穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「白痴」試薬としてのムイシュキン

2011-07-02 08:49:52 | ドストエフスキー書評

p303における仮説::ムイシュキン公爵は美しい人、純真な人、キリストのような人ということになっている。

公爵は主人公であるとともに、ナレイターであり観察者である。また、測深器でもあり、試薬でもあり、触媒でもある。自分自身は変わらず、他の材料に投入した途端に物体を変化させる。隠れた物質の本質を色分けする。

試薬はそれ自身は不変でなければならない。すなわち「空気が読めて」自分自身が変化しては話にならない。てなところがドストがムイシュキン人形を操作するために固定した役割ではないか。

この仮説のもとに読み進めたい。この仮説に立つと、ムイシュキン公爵は主役ではなく、一貫して舞台に立つ黒子である。属性を持たない、述語を持たない絶対者に近い「概念」となる。