さざなみのよる
木皿泉
河出書房新社
この小説を読んでこんなことを思った。ネタバレを防ぐために内容には一切触れないが、読んだ人でないとなんでこんな話するのかわからないだろうとは思う。
わたしの妻の実家の家訓は「死んだ人より生きている人のほうに気を使え」である。
死んだ人、死せる人に心を砕いたり様々なエネルギーを使うよりは、あなたはその分を一生けん命生きること。そこに頭や金や時間を使うこと。これが死んだ人に対しての礼儀でもあるし供養でもある。
なので、妻のご先祖の戒名はみんな質素だ。漢字にして三文字。戒名料も申し訳程度だそうだ。葬式も法事もいたってシンプル。遠方にいる人、他に用事がある人は来なくてよい。それより自分のことを一生懸命やりなさいという考え。
実家の独特のこだわりというわけではなく、檀那寺がそういう思想なのだ。浄土真宗の寺である。
僕は、浄土真宗にも仏教にも明るくなく、法事の際にそこの住職から法話を聞いたり、義父母から耳にしたくらいなので、これが浄土真宗の教えなのか、その寺なりの解釈なのかわからないが、生きる人は一生懸命生きることがその人にできる亡くなった人への最大の礼儀なのだというこの考えは腑に落ちることもあって僕は大いに共感した。
親鸞の教えがしたためられているとされる歎異抄には、亡くなった人を生きている人が弔うことはできない、という趣旨のことが書いてある。そんな難しいことは阿弥陀様にしかできず、亡くなった人はちゃんと阿弥陀様に迎え入れられる。では生きている人は何をすればいいのか。努めよく日々を生きることである。
また歎異抄には「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」と親鸞が語ったとされており、いのちのつながりは、遠い過去からはるか未来まで連綿と続く相互のかかわりと波及の関係知にある。
「彼はあなたの中で生きている」というのはコトバとしては陳腐な表現になりさがってしまったが、でも本当に本当にそうなのだ。
ある町の高い煙突(ネタバレ)
新田次郎
新潮文庫
本屋で平積みになっていて、「あれ? 新田次郎にこんなのあったかな」と思った。新潮文庫の新田次郎、黄色い背表紙は一通り把握していたつもりだった。
どうやら映画化するようで、そのために文庫で再販という運びになったらしい。初出は1968年ということだ。
この小説は、日立製作所の前身となった茨城県の木原鉱業所銅山における煙害をめぐっての企業と周辺の村の物語であり、やがては当時にして世界一となる大煙突建設へと結実する物語でもある。事実をもとにした小説ということだ。
帯の宣伝コピーは「今日のCSRの原点」。
1968年という連載当時の時代背景に留意する必要がある。日本において「公害」というものが露骨に社会問題化されたころだ。俗に四大公害病と言われた、富山県神岡鉱山のイタイイタイ病、熊本県水俣市の水俣病、三重県四日市市の四日市ぜんそく、そして新潟県阿賀野川流域の第2水俣病が、国として公害認定されたり、企業と裁判を繰り広げられたりしていたのがこの時代である。
そういうところにこの小説は登場したわけだ。当時の企業や国ーー被害の原因を他責にしようとした企業や国に対しての強烈なカウンターとなったと思われる。
もっとも本小説においても鉱業所を所有する企業である木原製鉄所は一枚岩ではない。この煙害において心の底からなんとかしなくてはと考えていたのは経営者の木原吉之助(当初は不遜な経営者っぽいがやがて肝の座った力強いリーダーになる)と技術課の加屋淳平くらいで、あとはひたすらことを荒立てずにすませたかったり、そもそも村民をよく思わない重役や社員たちであったりする。また、この騒ぎにかこつけて「煙害虫」こと活動家や県議員もぞくぞく登場しては村民をアジったりする。
もちろん村側も一枚岩ではない。むしろ結束のなさという意味では村がもっとも足並み乱れているといってよい。村の運動の中心を担ったのは(というより外堀を埋められた形で担ぎ出されたのは)この小説の主人公、関根三郎だが、確かに彼のバランス感覚なくしては、この入四間村の運動は体をなさなかったのではないかとさえ思えるし、その三郎の働きも、そもそも木原や加屋がいなければ実らなかったのではないかという気もする。
むしろ、企業側に木原や加屋という人材が存在し、村側に三郎という傑出した人間がいたことが、この煙害事件にとって幸運だったと言えるだろう。
煙害対策としての大煙突へと収斂していく物語はたいへん明確なのだが、この小説のもうひとつの主眼は、やはり近代と前近代の戦いということもできる。なぜ「公害」が起きるのかは、ここに近代と前近代の矛盾をみるからだ。日本を諸外国に負けないためにする近代化のための前進と、もともとそこにあった前近代の社会基盤維持はどちらも正義の一側面であり、この矛盾が「公害」となって現れる。「害」そのものは絶対的に存在するにしても、害を微小におさえるか拡大させるかは加害サイド被害サイドそれぞれにかかわる人間たちの価値観、行動様式とも関係してくる。
