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「方法」を「私の感覚」より上にしてないか その2

2017-10-03 | 心で生きる
続き

昔お友達としゃべってて
ある「療法」の話題になり
その友達は、それに興味があって話を聞きに行ったんだけど、結局やらなかったって言うから
どうしてやめたの?って聞いたら
「あなたの血は汚れてる!」って強く言われて
「とっても嫌な気分になったからやめたの」と。


ちなみに私はぜんぜん違う場面で同じように
血が汚れてるって言われたことがあるけど
そうなのかも・・(もっときれいにな血になれるように頑張ろう)って
言われたとき気分悪かったのに、にその感覚無視して
言った人のほうの感覚に合わせてた。
それってエネルギーダウン!だよね。

これ、その時の彼女の正解だと思う。
「これはいいものだから」
「この人は私よりその道の知識があるから」
とかより
「なんか嫌な気分になった」ほうを優先させた。

これ その「療法」を否定する話じゃまったくないですよ。
○○療法も自然療法も西洋医学も
ぜーんぶ
「方法」であって
それを使いこなす「私」が
「私の内側の感覚」を見てあげてなかったら
どれを使っても結局は変わらないんじゃないかと。

自分の中心を他人とか方法に譲るのやめよ♪
それさえできれば
あとは
なーんでもいい


だからたまに特定の代替医療や民間療法を批判したり
西洋医学の恐ろしさを触れ回ったり
やいのやいのやりあってるけど
私にはどうでもよくって

そういうのは
「気分が悪くなるから」
読まないようにしている。

「方法」を「私の感覚」より上にしてないか その1

2017-10-03 | 心で生きる
38℃以上の高熱が出てるのにもかかわらず
ココロは元気というか
ニュートラルな状態です。

調子いい時って体のことをあんまり意識できないけど
不調があると意識する

風邪は
体に意識を戻すいい機会なのかも

自分の体の中に出てくる
細かな違和感を観じてます。



昨夜はフェイスブックで見かけたチーズオムライス(しかもハヤシのルーがかかってる)見かけて
どーしても食べたくなり
動きたかったのもあり
ゴソゴソ起きだして(動きがカクカクしている)
米を研ぎ(ソコから!?)
鶏肉はなかったから冷凍してた猪肉ちょびっとこそいで(削って)
チーズも入れて
烏骨鶏の卵が一個あったから
オムライス!作ったぞ

けど
お米の浸水待てなかったからちょっとゴッチン飯(芯が残ったご飯)になって
よく噛もうね♪ 的なちょっと残念な出来になりました。
チーズオムライスなんて元気モリモリな人の食べ物だよね。笑
でも「それ」が食べたかったから。
それで半分食べたらもう十分って感じたので残した。
(前だったらせっかく作ったのに、って無理して食べてたかも)
(そして残りは今日のアイデアでリゾットになった)

その他は具なしのお吸い物(昆布と干シイタケでダシをとって、醤油と塩、梅干しを入れる)ばかり飲んでいる。
これがおいしくて染み込むようにすいすい入っていく。



こんな感じで今でこそ病人ライフも楽しめるけど
思い返せば昔々は
お医者さんに

明後日から大事な仕事が(か遊びか忘れたけど)あるんです!
明後日までに治りますか?!

なんてことを訊くあほ患者でした。
自分の体のことを他人に訊く?(わかるわけがない)
体の声、大無視もはなはだしい。


それから西洋医学以外の選択肢を知り
いろいろやってって
私は変わった!とか思ってた時もあった。


でも
根本的なことではたいして変わってなかった。(私の場合ですよ)

なにが変わってないかって
「このやり方こそは(私を治してくれる)」って
「私の外側の何か」に
私を合わせていた。
(その時って、私は私の中心にいません)

もちろん
やってみよう、試してみようとおもったら
素直にやってみることもいいことだ思うけど
やってみて、どう感じるか
自分の感覚
美味しい、不味い、心地いい、わるい、etc・・・
この感じることをぞんざいにしてた。


本当に大事なことは
自分が自分の主であるかってことなんだなって思う。

「方法」が「私の感覚」に勝ってないか
「方法」のほうを「私の感覚」より上にしてないか

○○医学、○○療法 いろいろあるけど
この方法こそ「正しい」と崇めてしまうのは
自分の体のことをお医者さんに丸投げするのと
大して変わらない。

自分の感覚
それさえ大事にしていれば
病院に行こうが自然療法で治そうが
なーんでもいい。



私が病院に行かないのは
これは私の趣味かな。
おもしろいのです、観察するのが。
自分の体そのものが自然現象っていうのが感じれておもしろい。
(マニアックだなー)





長くなったので
続きはその2で~(*´ω`*)/