小学生になると、私の頃は男子も女子も「少年部」と言っていたのですが、そういうものに入らされます。
もしかすると幼稚園や保育園でもそういう場所に行っていたかもしれません。
今は「少年・少女部」になってるのかな?よく分かりませんが。
基本的には月に一度程度だったと思います。
そのほかに、大人たちの大きな会合で少年部の発表(合唱とか劇とか?)があるときは、もっと頻繁に集められます。
とにかくそこへ行けば、毎回、創価学会の名誉会長である池田大作さんの書いた絵本や詩を朗読させられたり、
池田大作さんを「池田先生」と呼ぶことを強要されます。
もう池田さんとか、大ちゃんとか、池っち~なんて呼んだら罰当たり扱いです。
怖そうなおばさんたちが「池田先生」の話をたくさんしてくれます。
創価学会は日蓮さんの教えを信奉しているはずの宗教団体ですが、日蓮さんの話とかはあまり聞いた覚えはありません。
ただ、仏教関係の絵本を見たことはあったかもしれません。
どうして学校の先生でもなく、お医者さんでもない池田さんを池田先生と呼ぶのか。
そんな疑問の入り込む余地もなく、子どもたちの頭に「池田先生」は強制的にすり込まれていきます。
それだけではなく、創価学会が唯一の正しい宗教であり、その他の宗教は邪教というのもこの頃厳しく教えられます。
きっと親たちはそれが子どものためと思って教えているのでしょう。
神社やお寺に行くと罰があたるとか、悪いことが起こるとか、そうすり込まれていきます。
林間学校で某お寺に泊まって少ないお小遣いで買ってきたお土産にお経が書いてあるからとゴミ箱に投げ捨てられ、泣いたこともありました。
修学旅行で某神社に行ったときは、参拝してはならないと言われ、他の創価学会の子と一緒に鳥居の外でみんなが戻ってくるのを待ったこともありました。
別の宗教をしている人は、みんな不幸になると教えられていきます。
その頃、どうしてそれを疑わなかったんだろうと考えてみたことがありますが、
まだ幼稚園や小学校で、親や大人のいうことを疑うなどということができただろうか、と思いました。
幼稚園や小学校になると子どもだけで友達と遊ぶ機会も増えていきます。
その時に「学会宣言」や学会のお話をすると、後で母や創価学会のおじちゃんおばちゃんたちからものすごく褒められます。
そういう話を会合なんかでしたりすると、もうヒーロー扱いです。
私が以前いた組織で小学生の男の子が塾の先生に新聞啓蒙(注:創価学会の機関誌である聖教新聞の購読者をゲットすること)したという話が大々的に披露されたことがありました。
どの会合でもその男の子の体験発表です。
その時は「すごいな、小学生なのに!私も頑張ろう!」とか思ってた自分……。
今はその小学生が可哀想だなと思います。
どうか大人になったら創価学会の間違いにちゃんと気付いてまっとうな大人になってね、と。
そんな感じで、褒められて嬉しい小学生を、創価学会の大人たちは褒めちぎって育てます。
私も友達のお母さんが病気で苦しんでいると聞けば、母を連れて折伏に行ったりしました。
今考えると本当にごめんなさい……なのですが。汗。
その時友達から「そういう話だったら二度と来ないでってお母さんが言ってた」と言われ、落ち込んでいると、
「信心を頑張ると必ず魔が出る。悪いことが起こる。でもそれを乗り越えるとものすごくいいことがある」と教えられました。
素直にふぅんそうなんだ、と思った私は、たとえ友達から悪く言われても気にしないようにしようと思うようになりました。
だって、それを我慢したら、ものすごくいいことがあるのなら、我慢できそうな気がしたのでした。
それに母だけでなく、学会のおじちゃん、おばちゃんたちが盛大に褒め称えてくれます。
たとえ友達に悪く言われても、私自身は何だか誇らしい気持ちになったりしたものです。
今でも本当に胸が痛いのは、お父さんが亡くなり、その後すぐにお母さんを亡くしたクラスメートのことです。
彼女の家はクリスチャンでした。
私は良かれと思ってその子に「話がある」と言い、お父さんもお母さんも亡くなってしまったのは、間違った宗教をしていたからだと言ってしまったのです。
当時、キリスト教や神社や他の仏教をすると罰が当たると聞いていた私は、当然その子の両親が亡くなったのもキリスト教だったからだと思っていました。
小学生でこれですから、大人がもっと厄介なのは想像に難くないと思います。
当然、私はその日からその子に避けられるようになりました。
でも、これが正しいんだと思いました。
家に帰って母に報告すると褒められました。
本当に今は涙が出るほどに申し訳ないと思います。
