2017年10月16日
長年の友人知人には既知のことなのですが、1970年代の大阪時代はアメリカ留学の資金調達のため、梅田新道にあった「アサヒビアハウス」でわたしはパート歌姫をしていました。
その懐かしいよき時代については「あの頃、ビアハウス」と題して、当時のビアハウスに通いつめていた個性豊かな常連たちについて綴っています。
わたしの古巣「梅新アサヒビアハウス」は今では建て替えられたビルの同じ場所に「アサヒスーパードライ梅田」と名を変え、ビアソングが聴ける店として、往時の名残を少しだけとどめています。
が、目をつぶると浮かんでくる我が梅新アサヒビアハウスは、古い大理石の柱と手当てが行き届きピカッと光った年期の入った木製のテーブルと椅子、春秋常連たちで賑わうホール、アコーディオンとリズムボックスの小さなステージ、歌姫が歌うオペレッタ、ビアソング、その合間を縫ってカンツォーネやオペラのアリアを歌う常連たちの姿で溢れていました。
あれは、あの時代は幻想だったのか?と40年もたった今、ふと自分に問うてみたりします。ポルトガルでの日々は歳をとるごとに忙しくなっているような近頃のわたしですが、梅新アサヒビアハウスをひと度思い出すと諸々の思い出に一気に襲われ、しばしわたしを離すことがありません。
昨日のことです。フェイスブックでつながっている知人が投稿したYahooニュースに、え!と驚かされました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171015-00000030-mai-spo
<訃報>葉室三千子さん97歳=マスターズ水泳世界記録保持、とありました。
ご主人の葉室鉄夫先生とともにアサヒビアハウスの常連の一人で、皆して葉室ママと呼んでいたのでお名前が「三千子」さんだったなど知りませんでした。ご主人の葉室先生2005年にお亡くなりになっており、その後の葉室ママは「マスターズ大会(60歳以上を対象としたスポーツ大会)」で活躍なさっており、2014年には100メートル平泳ぎ95~99歳の部で世界記録を果たされたとのこと。このニュースを目にするまでわたしは全く知りませんでした。
葉室ママにはアサヒビアハウスで時々声をかけていただきましたが、親しいお付き合いはないのですが、ビアハウスでは、むしろご主人の葉室先生とよく歌をデュエットした思い出が大きいです。
今日は葉室ママを偲んで、直接の思い出ではありませんが葉室先生との思い出を再掲したいと思います。以下。
「あの頃、ビアハウス:知床旅情」
「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒビアハウスでよく歌った歌である。この歌はわたしの青春の彷徨の歌でもある。
数十年たった今でも「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。
♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば~
アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「♪君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。
だきしめんと~で、こういう具合に↑笑
加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。
大学進学を諦めきれずグズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではありますが。
spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて汽車で札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは札幌の豊平川のほとりで生まれて初めて野宿とやらを経験するのでした^^;
川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。 芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・
札幌には一月ほどいました。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。
ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ北海道から広まった歌だと聞く。
やはり、であります。「地の涯に生きるもの」は遠い昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。
♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・
わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。
葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。
2005年10月31日(月曜日)(1)
今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。
「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。
葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話しすることができました。
温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生がいらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。
「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです。いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、先輩歌姫の宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのサービスなのです。
奥様ともよくいらっしゃいました。
左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。
毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生です。
1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト
何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で間近にヒットラーに会ったと言うことに触れておられました。
今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。
知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと天上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)と杯をあげていることでしょう。
フェイスブックでつながっている件の知人とは、「また一人アサヒビアハウスの常連スターが逝かれましたね。
今頃、葉室ママを迎えてさぞかし天上のビアハウスは賑わっていることでしょう」と話したのでした。
あの頃の常連さんたち4分の3は天界で毎晩「Ein Prosit」と杯をあげているのが目に浮かぶようです。
葉室ママ、そしてみなさん、またあちらでお目にかかりましょう。