産業革命をはじめとする世界史のすべてが証明しているように、技術開発は時代のパラダイムシフトと両輪の関係にあり、そのなかで古い慣習や価値観は急速に捨てやられる。しかし、その「古い」価値観もその後の振り返りで「あれは古かった」となるのであって、当時としては十分に正義の考え方であった。
この小説でも、煙害にみまわれた足元の村は明治維新以前からこの地でなりわいを営んできた前近代的な村である。当然ながら前近代的な文化、風習、思想、いわゆるパラダイムというものが根強く残っている。この束縛力は想像以上に大きい。企業側にも古い価値観の人間が登場するが、この小説でもっとも「前近代」的なのは、関根三郎が養子に入った関根家の祖母にあたる関根いねだろう。
祖母いねにとっての正義とは、関根家を守ることにあった。いねの家にかける執念はすさまじい。
この小説は15才の関根三郎と3歳のみよの登場で始まるが、みよは三郎の許嫁であった。三郎は、関根家を継ぐために養子として迎え入れられたのである。スウェーデンから赴任してきた技師オールセンは、三郎の傍らにる3歳のみよの姿を見て「それはまことに東洋的、神秘的婚約である」と繰り返した。
いねは、なんとしてでも三郎とみねを結婚させねばならない。それの障害になるものはことごとく「悪」であった。みよが水戸の女学校に行くことも反対する(けっきょく、みよの説得に折れるのだが)。三郎が他の女性と会うことを極度に警戒する。三郎は、加屋淳平の妹千穂と恋仲になろうとするが(みよもまた複雑なながらその2人の仲を肯定するが)、いねは文字通り全身全霊でそれを阻止する。三郎とみよと千穂の3人で写った写真に鋏を入れ、あまつさえ千穂を先祖伝来の呪術をつかって呪い殺そうとする。この地は、世界最新の気象観測法を試される地であると同時に呪術が生きている地でもあったのだ。
大煙突の操業がついに始まったその日、千穂が肺病の末に亡くなる。病院から訃報が届けられる。それをみていねは喜ぶ。「煙が退散してよかった。悪い奴は一度に退散した。このわしの念願がかなったのじゃ」といって赤飯を炊く。
悪い奴とは千穂のことである。しかしいねは決して悪人ではないのだ。これが彼女の正義であり、前近代の正義だった。「皮肉であり暴言であったが、関根家を守ること以外に、なにも考えていないいねの身にとって見れば、煙も千穂も悪い奴であるに違いなかった」。
三郎はみよと結婚し、村のしきたりにしたがっての祝義を挙げ、伝統的なやり方を踏襲して初夜の床へと至る。
何が勝ちで何が負けかは簡単には言えない。煙害の件で三郎は村を近代化(むしろ旗をたてて一揆よろしく暴力的に殴り込みをかけるのは前近代の美意識である)させ、企業を近代化させ(生産のために村は犠牲になればいいというのも前近代的価値観である)、大煙突という解決に導いた。三郎は前近代に勝利した。しかし、千穂とは添い遂げられず、当初の夢だった外交官にもなれず、どころか高校への進学もあきらめて村に留まり、村の代表として東西奔走し、関根家の12才年下の長女みよと結婚し、その後も村に留まる人生を選んだ。ついには関根家の後継者になる。ここにおいて三郎は前近代に敗北したとも言える。
公害は近代化と前近代化のはざまで起こるが、そのはざまとは単に時間軸の節目というだけではない。近代的な公害解決に走り回る三郎の足元をつかんでいたのは前近代の土壌だ。技術としての近代、思想としての前近代、教育としての近代、規範としての前近代。新田次郎は、大煙突の足元にそんな近代と前近代の輻輳するパラダイムをみたのだと思う。
神去なあなあ日常 (ネタバレなし)
三浦しをん
徳間書店
小学生の娘が林業というものに興味を持ち出し、そういや林業を題材にした映画化もされた小説があったなというので、娘の春休み読書用に買ってみた。それでまずは私が読んでみた。
林業というものが実にながい時間軸を視野にいれて営まれる事業だというのは聞いたことがあった。斜面に植える苗木は孫やひ孫の代に刈ることを目的にする。そしてその未来の大木のための山のメンテナンスに日々繰り出すのである。
こういう林業という事業の在り方が世界共通のものなのか、日本独自のものなのかはわからないが、日本は森林にめぐまれた国だとはよく指摘されている。日本の森林は、アマゾンやボルネオの熱帯雨林とちがって、人工的に整備されたものがほとんどだ。これは驚くべきことで、先に記したように林業とは100年単位200年単位の事業だから、江戸時代明治時代からのDNAが脈々と続いたとみるべきである。
