのなせる技だとも想うのである。肉食人種がこれをやると「失われし時を求めて」とか「ダブリン市民」みたいに超絶的な気負いと仕掛けが必要になってくるのだが、日本人は平家物語このかたなぜかちゃっちゃとこれをやれてしまう。

あえて断言してしまうと、自分と他人の境界線があいまい、という世界観を日本人は無意識的にも持ち合わせていて、私が思うんだからあなたもそう思うでしょう、とか、世間体が自分の行動基準とか、いわゆる同調圧力がその場を支配するというのと実は同じ根っこであり、自分の精神世界の内側を外の世界のプロットにあわせることに何の抵抗もなくできてしまい、また、鑑賞するほうも、なんの努力もなく、そこに感情移入出来てしまう、という相互関係がここにあるのである。

で、この相互関係を支えるのは、ヒトのココロというのは実に弱くうつろいやすい、というフラジャイルな機敏である。「うつろいへの感情移入」こそが、私小説の真骨頂であり、日本人の芸術的感性である。

ということからみるとこの「虐殺器官」も、ワールドワイドな小説ではあるけれど、日本人でなければなかなか味わえないSFではないかと思う。特に、最後に主人公が選択した行動は、日本人でなければ絶対わからない美学と様式に基づいているように思える。小松左京のSFのほうがよっぽどアメリカ人やイギリス人にも鑑賞に耐えるかもしれない。

 

 

 

 


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ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ悪魔

2011年12月10日 | SF小説

ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ悪魔

京極夏彦

 ようやく読んだ。けど、全作が10年前。そのとき僕は分厚いハードカバー新刊を買った。あれから10年。

 登場人物もどんな話だったのかもほとんど記憶にないのだ。この10年はあまりにも長かった。結婚もしたし、子供も生まれた。仕事も変わった。住んでいるところも変わった。

 だから、正直いってなかなか読みにくいのだった。しかも、2つのエピソードが交互に現れる方式‥・古くは「怒りの葡萄」とか、最近ならば「1Q84」とか「涼宮ハルヒの驚愕」とか。そんなもんだから通勤の行き帰りなどの垣間読みだと、なかなか全体の流れをつかめなかったりするもどかしい読書となってしまった。

 

 とはいえ、ここはストーリーテラーの京極夏彦だから、最後まで読みきったわけである。これ以上のネタばれは避けながら、所感を書きます。

 全作もそうだったとおぼろげに思うのだが、ここは物凄く過敏なまでのコミュニケーションによるカタルシスと障害が描かれている。最近の中学生の空気を読む感覚は、おおげさでなくこんな感じなんだろうかと思うとやるせなくてしょうがない。実際、会社に入ってくる新入社員(いよいよゆとり世代)のあの息をつめるような顔色の窺い方はいったいなんだろうかとむしろ心配になる。

 これをして、大胆さが足りない、とか自分に自信がなさすぎと批判するのは簡単だが、一方で、彼らがこうせざるを得ない空気がそこにあるのも事実だろう。我々世代の知らない世界がそこにある。いったいなんでそうなってしまったのだろう。

 訳知り顔に、親が叱らなくなって甘やかされたからだとか、学校の先生が腑抜けになったからだ、とかいう声も聞くが、どうもそんな単純な理由ではないような気がする。もっというと、ここにはかなり本能的な生存競争が支配されているのだと思えてならない。我々世代には想像もつかない深刻な生存競争が今の中学生世代にはあるのだ。

 生存競争が激しくなるときというのは、多様性を失ったときである。多様性が担保されているときは、それぞれの居場所が確保されていてそれなりに均衡を保つのだが、多様性を失うと少ないリソースを奪い合う必要があるため、生存競争は激しくなる。

 これだけ、価値観の多様化とか個性の重視とか言われているのに、むしろ真実は多様性を失ってますます画一化されているのではないか、というのは僕の憶測である。実は、日本人は多様性の良さなんてものをちっとも信じてやいないのではないか、というのは僕の仮説である。3.11以後、ますますこれは加速化したように想う。

