近代ではどこに行っても自我という名の犬が付いてくる、とあきらめ気味に喝破したのはニーチェであった。困ったものである。
さて、オースターの小説であるが、買い求めた作品でまだ読んでいない後期の作品が三つほどあるが、どうも覗いてみても読書の感興が湧かない。そこで初期の「ガラスの街」と「幽霊たち」を読み返した。歯ごたえがあるね。腹持ちがいい。
この二作品は自我に関する寓話ではないか。好き嫌いでいうと「ガラスの街」のほうがおもしろい。自我という幽霊が自分から染み出して外界に浮遊する。固定観念になって反射してきて(折れかえって)自分に帰ってきて取り付く。
作品としてはガラスの街のほうがよくできているが、テーマはまだあいまいなところがある。主人公のクインはミステリー作家のウィルソンと、その作品の主人公である探偵のワーク、そしてポール・オースターという間違い電話の探偵という三つの分身を持っている。
そしてスティルマンという男を尾行しているうちにこの男とも一体化する。これは分身小説の範疇だね。ただ、「幽霊たち」に比べるとまだテーマは判然と浮かび上がってこない。
最後の部分、尾行していたスティルマンを見失ってから人格が崩壊していく過程はまだ筆力が未完成である。それに比べると「幽霊たち」は叙述に統一性がある。ブルーとブラックは分身同士である。最後は一方の分身が他方の分身を我慢出来なくなって殺害して新天地を求めて行方知れずになるのである。つまり自己嫌悪である。
これらの作品については書評を当たってみたがどうも腑に落ちるものが見つからなかった。インターネットでも探したが中途半端なものばかりだ。もっとも検索の仕方が悪かったのかもしれない。