長年の友人知人には既知のことなのですが、1970年代の大阪時代はアメリカ留学の資金調達のため、梅田新道にあった「アサヒビアハウス」でわたしはパート歌姫をしていました。
その懐かしいよき時代については「あの頃、ビアハウス」と題して、当時のビアハウスに通いつめていた個性豊かな常連たちについて綴っています。
わたしの古巣「梅新アサヒビアハウス」は今では建て替えられたビルの同じ場所に「アサヒスーパードライ梅田」と名を変え、ビアソングが聴ける店として、往時の名残を少しだけとどめています。
が、目をつぶると浮かんでくる我が梅新アサヒビアハウスは、古い大理石の柱と手当てが行き届きピカッと光った年期の入った木製のテーブルと椅子、春秋常連たちで賑わうホール、アコーディオンとリズムボックスの小さなステージ、歌姫が歌うオペレッタ、ビアソング、その合間を縫ってカンツォーネやオペラのアリアを歌う常連たちの姿で溢れていました。
あれは、あの時代は幻想だったのか?と40年もたった今、ふと自分に問うてみたりします。ポルトガルでの日々は歳をとるごとに忙しくなっているような近頃のわたしですが、梅新アサヒビアハウスをひと度思い出すと諸々の思い出に一気に襲われ、しばしわたしを離すことがありません。
昨日のことです。フェイスブックでつながっている知人が投稿したYahooニュースに、え!と驚かされました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171015-00000030-mai-spo
<訃報>葉室三千子さん97歳=マスターズ水泳世界記録保持、とありました。
ご主人の葉室鉄夫先生とともにアサヒビアハウスの常連の一人で、皆して葉室ママと呼んでいたのでお名前が「三千子」さんだったなど知りませんでした。ご主人の葉室先生2005年にお亡くなりになっており、その後の葉室ママは「マスターズ大会(60歳以上を対象としたスポーツ大会)」で活躍なさっており、2014年には100メートル平泳ぎ95~99歳の部で世界記録を果たされたとのこと。このニュースを目にするまでわたしは全く知りませんでした。
葉室ママにはアサヒビアハウスで時々声をかけていただきましたが、親しいお付き合いはないのですが、ビアハウスでは、むしろご主人の葉室先生とよく歌をデュエットした思い出が大きいです。
今日は葉室ママを偲んで、直接の思い出ではありませんが葉室先生との思い出を再掲したいと思います。以下。
「あの頃、ビアハウス:知床旅情」
「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒビアハウスでよく歌った歌である。この歌はわたしの青春の彷徨の歌でもある。
数十年たった今でも「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。
♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば~
アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「♪君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。
だきしめんと~で、こういう具合に↑笑
加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。
大学進学を諦めきれずグズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではありますが。
spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて汽車で札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは札幌の豊平川のほとりで生まれて初めて野宿とやらを経験するのでした^^;
川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。 芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・
札幌には一月ほどいました。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。
ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ北海道から広まった歌だと聞く。
やはり、であります。「地の涯に生きるもの」は遠い昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。
♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・
わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。
葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。
2005年10月31日(月曜日)(1)
今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。
「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。
葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話しすることができました。
温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生がいらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。
「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです。いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、先輩歌姫の宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのサービスなのです。
奥様ともよくいらっしゃいました。
左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。
毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生です。
1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト
何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で間近にヒットラーに会ったと言うことに触れておられました。
今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。
知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと天上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)と杯をあげていることでしょう。
フェイスブックでつながっている件の知人とは、「また一人アサヒビアハウスの常連スターが逝かれましたね。
今頃、葉室ママを迎えてさぞかし天上のビアハウスは賑わっていることでしょう」と話したのでした。
あの頃の常連さんたち4分の3は天界で毎晩「Ein Prosit」と杯をあげているのが目に浮かぶようです。
葉室ママ、そしてみなさん、またあちらでお目にかかりましょう。
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