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「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

2024年11月06日 | 生き方・育て方・教え方
「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

平山美希
WAVE出版


 表題には書かれてないけれど、本書は「フランス流 自分の意見のつくりかた」といったところだ。著者は、フランスはソルボンヌ大学に留学後、現地にて教鞭をとっているらしい。

 何かの事象なり誰かの発言なりに接して、それに対してどう思うか? これすなわち「自分の意見」である。会社員なんてやっていると、自分の意見を求められることはよくある。同じくらいの頻度で、特に求めてないのに「自分の意見」を永遠としゃべり続けて周りを困らせる人もいる。

 「自分の意見」というのは案外に難しい。本書はイラストのテイストからみるに高校生大学生むけに書かれているのだろうが、この歳になってもまだ難しい。それは意見ではなくて感想だろう、というのは自他ともにあるし、それは主観に過ぎないだたのコメントだろう、というものだって多く心当たりがある。本書では「主観でない意見なんてない」と喝破しているが、主観か客観かというよりは、その意見は聞くに値するか、何事かの参考になるか、意思決定に役立つか、という観点からみたときに無用な意見であればその理由として「それは主観に過ぎない」とくさされるのが実態に思う。
 意見を言った後のその場の空気が気になって、その意見が正解だったのか不正解だったのかをひどく気にする国民性の日本人は、意見を言うのに口が重くなる。一方でフランス人はそんなのは無頓着でとにかく何か言う訓練をしている、というのが本書である。もちろん口から出まかせではなくて、それなりのロジック構築の訓練を子どもの頃から受けている。このあたりはアメリカのShow&Tellにも通じる話だ。

 そのフランス流の具体的テクニックとは、「問いをたてる」「言葉を定義する」「物事を疑う」「考えを深める」「答えを出す」というステップにあるとか、人が何かを主張するときは発言者が主に何にこだわっているかを「道具性」「経済性」「論理性」「良識性」で大まかに分類して、議論の際はそこを揃えないと水掛け論になったりボタンの掛け違いになったりするとか、弁証法、帰納法、演繹法を駆使せよ、とかいろいろ解説がある。

 それぞれについての解説はなかなか面白くて、この歳になってもなるほどなあと思ったりもする。とくに「①そもそも→②たとえば→③たしかに→④でも」というフォーマットで文脈をつくると自分の意見になる、なんてのは哲学講師ならではだ。矛盾や逆説を導き、さらにはアウフヘーベンさせるのは哲学思考の基本所作と言えるだろう。①は議題がなんであったかの確認、②はその議題の具体例、③は議題が是となる理由の導き出し、ときてここまで与件を揃えてから④でも・・・と導いてみたときに脳味噌は何を引き出してくるか、だ。なにかにつけて反対したり否定したり難癖付ける人はこの④の神経が研ぎ澄まされているのだろうと思うが、①②③をクリアにすることで、それなりに説得力が出てくる。

 要するに本書の伝えたいことは、「自分の意見を言う」というのはそこになんらかの正解(right)があるということではなく、ちゃんと答え(response)ができるということなのである。


 とは言うものの、議論好きの外国人(西洋人に限らない。中国人なんかもそう)とつきあっていると、単に自分の言いたいことを言ってアイデンティティを満たしているだけだな、と思うことは多々ある。まさに単なるresponseだ。
 「建設的な意見」という観点から見れば、海外の議論好きの中には「オレは言いたいことを言った。この『意見』をどう使うかはお前次第だ」という態度の人が多いように思う。しかも、その議題の結論がどうなろうと己の立場は変わらない人ほどいろいろ意見を言ってくる。
 と書くとまるで嫌味っぽいが、要するに自分の発言にそこまでの責任を持たないし、相手もそこまで発言内容の責任を追及しない、という合意がそこにあるのだろう。文化と言ってもよい。日本語は冗長性が多くて定義があいまいなまま会話が進行するのが特徴とされる言語だが、それゆえに上手いこと言えたか言えなかったかは発言者の言語あやつり能力の責任に帰結させることが多い。つまり発言するからには意味がなければならず、失言に不寛容である。一方で英語みたいにロジックがしっかりしている言語は、発言の趣意や定義は明確になるが、それだけに「でも人間そんなに一貫になれないよね」という前提があって発言そのものの責任制は軽くみられている(つまり失言に寛容)とか、そんな見方もできそうだ。英語やフランス語はそれが建設的かどうかは無頓着に意見しやすい言語ということなのかもしれない。

 なんて書くと、著者からはこの「自分の意見」とはまさにあなたはどう考えるのか、という問いへの対応を説いているのであって、議題の解決を進めるための繰り出し方を説明しているわけでない、と指摘されそうだ。「意見」というと社会課題への意見表明みたいな硬派なものを考えがちだが、むしろ食レポを上手にこなすやり方くらいの温度感でとらえるべき話なのかもしれない。


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