2019年4月20日
国民の大半がカトリック信者だったポルトガルですが、それも時代の流れで変わりました。そのひとつに、わたしがポルトガルに来た当時は離婚が認められていなかったのが、してもよろしいということに法律が変わったことです。神の前で誓った結婚は最後まで添い遂げる、実生活がそうでなくとも紙面上はそうなっていた人が多くいたようです。
わたしの実体験から宗教面での変化がはっきり見えたのは、補習校の講師をしていた頃です。
補習校はポルトの地元小学校の一部を毎土曜日に借りるのですが、ある日、あれ?と気づいたことがありました。それは、教室の大きな黒板の真上に見られていた小さなキリスト像が撤去されていたことでした。国の大きな変化はこうして教育面から変えられて行くのだと言うのを実感した出来事でした。
そして、近頃感じるその手の変化はと言うと、これまでの宗教祝日が国政のトップによって突然その年は休日にならなかったりすることです。
さて、このように変化しつつあるポルトガルですが、クリスマス、復活祭を祝うのは欧米諸国と同じく今のところ健在です。
この時期はテレビでは聖書がらみの映画、「ベン・ハー」「十戒」「聖衣」「ー偉大な生涯の物語」など、たくさん放映されてきましたが、ここ数年その本数がかなり減りました。これも時代を反映しているのでしょう。
わたしはクリスチャンではありませんが、聖書に基づく物語はスケールが大きくて、現代に通ずるものが随所に織り込まれているように思われ、興味があります。これらの物語は古代史を考察する上でも興味深い点がたくさんあると思います。
好きな本や映画は何度繰り返しても飽きない性質です。素晴らしい場面は感動を呼び覚まし、随所随所で語られる言葉は、乾いた大地に染み込む清水のようです。クリスチャニティを持たないわたしにすらこのような思いを抱かせる聖書の物語は、やはり偉大であると言わざるをえません。
ポルトガルは聖木曜日から明日の日曜日まで復活祭の週ですが、復活祭に因んで今日はわたしが調べたことをここで取り上げてみたいと思います。
「過ぎ越しの祭り」を知っているでしょうか。これは、旧約聖書を読んだことのある人なら、旧約聖書の出エジプト記に記されている出来事だと分かるでしょう。現代に至ってユダヤ民族が受け継いでいる祭りです。
エジプトのファラオの元で奴隷として扱われていたイスラエル人を、モーゼが奴隷状態から開放するよう、ファラオに願いでるのですが、王はこれを聞き入れません。モーゼは、神の導きによりエジプトに10の災いを施します。最後の災いが「人や家畜などの長子を死に導く災い」です。
この時、神の指示により、イスラエル人の家は子羊の血を「家の柱と鴨居」塗ります。(←日本の神道の赤い鳥居と重なるとの説を読んだことがある) この疫病(ビールスや病原菌)はこうして闇の中、赤い印のあるイスラエル人の家は過ぎこされるのです。
ファラオの長子もこれで死にます。哀しみに打ちひしがれたファラオはついに、イスラエル人がエジプトを出ることを認め、この後、映画「十戒」でもあるように、出エジプト記の山場「紅海」が真っ二つに割れて海を渡るのです。
ユダヤ民族の「過ぎ越しの祭り」はこの故事に由来し、モーゼと共に果たした出エジプト・「Exodus=奴隷から開放され約束の地までの40年間の長い旅」を記念して、3000年もの昔から祝ってきたのだそうです。この時期はイースト菌を入れないで焼いたパンを食べるのが慣わしです。
この由来からして、イースター、復活祭と言うのはキリストの復活を祝うだけではない、ということがわかります。キリストが生まれるそれ以前にユダヤの人々の間では「過ぎ越しの祭り=pessah=ぺサハ」として、この時期は祝されて来たことになります。
イエスは、木曜日の最後の晩餐後、彼の12使徒の一人、ユダの裏切りにあい十字架の刑を受け、復活します。こうしてキリスト教でもこの時期はイースター=キリストの復活として、受け継がれて来ました。