石油や石炭の技術が登場する前、火力の原料は木だった。世界中がそうだ。だから、森林の確保は大課題だった。領土を獲得するとは畢竟森林を獲得することでもあった。しかし、まちづくりや戦争が行われるたびに森林は伐採されていった。もちろん農耕地を広げるためにも森林は拓かれていった。
ヨーロッパも中国もかつては森林の土地だったが歴史の中でかなり荒廃していったそうである。
日本の場合は、どういうわけか、森林確保の危機感というかプライオリティが高めだったというか、かなり森林確保には熱心だったようだ。戦国時代も領土が荒れたり戦争で大量の伐採があると、すぐに植林に努めたという。
山のメンテナンスは、山の治水機能を守ったり、河川や海の浄化作用にまでつながっていく一方、最近は花粉症の原因にもなっていたりする。そして手間暇かかる林業によって搬出される国産木材はとうぜん高コストであり、商売という面では輸入材におされているのも周知の事実だ。
日本で林業の盛んなところは東北から九州まで随所にあるが、有名なのが三重県和歌山県奈良県を擁する紀伊山地だ。ここは雨が多く、山の持ち主は、かつて一雨三千両といわれていた。この小説も舞台は紀伊山地である。
で、この小説はとってもエンターテイメントなのであって、林業の奥深さ、職業としてのユニークさを全編にちりばめながらも、基本的には横浜のもやしっ子勇気くんが高校卒業と同時に強引に神去村に送り込まれ、村の住民との中で次第に成長していく楽しい楽しいお話である。1年でこんなに成長するかなって思うくらいだが、携帯電話も通じない、テレビのチャンネル数も少ない、同年代もほとんどいない社会で、これくらいしかすることないなら没頭してしまって案外成長するのかもしれない。斜面を登る足元さえおぼつかない勇気くんが、最後はチェーンソーを片手にするようになる。
面白いのは山を営みにする彼らの風物詩や風俗だ。取材に基づいているのである程度は現実的にこのような側面があるのだろう。山につねに感謝し畏怖する姿勢は、山の神様という形象をとり、祭りという行動となる。ヨソモノからみれば意味わからないもの、気味わるいものもあるし、豪快すぎて笑っちゃうものもある。正しいか正しくないか、よいかわるいかはおいといて、彼らにおいて山と人間は一体であり、村民同士は一蓮托生である。脈々とその歴史が続いている。
こういった社会はもちろん閉鎖社会である。さいきん、地方移住とかもブームだし、その関係でヨソモノに対しての排他的な事件や事故も芸能ニュース的な話題になっている。神去村でも、各戸の人間事情は村中に筒抜けだし、勇気くんがぼやくように村人の目を避けてデートすることもできない。
したがってこの小説のテーマは林業の世界とか勇気くんの成長とかもあるが、もうひとつは勇気くんが横浜からのヨソモノとしてこの村に入り、そしてムラ社会の中に向かい入れてもらうまでの物語ともいえる。ムラの登場人物も基本的にはいい人たちばっかりで、妬みや嫉みが醜悪な姿となって現れるようなことはまったくない。それでもムラの一員になるにはいくつかの通過儀礼がある。信頼を獲得するとはそういうことなのだろう。
ところで、小学生の娘のためにと思って買った当小説だけど、さてどうしよう。たいへん面白いのだけど、さすが古来から続く農村社会文化というべきか、まぐわいをめぐる話も出てくるんだよな。(続編の「夜話」はさらにその傾向が強い)。
マドンナ
奥田英朗
講談社
大企業の40代中間管理職男性あるある短編集といったところか。
いわゆる疑似家族的な日本型経営の企業でたたき上げられてきた企業戦士の男たち。しかし管理職になってみたら、世の中の価値観がかわっていて、自分たちがかつて上から言われたようにしようと思っても、まわりがついてこなくてイライラする、というやつである。残業は武勇伝、休日出勤上等、男だらけの体育会のノリ。ちょっとした女性社員へのちょっかいは黙認。そんなつもりで会社人生いきてみて管理職になってみたら、残業なんてダメ、休日出勤なんてもってのか、社員旅行も社内運動会もナンセンス、セクハラ言語道断。タバコは喫煙ルームで。女性の上司もあたりまえ。
「体育会のしごきやいじめはなぜなくならないか」というアジェンダをみたことがあって、要するに「自分がされたことを次の世代にやる」のはなぜかということ。これはつまり自分の人生を正当化させるためである。ここにはふたつの感情があり、
・自分だってつらい思いをして今の座にたどりついたのだから、自分の下の世代もそれを経験するのは当然だろう。
・あのとき上の人たちはいい思いをしていたのだから、自分たちもそれをやる権利があるだろう。
