穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

犬のションベンと私小説の文章

2011-02-20 19:32:29 | 芥川賞および直木賞

承前;西村氏の小説で随分妙なことばを使うなと思った。ところが車谷長吉氏の小説を読むと西村氏どころではない。いたるところで訛りまくっている。これは一種の自己主張なんだろうね。

しかし、ほとんど、あるいはまったく、意味が無いように思える。無理して差異化しているとしか見えない。あるいは自分の文章にハンコを押して著作権を主張しているのか(文体一目瞭然化ネ)。犬が往来のいたるところで電信柱などに小便をかけている。自分の匂いをつけて縄張りを主張しているのだが、あれと同じじゃないか。稚戯を感じる。

ことさらに選ぶ言葉の選択に必然性や意味はほとんどの場合に感じられない。

車谷氏の作品を読んでみるとまだ、西村氏の文章のほうがその点では抑制されている。

この間読んだ大正時代の葛西善蔵の小説には、そういった違和感は全く感じなかった。そうすると、この言葉の選択についての違和感は現代の「私小説」に特有なものなのか。

私は葛西氏の同時代の私小説作家から昭和前期、戦後から現代にいたるまでの私小説作家の文章にほかに接したことがないから、現在のような異様な状況がいつから発生したかつまびらかにすることは出来ない。

もっとも、程度の差はあれ、最近はエンターテインメントでも、はたまた、きとこわ作者にもそのような意味のない衒いを感じてはいるが。それを極端に体現したのが車谷氏なのか。

つづく


生産者の顔が見える私小説

2011-02-20 17:51:39 | 芥川賞および直木賞

スーパーなんかの野菜とか生肉なんか、産地直送とか生産者の顔が見える商品なんていうと、高い値段をつけても消費者は文句も言わずに買っていく。

「私小説」なんていうレッテルも同じだね。どうもペテンくさい。私が西村賢太氏の小説を褒めたのは別に私小説だからではない。どうも妙な風潮なのでここいらでチェックを入れておこう。ランターン・ベンダーおっと提灯屋と間違えられてもこまるからね。

ところで現在私小説作家は希少品種らしい。だからこそ惹句として値打ちがあるのだろう。

現在では西村氏と車谷長吉氏が貴重な個体らしい。そこで、直木賞を取った「赤目四十八瀧心中未遂」を読んだ。たしかにうまい作品だが、これを私小説とラベルを貼って売りだす必要があったのだろうか。

文春文庫だが、川本三郎氏の解説がすごい。私小説という言葉が何回出てくるか。川本氏というのは文芸評論を鬻いでいるいるのだろうが、妙な文章だ。ま、どうでもいいが、永井荷風と比較するのはやめてほしいね。全然関係ない。つづく