余談になりますが、2006年に米国ナショナル・ジオグラフィック協会が、エジプトの砂漠の洞窟で1978年に発見された、約1700年前のパピルス文書が修復されたと発表。この写本は、イエスやユダの死後100年ほどしてから書かれたものだそうです。
12使徒の一人でありながら、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切ったと言われる、イスカリオテのユダは現在でも裏切り者の代名詞です。それが、この写本では、ユダがしたことは全てイエスの指示に従ったことであり、この役割を任命されたユダは弟子達の中でも特別な地位にあった証拠だと書かれてあるそうです。
それが真実だとすれば、では、いったい誰がユダヤ人のユダを裏切り者と仕立て上げ、2000年もの昔から現在に至るまで、陰謀を計ったのか。これには政治が関係してくるのでしょうか。古今東西、宗教と政治が切り離せないとはよく言ったものです。
こうしてみると、歴史は人間の手によっていろいろに捏造されている部分があります。「イースター」一つを取って調べても分かるのですが、思うに、人間の歴史は昨日今日にできたものではなく、遡れば遥かな古代文明にさえ行き着くのです。
故に、長い歴史があるものは、有形無形に拘わらず宗教思想の違いを超えて、人類の歴史遺産として残していくべきではないかと思うのですが。
中近東の紛争で破壊される歴史的遺跡をテレビニュースで見るにつけ、思わず「ばっかだねぇ、何もかも破壊しちゃって・・・」と残念至極に思っているのは、わたしばかりではありますまい。
というところで、ただ今から、2013年に製作された「The Bible」をみます。英語版ですが、ポルトガル人俳優Diogo Morgadoが主役でイエス・キリストを演じています。夫は向かいのカフェへサッカーを観に。どっちがポルトガル人なんだか(笑)
2018.3月記
国民の大半がカトリック信者だったポルトガルですが、それも時代の流れで変わりました。そのひとつに、わたしがポルトガルに来た当時は離婚が認められていなかったのが、してもよろしいということに法律が変わったことです。神の前で誓った結婚は最後まで添い遂げる、実生活がそうでなくとも紙面上はそうなっていた人が多くいたようです。
わたしの実体験から宗教面での変化がはっきり見えたのは、補習校の講師をしていた頃です。
補習校はポルトの地元小学校の一部を毎土曜日に借りるのですが、ある日、あれ?と気づいたことがありました。それは、教室の大きな黒板の真上に見られていた小さなキリスト像が撤去されていたことでした。国の大きな変化はこうして教育面から変えられて行くのだと言うのを実感した出来事でした。
そして、近頃感じるその手の変化はと言うと、これまでの宗教祝日が国政のトップによって突然その年は休日にならなかったりすることです。
さて、このように変化しつつあるポルトガルですが、クリスマス、復活祭を祝うのは欧米諸国と同じく今のところ健在です。
この時期はテレビでは聖書がらみの映画、「ベン・ハー」「十戒」「聖衣」「ー偉大な生涯の物語」など、たくさん放映されてきましたが、ここ数年その本数がかなり減りました。これも時代を反映しているのでしょう。
わたしはクリスチャンではありませんが、聖書に基づく物語はスケールが大きくて、現代に通ずるものが随所に織り込まれているように思われ、興味があります。これらの物語は古代史を考察する上でも興味深い点がたくさんあると思います。
好きな本や映画は何度繰り返しても飽きない性質です。素晴らしい場面は感動を呼び覚まし、随所随所で語られる言葉は、乾いた大地に染み込む清水のようです。クリスチャニティを持たないわたしにすらこのような思いを抱かせる聖書の物語は、やはり偉大であると言わざるをえません。
ポルトガルは聖木曜日から明日の日曜日まで復活祭の週ですが、復活祭に因んで今日はわたしが調べたことをここで取り上げてみたいと思います。