だから自分がされたことをしてはならないというのは、自分のサラリーマン人生を否定されるようなものなのである。
この小説に出てくる男たちはみんな「オレはこうやって仕事をしてここまできたんだ。なぜそれを部下や周りの人間にさせようとしたらいけないのだ」というキリキリ舞いに踊らされる。
あともうひとつ。ここにいる男たちは全員既婚である。ついつい会社での立ち振る舞いを家庭内に持ち込んでやりすぎてしまい、ついに奥さんの地雷を踏んでしまう。
僕の勤めている会社の既婚女性の同僚がぼやいていた。「なぜ男って、会社で一生懸命仕事しているから家のことはさぼっていいという理屈が通用すると思ってしまうのか」と。
会社にいる時間のほうが長いためか、会社での常識や価値観を家に持ち込んでしまい、しかも本人は気づいていない。仕事で成果をあげていれば会社の中では大きい顔ができるからついそれを全世界で通用してしまうと錯覚してしまうのだろう。こと、幼少期に自分の両親がそうだったりするとそういうもんだという原体験ができあがっているからなかなか始末が悪い。
つまり、自分としては当然の権利、考え、たちふるまいのつもりだったのに、実は通用しなかったりケンカになったり、あまつさえ大ヒンシュクを買ったりする。自分では当然のつもりでいるから、なぜ反抗されるのかがわからない。
これも以前ネットでみた投稿記事で「日曜日くらいゆっくりさせろと家でぼやくKYなパパさんへ」というのをみた。あまりの逃げ場のないアジェンダ設定のうまさに大炎上していたが、見事なタイトルに感心してしまった。
本書に出てくる男たちは、大企業の管理職、つまりは会社の中ではそこそこ成功して出世競争に勝ってきた人たちである。そういう人だからこそ、これまでの会社の常識の刷り込みと培ったプライドの、周囲とのギャップはより大きいと考えられる。ぼくの聞いた話で、ある財閥系大企業の部長さんが、自分の住んでいるマンションの理事会の役員になり、他の役員に会社の名刺を配ったというのがある。
いまや人生100年なんだそうだが、その中での会社人生は30~40年くらいか。広い世界で物事は見たいものだと思う。
あと少し、もう少し
瀬尾まいこ
新潮社
小学生の娘の夏休み読書感想文用として買い与えたのだが、娘の机で積ん読状態だったので手にとって読んでみた。
なかなかどうして面白いのである。小説上の構造としても気が利いている。
この小説は田舎の公立市野中学校を舞台にしている。その中学校の陸上部が地区の駅伝大会に出る。
駅伝というのは、走行区間が6区あって、つまり走者は6人必要なのだが、あいにくこの陸上部で長距離を走れる部員は3人しかいない。
そこで、部長である3年生の桝井くんは外部から3人スカウトしなければならない。
どうにかこうにか集まった6人は、いじめられっ子の相楽君に、不良の大田君に、お調子者のジローに、中二病をこじらせた渡部君に、唯一の二年生俊介君に、さわやか部長桝井君である。
彼らはそれぞれ内側に繊細な悩みを抱いており、葛藤と逡巡がある。この小説は、そんな彼らの物語である。走区ごとに章立てされていて、それぞれの走者の一人語りで各章が構成されている。
読者によって感情移入の対象はかわるだろう。うちの娘なら、いじめられっ子の相楽君か、中二病の渡部君だろうな。
だが、大人の僕が、いちばん気になったのは陸上部の顧問になった上原先生である。
上原先生は、美術を担任する二十代後半の女性の先生で、陸上どころかスポーツ全般ダメっぽい。それまでは定評ある鬼コーチが担当していたのだが、公立中学校は異動があるから、巡り合わせでこんな頼りない先生が顧問になってしまった。
本当は、この上原先生の章が欲しいくらいなのだが、この小説はあくまで中学生男子6人の視点でしか語られない。上原先生の姿は彼ら6人のフィルターでしか描かれない。慣れない運動部の顧問に右往左往するばかりで、部員からタメ口を叩かれる始末である。
しかし、この上原先生、なかなかトリックスターなのである。物語の要でけっこういい仕事をする。
だがらこそ、上原先生の章が欲しいなと思うのだが、彼女がそもそもどういう人で何を思い、何に悩んで何を決心し、何に挑もうとしたかは読者の想像に委ねられている。マンガやラノベならば「天然だけどなんかスゴイ」というカリカチュアでいいけれど、これは青春小説なので、彼女にも深いところがあると思うのである。
男子6人の視点で描かれている限りの上原先生は、ひょうひょうとしている。無頓着というか、気負いがない。
ただし、状況証拠としてはこの人はものすごく人の機敏に敏感である。だから部員たちのちょっとした異変や、心の引っ掛かりにすぐ気がつく。
しかし、そういう人は本人自身もすごく傷つきやすいし、ましてこの人は美術の先生だ。明らかにお門違いの領域の顧問を託され、七転八倒している。この人のひょうひょうは一種の「心の鎧」である、というのが僕の想像だ。