 画一性というのはファッショなわけで、これはやはり余裕のない時代を背景に生まれる。どこの誰がみても今の日本に余裕などないのだが、逆に余裕がないのを言いわけにして、誰も余裕を取り戻そうとしていないようにも思う。つまり、「どうすれば余裕がうまれるか」は誰も考えない。「ゆとり教育」は大批判されてついには撤回されたわけだが、「どうすれば意義あるゆとりがとれるか」というアジェンダはついぞ設定されなかった。「ゆとり」なんて邪魔なだけだ、という前提がここにはある。

つまり、日本人DNAとして「ゆとり」は敵なのである。ゆとりはなんだかよくわからない自分の価値観にあわない多様性を創出させてしまう。それはどうもおもしろくない。ということで否定されてしまうのだ。金子みすずの有名な詩に「鈴と小鳥とそれから私、みんな違ってみんないい」というのがあり、極めて人気が高いのだが、人気が高いというのは現実の世の中がこれを体現するのがほとんど絶望的なまでに困難だということの裏返しでもある。人々はここにユートピアを求めているのだ。

 この小説が持つ破壊的カタルシスも、SFエンターテイメントではありながら、実はやはりユートピアを描いているような気がしてならない。我々はこの破壊的な世界にあこがれを持つ。徹底的な清潔と制御がもたらす安寧と抑圧。ここに喜びはない。この小説の登場人物が得る喜びは、この絶対安定をどう崩していくかというところに終始ある。江戸末期にええじゃないかが日本中を席巻したように、暴発のカタルシスをいまの日本は探し求めているような、いやな予感がしてならない。

 

 

 

 


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2001年宇宙の旅

2008年03月19日 | SF小説
2001年宇宙の旅---アーサー・C・クラーク(伊藤典夫訳)---小説

 アーサー・C・クラークがついに亡くなった。文字通り巨星落つ。

 映画「2001年宇宙の旅」を始めて見たのは中学生だったが、猛烈にぶっとんだ。そして幸か不幸か「中二病」だった僕は、この挑戦的な映画に酔いしれ、真正面から解釈に取り組み、その過程で、原作(実際は映画と共同進行での執筆)のこれを読んだ。

 もちろん注目は、光と音の洪水に満たされる最後の15分間だ。ここが小説ではいかに書かれているのか。そして、主人公ボーマンはいったいナニモノに変貌したのか? この小説版を読んで、僕は自分なりに納得した。

 そして「2001年宇宙の旅」以降、僕はクラークに狂って、次々とハヤカワ文庫を買いあさった。「幼年期の終わり」「楽園の泉」「渇きの海」「都市と星」「地球帝国」・・・ 「都市と星」の世界観とファンタジーの飛翔は、もしかしたら地球温暖化と低炭素社会(いまの半分の二酸化炭素排出量にしなければならない)における未来の社会像のひとつのヒントにさえなるんじゃないか。

 それからずいぶん経って「失われた2001年宇宙の旅」という、“本来ならばクラークはこうしたかった”というバージョンの物語が刊行された。ボーマンが飛躍して行き着いた抽象的に浄化された世界は、こちらでは極めて具体的で唯物的で検証もあって形象もしっかりしたものだった。もちろんはるかにわかりやすい。だが、僕はずいぶんとまどってしまった。この「クラークが本当は書きたかったこと」は、なるほどスターウォーズの都市にでも通用しそうな明快な描写ではあったが、一方で極限まで純化された抽象美にはほど遠くなってしまっていた。

 「人類を越えるもの」を追及してきたこの物語(HALも限定的に人間を越え、そして破滅した)が、もっとも人類を超克したところの描写は、やはりキューブリックの映画と、映画を尊重した原作「2001年宇宙の旅」のほうが説得力、というか感銘の度合いが違うと今でも思う。もし「失われた2001年宇宙の旅」のほうが最終稿だったら、ここまでよくも悪くも語り草にはならなかったようにさえ感じる。


 クラークが後年スリランカに住んでいたのは有名な話だ。その理由は、海に魅せられたとか、実は脱税のためとかいろいろ言われているが、どこかで聞き及んだ「一番月に近い島だから」というのが、夢があって最も好きだった。

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