「過ぎ越しの祭り」を知っているでしょうか。これは、旧約聖書を読んだことのある人なら、旧約聖書の出エジプト記に記されている出来事だと分かるでしょう。現代に至ってユダヤ民族が受け継いでいる祭りです。
エジプトのファラオの元で奴隷として扱われていたイスラエル人を、モーゼが奴隷状態から開放するよう、ファラオに願いでるのですが、王はこれを聞き入れません。モーゼは、神の導きによりエジプトに10の災いを施します。最後の災いが「人や家畜などの長子を死に導く災い」です。
この時、神の指示により、イスラエル人の家は子羊の血を「家の柱と鴨居」塗ります。(←日本の神道の赤い鳥居と重なるとの説を読んだことがある) この疫病(ビールスや病原菌)はこうして闇の中、赤い印のあるイスラエル人の家は過ぎこされるのです。
ファラオの長子もこれで死にます。哀しみに打ちひしがれたファラオはついに、イスラエル人がエジプトを出ることを認め、この後、映画「十戒」でもあるように、出エジプト記の山場「紅海」が真っ二つに割れて海を渡るのです。
ユダヤ民族の「過ぎ越しの祭り」はこの故事に由来し、モーゼと共に果たした出エジプト・「Exodus=奴隷から開放され約束の地までの40年間の長い旅」を記念して、3000年もの昔から祝ってきたのだそうです。この時期はイースト菌を入れないで焼いたパンを食べるのが慣わしです。
この由来からして、イースター、復活祭と言うのはキリストの復活を祝うだけではない、ということがわかります。キリストが生まれるそれ以前にユダヤの人々の間では「過ぎ越しの祭り=pessah=ぺサハ」として、この時期は祝されて来たことになります。
イエスは、木曜日の最後の晩餐後、彼の12使徒の一人、ユダの裏切りにあい十字架の刑を受け、復活します。こうしてキリスト教でもこの時期はイースター=キリストの復活として、受け継がれて来ました。
余談になりますが、2006年に米国ナショナル・ジオグラフィック協会が、エジプトの砂漠の洞窟で1978年に発見された、約1700年前のパピルス文書が修復されたと発表。この写本は、イエスやユダの死後100年ほどしてから書かれたものだそうです。
12使徒の一人でありながら、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切ったと言われる、イスカリオテのユダは現在でも裏切り者の代名詞です。それが、この写本では、ユダがしたことは全てイエスの指示に従ったことであり、この役割を任命されたユダは弟子達の中でも特別な地位にあった証拠だと書かれてあるそうです。
それが真実だとすれば、では、いったい誰がユダヤ人のユダを裏切り者と仕立て上げ、2000年もの昔から現在に至るまで、陰謀を計ったのか。これには政治が関係してくるのでしょうか。古今東西、宗教と政治が切り離せないとはよく言ったものです。
こうしてみると、歴史は人間の手によっていろいろに捏造されている部分があります。「イースター」一つを取って調べても分かるのですが、思うに、人間の歴史は昨日今日にできたものではなく、遡れば遥かな古代文明にさえ行き着くのです。
故に、長い歴史があるものは、有形無形に拘わらず宗教思想の違いを超えて、人類の歴史遺産として残していくべきではないかと思うのですが。
中近東の紛争で破壊される歴史的遺跡をテレビニュースで見るにつけ、思わず「ばっかだねぇ、何もかも破壊しちゃって・・・」と残念至極に思っているのは、わたしばかりではありますまい。
というところで、ただ今から、2013年に製作された「The Bible」をみます。英語版ですが、ポルトガル人俳優Diogo Morgadoが主役でイエス・キリストを演じています。夫は向かいのカフェへサッカーを観に。どっちがポルトガル人なんだか(笑)
2018.3月記
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