実は上原先生の鎧の内側を一瞬かいまみせるところがある。それが渡部の章ででてくる。この章は渡部の一人称で綴られる。
部長の桝井君がみんなの前で、上原先生に心ない一言をぶつけてしまう。以前の顧問のほうがよかったと言ってしまったのである。解散したあと、渡部君は上原先生をなだめようと声をかける。優しい声をかけてくれた渡部君に上原先生は言う。
「ジローなんかさ、先生たちがどこの学校行くのかって教育委員会が決めてるの?ってあのあと興味津々で訊いてきたくらいなのに」
上原は笑った。あいつならやりそうだ。いい意味でも悪い意味でもジローは無神経だから。
「あいつは馬鹿だからな」
「だけど、ああいうふうになれたらいいよね」
馬鹿で単純でお気楽なジローみたいに?(これは渡部君のモノローグ)
前後の文脈で、これは渡部君はジローのようになりなさい、とは言っていないことがわかる。したがってこれは、上原先生自身の問いである。上原先生は、斜に構えた渡部君を攻略することはできても、ジローのような屈託ない態度をとることは苦手なのだ。
上原先生は、この陸上部の顧問という仕事を生来の真面目さでちゃんとやろうと努力はしている。しかし、残念ながらこの事態をジローみたいに、前向きに受け止めることはできず、やる気がみなぎっているわけでもなく、仕事だしやれることをやろうとい温度感でやっているのである。そういう自分を自覚もしているし、その突き放した態度が「ひょうひょう」となって現れる。
その上原先生が鎧を解いたのが、桝井君がラストスパートをかけるときの応援と、最後の「まだもう少しこういうことができるってのはいいかな」というセリフだ。桝井君からは「先生、やる気が出たんだね」と、それまでの気概が今ひとつであったことを見抜かれている。
上原先生は、スポーツはダメでも人をモチベートさせることが上手な、つまりある種大事なリーダーシップ性をもった人物と言えなくもないけれど、僕は、やはりこの上原先生は渡部君と同じように、妙に自分のココロに鎧をまとって、自分の「芸風」を仮面にしながら対象との距離をはかるタイプではないかとみている。だから同じタイプの渡部君はすぐに急所をつくことができた。それが本当は良い方法ではないということも知りながら。
それがかなぐり捨てられたのが最後の応援の部分だろうと思う。このとき上原先生はひょうひょうを捨て、涙を流しながら、貧血にあえぐ桝井君に声援を送っていた。仕事としての顧問ではなくて、仲間としての感情だった。
塩狩峠 ・ 氷点 ・ 新約聖書入門
三浦綾子
小学館
たまに昭和の小説を読むと面白い。去年は水上勉の「飢餓海峡」を読んだらめちゃめちゃ面白くてのめりこんだ。もともと名作として誉れ高く、映画にもなった作品だが、平成の今でも十分に鑑賞に耐える話だと思う。湊かなえとか角田光代とか好きな人だったら没入して読めるんじゃないかと思う。
そんなわけで、なんか昭和の小説で面白いのないかなーとKindleのレコメン機能をたどっていると出てきたのが三浦綾子だった。
三浦綾子。もちろん知っている。しかし、あまりちゃんと読んだことがなかった。学校の課題図書などに入っていたりして優等生すぎる先入観が働き、敬遠していたのである。それに僕はキリスト教信者でもない。しかし、評判高いのはよく聞くので、それではというので読んでみることにした。
まず、「塩狩峠」は、なにしろ結末がたいへん有名で、そもそも文庫カバー裏のあらすじでもしっかりネタバレしているから、あーこの先、彼は死ぬんだなということを知ったうえで読む。これ、知らずに読んだらどれだけ衝撃的だったろうにと思う。
ただ想像外だったのは、この小説はもっと塩狩峠の事故を中心とした話だと思っていたことである。
違うのね。これは、主人公である永野信夫が幼少期に、不遜な態度をとってしまって父親から鉄槌をくらうところから始まり、彼の成長と、そこで出会う様々な人々が与える彼の心の変遷の物語であり、すべては塩狩峠での殉死へと収斂していくのであった。
そう考えると、この小説「塩狩峠」は聖書の福音書そのものである。福音書を読むとき、この先イエスは十字架に張り付けられて死ぬことを、読み手は知っている。(そのあとイエスは「復活」するわけだが)。だからこそイエスの物言いや彼の行動ひとつひとつがより意味をもって読み手に迫ってくる。
そういうカタルシスがあるためか「塩狩峠」に救済をみた人はたいへん多く、「人生が変わった本」として本書を挙げる例はたいへん多い。中学生でも読める易しい文章だが、人を動かす力がたいへんある作品といえる。
