承前;西村氏の小説で随分妙なことばを使うなと思った。ところが車谷長吉氏の小説を読むと西村氏どころではない。いたるところで訛りまくっている。これは一種の自己主張なんだろうね。
しかし、ほとんど、あるいはまったく、意味が無いように思える。無理して差異化しているとしか見えない。あるいは自分の文章にハンコを押して著作権を主張しているのか(文体一目瞭然化ネ)。犬が往来のいたるところで電信柱などに小便をかけている。自分の匂いをつけて縄張りを主張しているのだが、あれと同じじゃないか。稚戯を感じる。
ことさらに選ぶ言葉の選択に必然性や意味はほとんどの場合に感じられない。
車谷氏の作品を読んでみるとまだ、西村氏の文章のほうがその点では抑制されている。
この間読んだ大正時代の葛西善蔵の小説には、そういった違和感は全く感じなかった。そうすると、この言葉の選択についての違和感は現代の「私小説」に特有なものなのか。
私は葛西氏の同時代の私小説作家から昭和前期、戦後から現代にいたるまでの私小説作家の文章にほかに接したことがないから、現在のような異様な状況がいつから発生したかつまびらかにすることは出来ない。
もっとも、程度の差はあれ、最近はエンターテインメントでも、はたまた、きとこわ作者にもそのような意味のない衒いを感じてはいるが。それを極端に体現したのが車谷氏なのか。
つづく