読書の記録

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反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー

2020年05月02日 | 歴史・考古学

反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー

ジェームズ・C・スコット 訳:立木勝
みすず書房


 ハラリの「サピエンス全史」には、「農業革命」のことが出てくる。興味深いのは、狩猟文化から農耕文化に移行したことで、人間は不幸になったというものだ。労働時間は長くなり、摂取カロリーは減った。天災リスクも増えた、というものである。
 それなのに、なぜ人間は農耕文化に移行したのか。最終的に誰が得したかという観点から逆算すると、ヒト遺伝子の存在が浮かび上がる。つまり農耕文化によって狩猟時代よりも人口増加度がふくれあがったからである(定住生活をすること、人手を要することから出生頻度が増えたのである)。ヒト遺伝子は子孫を増やすのに成功した、というわけだ。
 
 おもしれーと思った。
 その後、穀物遺伝子が、手先の器用なサルをうまく取り込んだのさという説もみた。この世界の覇者は穀物遺伝子説である。

 というわけで、狩猟文化から農耕文化の移行は、かつてのマルクス主義的な進化論ではなく、もう少し複雑な事情があったのではないかというのが昨今の見立てである。

 

 で、本書はタイトルの通り、まさにそこにフォーカスをあてたものだ。実にまことに知的興奮を味わえる本であった。

 本書の前半は、狩猟文化から農耕文化に移行するための諸条件を考察するとともに、その結論として「みんながみんな農耕文化に一方的にうつったわけではない」と結論する。そう。狩猟文化を続けた人間も相当数いたのである。また、農耕文化に移行した人がその後ずっと農耕を続けたかというとそういうわけでもない。狩猟のほうに戻る力も多いに働くのである。初期の人類史は、農耕文化と狩猟採集文化は併存していたし、両方を組み合わせてやっていた人間も多かったし、農耕→狩猟にシフトした人間もいたのである。

 そして、農耕文化と切っても切れない関係として「定住集団生活文化」というのがある。農耕と定住集団生活はニワトリとタマゴの関係だが、どちらが先だったのかは結論が出せないとした上で、しかし人類史として大きな影響を与えたこととして「定住集団生活」に注目している。
 つまり、生態学的には不自然な人口密度で定住集団生活をするようになったことが、さまざまな影響を人類史に与えたのだった。

 たとえば、狭い定住空間での集団の増加は、モノカルチャーの依存度を高めることを本書では示唆している。これが農耕依存度を助長させる。(穀物がもっとも施政者にとっては税管理をしやすいという指摘はおもしろい)。
 結論としては、狭い空間における高い人口密度とモノカルチャーな農耕異存は、そのコミュニティの存続にとってはきわめてリスクが高いのである。著者は、初期の都市や国家はたびたび消滅や崩壊にさらされたとみている。疫病は流行りやすく、天災には弱く、労働はきつくて人々は荒野や森林地帯に逃げ出す。
 したがって、「そもそも集団でモノカルチャー」なのが不自然なのだから、定住集団生活を捨てて荒野や森林地帯に分散して狩猟に戻るのはむしろ自然な流れではないかと著者は指摘する。狩猟→農耕の進化論は、農耕文化を善とする前提からくるバイアスでしかないのだ。「崩壊」という言い方にへんなミスリードがあるだけで、要はヒトは集まったり散ったりしていたのである。

 また、はじめから狩猟採集で生活が十分に営める人は、好きこのんで農耕文化の集団に加わりはしない。それどころか農耕文化集団も、狩猟民からしてみれば狩猟の対象のひとつ、すなわち収奪の対象とみなすようになるのはまったく不自然ではない。

 ということで、定住集団生活=都市には、収奪の力学が必然的に備わる。それは都市内における強制的な農耕労働とそこからの収奪(すなわち租税や賦役のこと。農業従事者の多くは蓋然的に「どこかから収奪されてきた人」になる)であり、そうやって積み上げられた収穫物や労働者は、都市外の狩猟採集民からの収奪の対象となる。
 本書の後半は、この「収奪」にフォーカスし、農耕というよりは、そのような都市国家(自らを「文明人」と称す)と、その周辺に存在する狩猟採集民コミュニティ(都市国家からは「野蛮人」と称される)の関係性をみていく。破壊的な収奪はそれなりにエネルギーとリスクを伴うので、やがて「交易」や「取引(みかじめ料みたいなもの)」という手段がハバを利かすようになる。いつしか、あたかも共依存のように農耕民と狩猟採集民、「文明人」と「野蛮人」は相互関係しあっていくのだ。「野蛮人」も「文明人」が収奪の対象である以上「文明人」の存在なしでは生きていけなくなる。「文明人」は「野蛮人」と取引することで国家を維持できるようになる。


 全書を通して示唆していることは、「農耕」が登場することによって「非農耕」すなわち狩猟採取文化が対の生活文化として浮上し、農耕と関連づく定住集団生活すなわち「都市国家」に対し、やはり対の関係として狩猟採取や牧畜による移動分散型生活の「野蛮人」が浮上することだ。すべては相対的というか、この生態学的な関係性こそが人類史の歩んできた道ということである。どちらにも脆弱性があり、どちらにも頑強性があって、相互に関連しあってポートフォリオとして人類史をつくってきたのである。

 それにしても原書の初版は2017年。すでに「中国南東部、具体的には広東省が、新型の鳥インフルエンザや豚インフルエンザの世界最大の培養皿となってきたことも、さして驚きではない。あの地域にはホモ・サピエンス、ブタ、ニワトリ、ガチョウ、アヒル、そして世界の野生動物の市場がどこよりも大規模に、どこよりも高い密度で、しかも歴史的に集中してきた地域なのだ」と指摘していることは興味深い。

 近世以降の人類史は、農耕文化と都市国家があまりにもハバを利かせているが、人類史の時間軸的には末端のほんのわずかな期間に過ぎない。本来的なフィードバックを考えると、都市人口集中のアンチテーゼとしての荒野への分散と狩猟採集文化の存在が必要という見方もできよう。コロナ禍によって、都市集中生活の脆弱性やデメリットがかなりクローズアップされている。都市を捨て、モノカルチャーに依存しないしたたかな狩猟採集文化、異動分散型生活の「野蛮人」視点も必要なのではないかと思う。「収奪」される側にだけはならないようにしたい。

 


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