おいらは有識者でもないし、ましてや断じて学識経験者ではない
(あらためて強調するまでもないが・・・)
ただ、漠然と昔から「有識者・学識経験者によると・・・」とか言う
NHKの報道を見聞きするたびに、何か「胡散臭さ」は感じていた
最近その「胡散臭さ」が確信に変わった
ちょっと前までは「小沢事象」そして最近の「福島原発」への
「有識者・学識経験者」の対応を知ってしまってからだ
「有識者・学識経験者」の論は「論理的」でもなく「現実的」でもなく
「他者からの批判」はまともに応える謙虚さもない
これはもう「有識者・学識経験者」の名にふさわしくないどころか
「おバカ爺婆集団」だろう
(無論メディアに登場しない《させられない》真の「有識者・学識経験者」は別だが)
一例を挙げてみよう
武田邦彦氏のブログ 「専門家」への「きつい」提言だ
武田氏の論が全てまともかどうかはおいらには分からないが
「10ミリシーベルト」をはっきり否定しない「専門家」への氏の「悲痛な叫び」にはとても納得してしまう
「おい専門家、本当に10ミリでいいのかよっ?」
soWhatだ・・・ねっ・・・over
(あらためて強調するまでもないが・・・)
ただ、漠然と昔から「有識者・学識経験者によると・・・」とか言う
NHKの報道を見聞きするたびに、何か「胡散臭さ」は感じていた
最近その「胡散臭さ」が確信に変わった
ちょっと前までは「小沢事象」そして最近の「福島原発」への
「有識者・学識経験者」の対応を知ってしまってからだ
「有識者・学識経験者」の論は「論理的」でもなく「現実的」でもなく
「他者からの批判」はまともに応える謙虚さもない
これはもう「有識者・学識経験者」の名にふさわしくないどころか
「おバカ爺婆集団」だろう
(無論メディアに登場しない《させられない》真の「有識者・学識経験者」は別だが)
一例を挙げてみよう
武田邦彦氏のブログ 「専門家」への「きつい」提言だ
武田氏の論が全てまともかどうかはおいらには分からないが
「10ミリシーベルト」をはっきり否定しない「専門家」への氏の「悲痛な叫び」にはとても納得してしまう
「おい専門家、本当に10ミリでいいのかよっ?」
soWhatだ・・・ねっ・・・over
だから、日本人は、「下士官兵は優秀、下級将校は普通、上級幹部は愚劣」の状態になっている。
目先・手先の問題は器用にこなすが、個人の世界観に基づいた国家百年の計は立てられない。
日本人には意思がない。
だから、意思決定ができない。
神の意思による災害は天災、人の意思によるものは人災。
意思という概念がなければ、天災と人災の区別も定かではない。
人の行動を納得できるものに改めることも容易ではない。
指導力は、指導者の社会意思の決定力である。
意思そのものがなければ、社会問題は指導者による解決を見ない。
「首相はオーケストラの指揮者だが、誰も指揮者を見ていない」ということは、一個人の意思に構成員が意識を集中できないことを意味している。
問題を解決する能力のない人たちが、事態を台無しにする力だけを持っている。だから、日本人の世の中は難しい。
問題を解決しようとしても、先送りと積み残しに終始する。なりゆき任せになる。
「そのうち、何とかなるだろう」ということか。
未来の内容が定かに考えられないと、起こる事態は想定外のことばかり。
目の前に事態が現われてからでは、その対策は後手後手に回る。
未来のことは、未来時制の構文の中で述べられる。
日本語には時制がないので、未来時制もない。
だから、その計画も場当たり的というか、行き当たりばったりになる。主体性がない。
日本人は、拙速主義である。場当たり的なトントン葺きの家づくりが得意である。
大ブタさんのわらの家をつくる。災害に強い小ブタさんのような煉瓦の家は作らない。
作る暇などないからである。
日本人は、過去と未来に挟まれたごく狭い時空の中で、あくせくと現実生活にのみ専心している。
精神を集中すると、その刹那も永遠のように見えてくる。
前後の見定めのない自分の話が永遠の真理を話しているような気持ちになるところが不思議なところである。
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