ぼくはひねくれているのでややきれいごとすぎる感にどうしても抵抗してしまうのだが、しかし最後の最後のシーン、許嫁だったふじ子が、晴れ渡った大空の下の塩狩峠で、線路に突っ伏して泣きわめくシーンこそがもっとも心に響いた箇所であった。ふじ子は信夫よりもはやくキリスト教に入信し、その教義を心得た人物だったが、人の心はそうきれいにおさまらない。この最後のシーンこそが、聖書的な路線から外れた、しかし人間がもつ哀しみと肯定の両方を描いた賛歌の描写だと思うのである。
それに比べると「氷点」は諦観が漂う作品だ。
キリスト教でいうところの「原罪」を扱っている、とよく紹介されており、本書の中心人物となる陽子は、物語の最後に、人間がもつ原罪に気づいて自殺をはかる。
ただ、ぼくとしては陽子の自殺も衝撃的ではあるが、そこに至るまでのそれぞれの登場人物のどうしようもない醜悪なエゴに心底凹まされるのである。陽子の養父母である敬三や夏枝の欺瞞や疑心だけではなく、村井の嫉妬、高木の打算など、我々人間は多かれ少なかれ、こんなケチな執着や逆恨みや自己憐憫や自己正当化をしている。しているということは、相対的に誰かを貶めたり、見下さしたり、罪をなしつけたりしているのだ。刑事事件に問われなくても、あるいは心の中だけでも誰かを卑下し、自分を正当化する。そういう人間の恥部をちくちくとみせつけられる思いがする。
「氷点」には続編もあるようだが、こちらは未読である。ひとまずもう十分という気がする。
そこで読んだのが「新約聖書入門」である。サブタイトルは「心の糧を求める人へ」。三浦綾子にこんな作品があるとは知らなかった。
僕は聖書をちゃんと読んだことはない。がんばって4つの福音書までは読み切って、最後のヨハネの黙示録もくらくらしながら読んだが、使徒行伝と書簡集はもう無理だった。
僕にとって聖書のアンチョコにしてきたのは阿刀田高の「新約聖書を知っていますか」である(あと「旧約聖書を知っていますか」も)。
この阿刀田高のはなかなかよくできていて、これ1冊あればイスラエルで聖地めぐりしてもガイドとして耐えられる。阿刀田はキリスト教信者ではないので、いちいちイエス・キリストの奇蹟を額面通りには信じていない。信じていないが、おおよそ人々にそう思わせるようなことがあったのだ、というスタンスで聖書に臨む。最大の奇蹟とされる「復活」についても、すべては計算通りで、イスカリオテのユダあたりも一枚かんでいたのではないか、という小説家らしい着想を得ている。
三浦綾子の「新約聖書入門」は、信者のそれなので、基本的には聖書の記述を受容しており、イエス・キリストのおこした数々の奇蹟も、そういうことだって起こりえるのだ、と一貫した姿勢をつらぬいている。
だからといって信者でない僕がよんで鼻白む思いかというとそうでもなくて、マタイの福音書の20章に出てくるぶどう園の主人の話――夕方まで声がかからずに立ちんぼを余儀なくされた日雇い労働者への気持ちの寄せ方とか、イエスの代わりとして釈放された罪人バラバの意味合いにおける解釈などは、なるほどそんな風に感じ取れるか、とそれはそれで感銘とともに説得力を感じる。いい話をきいたなーと正直に思わせるものがある。
また、福音書に限らず、使徒行伝や書簡集や黙示録に至るまで、新約聖書のすべてが、迫害にさらされた、まさに真っ最中のもとで命をかけて書かれたものだ、それでも書き残したいものとは何かという指摘はなるほどその通りで、阿刀田のにはなかった信者ならではの見解である。
というわけで、三浦綾子の作品を立て続けに3作読んだわけである。まだまだ「海嶺」とか「泥流地帯」とか気になる作品もあるのだが、ほかに読みたい本がほっておかれたままになっているので、いったん三浦綾子はここまでとする。
いずれにせよ読んで損はなかった。「塩狩峠」なんかはトロッコ問題が流行って(?)いる今日このころ、その観点からもいまいちど読まれてもよいのではないかと思う。
赤い人
吉村昭
新潮社
北海道開拓の近代史は血塗られている。
北海道の開拓が本格化したのは明治時代以降だ。タコ部屋労働に象徴される、過酷きわまりない労働によって、原野に鍬が入り、道路、鉄道、水路、港、飛行場、トンネル、橋梁、そして農地が拓かれていった。粗末な食事、不衛生な作業場での長時間肉体労働であり、恐ろしい羆や、眼球や耳の中までとりついてくる大量の虻や蚊に襲われる中での開拓であった。厳寒の中で足袋も毛布も支給されず、もちろん暖房もない。凍傷で手足を失うものが続出したが、けが人や病人は放置同然にされた。脱走を企てたものは容赦ないリンチが待っていた。
彼らの中には、内地からの貧しい労働者や、アイヌ人や、朝鮮半島からの強制労働者も多く含まれていた。
この強制労働は昭和になるまで続いたが、とくに明治の開拓初期に多く駆り出されたのが囚人であった。