謝っても許されることではありませんが、覚醒してからずっと心の中で謝り続けています。
もしかすると幼稚園や保育園でもそういう場所に行っていたかもしれません。
今は「少年・少女部」になってるのかな?よく分かりませんが。
基本的には月に一度程度だったと思います。
そのほかに、大人たちの大きな会合で少年部の発表(合唱とか劇とか?)があるときは、もっと頻繁に集められます。
とにかくそこへ行けば、毎回、創価学会の名誉会長である池田大作さんの書いた絵本や詩を朗読させられたり、
池田大作さんを「池田先生」と呼ぶことを強要されます。
もう池田さんとか、大ちゃんとか、池っち~なんて呼んだら罰当たり扱いです。
怖そうなおばさんたちが「池田先生」の話をたくさんしてくれます。
創価学会は日蓮さんの教えを信奉しているはずの宗教団体ですが、日蓮さんの話とかはあまり聞いた覚えはありません。
ただ、仏教関係の絵本を見たことはあったかもしれません。
どうして学校の先生でもなく、お医者さんでもない池田さんを池田先生と呼ぶのか。
そんな疑問の入り込む余地もなく、子どもたちの頭に「池田先生」は強制的にすり込まれていきます。
それだけではなく、創価学会が唯一の正しい宗教であり、その他の宗教は邪教というのもこの頃厳しく教えられます。
きっと親たちはそれが子どものためと思って教えているのでしょう。
神社やお寺に行くと罰があたるとか、悪いことが起こるとか、そうすり込まれていきます。
林間学校で某お寺に泊まって少ないお小遣いで買ってきたお土産にお経が書いてあるからとゴミ箱に投げ捨てられ、泣いたこともありました。
修学旅行で某神社に行ったときは、参拝してはならないと言われ、他の創価学会の子と一緒に鳥居の外でみんなが戻ってくるのを待ったこともありました。
別の宗教をしている人は、みんな不幸になると教えられていきます。
その頃、どうしてそれを疑わなかったんだろうと考えてみたことがありますが、
まだ幼稚園や小学校で、親や大人のいうことを疑うなどということができただろうか、と思いました。
幼稚園や小学校になると子どもだけで友達と遊ぶ機会も増えていきます。
その時に「学会宣言」や学会のお話をすると、後で母や創価学会のおじちゃんおばちゃんたちからものすごく褒められます。
そういう話を会合なんかでしたりすると、もうヒーロー扱いです。
私が以前いた組織で小学生の男の子が塾の先生に新聞啓蒙(注:創価学会の機関誌である聖教新聞の購読者をゲットすること)したという話が大々的に披露されたことがありました。
どの会合でもその男の子の体験発表です。
その時は「すごいな、小学生なのに!私も頑張ろう!」とか思ってた自分……。
今はその小学生が可哀想だなと思います。
どうか大人になったら創価学会の間違いにちゃんと気付いてまっとうな大人になってね、と。
そんな感じで、褒められて嬉しい小学生を、創価学会の大人たちは褒めちぎって育てます。
私も友達のお母さんが病気で苦しんでいると聞けば、母を連れて折伏に行ったりしました。
今考えると本当にごめんなさい……なのですが。汗。
その時友達から「そういう話だったら二度と来ないでってお母さんが言ってた」と言われ、落ち込んでいると、
「信心を頑張ると必ず魔が出る。悪いことが起こる。でもそれを乗り越えるとものすごくいいことがある」と教えられました。
素直にふぅんそうなんだ、と思った私は、たとえ友達から悪く言われても気にしないようにしようと思うようになりました。
だって、それを我慢したら、ものすごくいいことがあるのなら、我慢できそうな気がしたのでした。
それに母だけでなく、学会のおじちゃん、おばちゃんたちが盛大に褒め称えてくれます。
たとえ友達に悪く言われても、私自身は何だか誇らしい気持ちになったりしたものです。
今でも本当に胸が痛いのは、お父さんが亡くなり、その後すぐにお母さんを亡くしたクラスメートのことです。
彼女の家はクリスチャンでした。
私は良かれと思ってその子に「話がある」と言い、お父さんもお母さんも亡くなってしまったのは、間違った宗教をしていたからだと言ってしまったのです。
当時、キリスト教や神社や他の仏教をすると罰が当たると聞いていた私は、当然その子の両親が亡くなったのもキリスト教だったからだと思っていました。
小学生でこれですから、大人がもっと厄介なのは想像に難くないと思います。
当然、私はその日からその子に避けられるようになりました。
でも、これが正しいんだと思いました。
家に帰って母に報告すると褒められました。
本当に今は涙が出るほどに申し訳ないと思います。
謝っても許されることではありませんが、覚醒してからずっと心の中で謝り続けています。