重罪人を収容する大規模施設として、北海道にはいくつも収監施設がつくられた。当時の罪刑の概念に、囚人の人権とか更生というものはなく、そこで待っているのは懲罰としての苦役があるだけで、北海道に送られた囚人の見立ては、単なる廉価で使い捨ての労働力であった。北海道の開拓は重要な国策だったが、通常の労働者にとっては厳しすぎるその労役であり、そこに囚人をあてがうというのは、当時の行政の全体最適としては当然の判断といえた。
罪人を国土開発に徴用するのは、日本に限らず、世界的にみられた現象である。
ただし、「罪人」の中には、いわゆる傷害や殺人を重ねるなどの極悪罪人もいる一方で、国事犯や思想犯もいる。こと明治時代初期の国事犯というのは、旧幕臣であったり、薩長の新体制に抵抗を示す勢力だったりした。
そういった人々が続々と北海道の収監施設に送り込まれ、開拓の労役者として酷使されていったのである。
本小説は、そんな北海道の収監施設の第1号、月形樺戸集治監が舞台である。
実地調査が行われ、設置場所が選定されるところから始まり、資材が運び込まれて建設が始まり、運営が開始され、姉妹施設も次々とつくられるが、やがて運営は終了し、最後に閉鎖されて取り壊される、このおよそ40年の歴史の物語である。
月形樺戸集治監は、その40年の間に1000人以上におよぶ囚人の死者を出した。ほとんどが無縁仏となった。
そんな過酷な環境だから、もちろん脱獄も相次いだ。脱獄者のほとんどは失敗して、捕らえられてさらなる懲罰が加えられたり、その場で抵抗して惨殺されたりした。追跡から逃れても、森林の中でさまよって餓死したり溺死したりして、脱獄成功者はほとんどいなかったようである。
つらいのは囚人だけではない。看守たちも厳しい毎日を強いられた。恨みを買った囚人に殺害された看守もいたし、厳しい生活環境に体調を崩す者も多かった。勤務の規律は厳しく、ちょっとした落ち度で減俸される看守もいた。もちろん、囚人に脱獄された看守は処罰された。
最近、吉村昭の小説が注目されている。三毛別のヒグマ襲撃事件を扱った「熊嵐」なんかは、スティーブン・キングも真っ青のホラーばりの展開で、ネットでもつどつどネタにされているし、先日はテレビドラマで「破獄」が放映され、原作の小説も書店で平積みになった。
吉村昭の小説はタイトルがシンプルにして凄みがある。「破獄」「熊嵐」「大本営の震えた日」「高熱隧道」「三陸海岸大津波」「関東大震災」「アラスカ物語」「陸奥撃沈」「戦艦武蔵」…
シンプルなタイトルだが、内容を直截に示しており、事実に語らせる作風を持つ吉村文学の面目躍如たるところである。
そんな中で「赤い人」は、一見したところ地味なタイトルだ。タイトルだけでは、小説の内容が計り知れない。
しかし、この地味なタイトルと、中身の凄みとの落差という意味では、吉村昭の諸作の中でも渾身の傑作だと思う。
北海道に集められた囚人は、赤い服を着せられていた。赤い服は遠目にも目立ち、逃亡を困難にする。
無数の無名の赤い人の上に北海道の開拓はなされている。「赤い人」の中には、五寸釘寅吉のような有名人、あるいは加波山事件や秩父事件の主要人物、あるいは大津事件の津田巡査などもいたわけだが、圧倒的多数は無名であった。本書の主人公は、この名もなき赤い服をきた人々だ。
囚人に対しての人権意識は時代とともに違うし、今日の価値観からしても社会的制裁がやむを得なそうな極悪人もそこには含まれていた(まだまだ貧しい時代であり、極悪人を生む社会的土壌というのもあった)。この小説は、当時はひどいことをしていたと告発したいわけでもないだろう。
ただ、この道路は、この鉄道線路は、このトンネルは、この港は、そんな人たちの血と汗と失われた命の上にあるのだ、という事実を受け入れるだけである。この小説の凄みはそんな突き放したところにある。
かつてアイヌ人の地であり、日本人が本格入植して150年。北海道は、いまや日本の農畜産物の主要な生産の場であり、そして観光地として一大ブランドになっている。年間5000万人以上の観光客が北海道には訪れるそうだ。
昨日のカレー、明日のパン
木皿泉
河出書房新社
いまさらかよ、と言われそうだけど。
テツコさん、ギフ、タカラ、師匠、虎尾、夕子、岩井さん、一樹といった登場人物が連作の形で出てくる。この小説は彼らの「囚われ」と「解放」の話である。
表面上は穏やかでも、みんな囚われているものがあり、それが心の奥底で閉塞感をつくっている。一見ひょうひょうとしているが、自ら檻をつくってその中で生きている。
それは贖罪意識だったり、トラウマだったり、劣等感だったり、虚無感である。
多かれ少なかれ、人はみんな「囚われ」はあるんじゃないだろうか。一見ひょうひょうととした人ほど、実は「囚われ」を秘めているんじゃないかと思う。「ひょうひょう」は「囚われ」を悪化させないための、あるいは表面化させないための処世術なんじゃないかと思うくらいだ。
しかし「囚われ」とは本人の中で時間が止まっている。今の場所に安住するというのは時間が止まっているのである。
だが、あいにく止まっているのは自分だけで、まわりの時間は進んでいる。だから「止まっている」というのは、相対的に自分の時間がまわりからどんどん遅れていることを意味する。だからだんだん周囲との違和は広がっていく。こじらせていくことになる。
だから度のすぎた「囚われ」からはやはり解放されなければならない。時計の針を進め、凍結していた時間を動かさなければならない。
これすなわち、「囚われ」から解放されるには、自分が変わらなくてはならないのである。心理学的にもよく言われるが、「悩んでいる人は悩みたいから悩んでいる」。つまり、今の場所から動きたくないから悩んでいる。今の場所に留まることはどこかで楽なのだ。だから囚われからの解放とは、ほんの少しだけいまの執着から離れないといけないことを意味する。それは本人にとってたいそう大儀で時間のかかることである。
そのおっくうな変化に、しかしここは動かねばならぬと気づき、この小説の登場人物たちは囚われから解放の一歩を歩む。
変化するのは大儀なことなので、まずは一歩からである。一朝一夕で変わるものではない。よっこらしょと地道に変えていくしかない。しかし、少なくとも永遠の「今日」からは動き出すのである。昨日と明日のあいだの「今日」へと戻っていく。昨日は今日と違うし、明日は今日と違う。昨日はカレーで、明日はパンなのだ。それくらいの温度感でかまわないのである。
屋上のテロリスト
知念 実希人
光文社
架空歴史小説はいろいろあれど、ポツダム宣言受諾があと3か月遅れていたら、という目からウロコの設定で始まる、もはや出オチといってよいエンターテイメント小説。
正史では、広島への原爆投下、ソ連軍の満州侵攻、長崎への原爆投下ときて、8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾の聖断がなされ、8月15日に玉音放送、9月2日に降伏文書調印となるが、8月14日から15日にかけて、聖断を覆そうと陸軍がクーデター未遂をしているのも「日本の一番長い日」などでよく知られている。
この小説では、そのクーデターが成功して玉音放送が成されずに戦争は続行し、当初の計画通りにソ連軍は北海道に上陸して占領してその後は東北地方へと南下、アメリカ軍は新潟に原爆を落とし、ついに伊豆から上陸して本土決戦へと至り、大日本帝国は11月に連合国軍に降伏したとされる。
戦後の日本統治の方針を決めたヤルタ協定では、戦後の日本は戦勝国のあいだで分割統治という案も出ていたから、この3か月の差は大きい。東西ドイツや南北朝鮮の例にもれず、11月に降伏した日本は、北海道と東北をソ連が統治し、関東以南をアメリカが統治する分断国となった。東が社会主義国の「東日本連邦皇国」で首都は仙台。西が民主主義国の「西日本共和国」で首都は東京である。
そして、本州を縦断する国境には、高い壁が延々と万里の長城のように続いている。
まさに北朝鮮から核だ、ミサイルだ、Jアラートだ、という時節柄に読むにぴったりであった。
SFでもミステリーでもなく、エンターテイメントなのであって、アニメでもみるような気分で読めばよい小説だから、ややご都合的な展開に目くじら立てる必要ないがひとつだけ言いたい。
テロの首謀者はなかなか強くて賢い女子高生なのだが、どんな修羅場でもセーラー服である。なぜかこの手の女子高生はセーラー服の黒髪と相場が決まっている(野崎まど「know」もそうだったな)。これの原型は「セーラー服と機関銃」にあるに思うのだが、これではどうしてもオッサンむけエンタメになってしまう。せっかくだから、物心ついた時から冷戦が終わっていた世代にも楽しんでほしい。もう少しいまどきを反映させてみては?
文芸春秋
「コンビニは現代の教会である」という説がある。
お客さんがだれであっても、店員は笑顔で快活にいらっしゃいませ、温めますか? と声をかける。
金融機関ならばかなりめんどうくさい振り込み手続きをちゃっちゃとやってくれるし、揚げたてのから揚げを出してくれる。
コンビニは現代の教会である。
物語がはじまってしばらくは、まるで村上春樹のような喪失感のある空気が支配する。やがて泉鏡花を彷彿させるような、どこか美しくも不気味で不思議なエピソードがつぎつぎと現れ、そして森見登美彦ワールド炸裂の夢幻の大嵐となる最終章へといざなわれる。
それとも、「曙光」の世界の中で、岸田氏は尾道の地でまた「曙光」でも「夜行」でもない、違う世界に足を踏み入れたのだろうか。